第2話

「ねぇ、君は何を描いているの?」

 その少女は、何がそれほど楽しいのかわからないほど、弾んだ笑顔を浮かべていました。

「……」

 少年は、チラリと少女を見ると、その楽しそうな笑顔を訝しげに見つめました。少女はそんなことを気にも止めず、少年の描いているキャンパスを見て、ふっと夜空を仰ぎ、首を傾げました。

「ねぇ、これは夜空を描いているの?」

 少年は意外なことを言われ、目を瞬かせると、ふるふると首を横にふります。

「違うよ。これは、僕のー」

「こんなに綺麗な夜色なのに?」

 何時ものように答えようとした言葉を遮って発せられた少女の言葉に、少年は呆然としました。

「何を、…言って…」

「だって、毎晩此処に来ているのでしょ?この夜空の下に君は来て、この夜空の下で君は描いているんでしょ?」

「…それは、…」

 少年はポツリと呟きます。とてもたどたどしく、戸惑った様子を隠しもせず、少女から目を反らしながら。

「それ、は、ただ……僕の世界が似ていたから、で…この夜空の暗さが、黒さが……空っぽさが…」

 少女はもう一度空を仰ぎ、不思議そうに目を瞬かせました。

「似ているの?君の世界に」

「“何も見えない”が、似ているから。僕はそれを描いたんだ」

 こんな風に話されたのも、こんな風に尋ねられたのもはじめてで、少年は俯いてしまいました。

 そんな少年を見て少女は微笑み、ただ、


「“何も見えない”は、嘘だよね?」


 と、一言。

 少年が意味が掴めず眉根を寄せているのをよそに、少女は楽しげに、少年の黒だけがのるパレットの上に黄色い絵の具を落としました。その原色のままの黄色は、目にも鮮やかなものでした。

 少女は筆を一本とると、筆先を黄色で染め、

「あっ!」


 ー楽しそうに、キャンパスへ。


「ねぇ、ちゃんと、見えているよね?」


「……」

 描かれたのは、ひとつの星。

 お世辞にも、決して上手いとは言えない、それは幼く、何も混ざらない、光の色でした。

 少年は、少女の描いた星を見つめ、そのままぼんやりと空を見上げます。

 少女がまた、微笑う気配を感じました。

「こんなに綺麗な夜色が見えるんだよ。なら、同じように其所に在る、星も月も、ねぇ、見えるでしょ?」

「……」

 されど、はじめて気づいたように、少年はそれらをじっと見つめるのです。その輝きを見つめたまま、だけど、と。

「だけど、僕の世界は、」

 スッと瞳を細めて、自分の描いた黒の上にぽっかりと浮かぶ少女の星を見て、少年はまるでそんなものは似合わないとでも言うように、頭をふります。

 すると、少女は不満気に少年に言います。 

「どうして?黒の上には星が在るのに、月が在るのに。ソレを無いものにするなんておかしいよ。変だよ。見えているのに、見ないの?」

「…だって、僕には分からない。僕の世界は、夜空に似ていたけど、似ていなかったよ」

 少年はふっと微笑みました。それはあまりにも大人びた、諦めたような笑顔で。幼い少女は幼い言葉を、更に不満そうに重ねました。

「おかしいわ。そんなものはどこにもないのだわ。“何もない”はないし、“何も見えない”はないのだわ。分からなくてもそこに在るのに」

 少女はじっと少年を見つめ、睨むように見つめました。大人びた少年を責め立てるように子供の少女は尋ねるのです。

「似ていると思ったのは何故?」

「…暗くて、黒くて、空っぽ、だから…」

 少女はスッと瞳を細めます。

「だったら、ねぇ、気づくべきだよ」

「……」

 少女はまた楽しそうに微笑み、大きく両手を広げました。

 まるで世界のすべてを抱くように、世界のすべてを受け入れるように、世界の全てを愛すような笑顔を携え。

 ただ高らかに、高らかに、世界の片隅でその声は、少年にのみ、響くのです。

「ねぇ、その絵に“ヒカリ”を描いて見せて?君の見る、君の世界の“ヒカリ” を見せて!夜空に星が、夜空に月が、ねぇ、なら君の世界の“ヒカリ”はなぁに?」

 そしてそれが楽しみだと少女は笑うのです。


「君の描いた光の世界を見せて!」


 ソレはあまりに純粋な、諦観も妥協も許さない声。

 絶望も希望もくるんでしまう、コドモらしい、声。

 怯えたコドモに見えなくて、無理解のオトナに見えなくて、嘆いてばかりのオカアサンに見えなくて、されど少女が綺麗だと言い、理解をし、光で魅せた、少年の世界のスガタ。

 まるでーーー


「絵空事、みたいだ…」


 ポツリと少年は呟きます。

 どこか乾いた声で笑い、少年は瞳を細めました。

「嘆きも、苦しみも、悲しみも、痛みも、慈しみが、楽しみが、優しさが、労りが、全部くるめばどれ程楽だろう?絶望が希望と生きるなら、希望が絶望と生きるなら、世界は何て、悲しくて、残酷なんだろう…」


 ー空っぽにも、なれなくて。


「なのに、“ヒカリ”で魅せるなんて、なのに、“ヒカリ”に惹かれるなんて、なのに、幸せを描くなんて、まるで、まるでーー絵空事」

 瞳が潤むのです。痛んで仕方がないのです。

「それでも希望を、だって…。世界は哀しいね、コドモは哀しいね、オトナは哀しいね、でも……」

“空っぽ”なんかよりも、優しくて仕方がなくて。


「その絵空事を描いてみたいんだ」


 ぽろり、と涙が伝った頬の先で、少年に唇がゆるかに、弧を描きました。

 それはコドモのような、オトナのような、泣き笑いで、少女の笑顔にも、お母さんの泣き顔にも、よく似ていたのです。

 少年はそんな表情を隠しもせず、ただ涙を落として、首を傾げました。


「ねぇ、君も一緒に描いてくれる?」


 少女の答えは、あの楽しくて仕方がないというような笑顔でした。


 ━†━


 青い空は、どうしようもなく綺麗で、太陽の光はただただ眩しくて、少年は瞳を細めました。そして、

「ねぇ、」

 かたわらのお母さんにそっとささやきます。どこか暗い表情のお母さんは、疲れた笑顔でそれにこたえました。

 少年はふっと微笑みます。。


「僕は、お母さんが好きだよ」


 コドモなのか、オトナなのか。あの日以来、そんな表情が少年の顔を覆うのです。それを見た大人は、子供じみた微笑みを浮かべて、少し泣きそうな瞳で頷きました。それは“お母さん”の表情で…。

「その絵のタイトルはなんていうの?」

 慈しむように尋ねるのです。

 少年は、少し嬉しそうに。子供が自慢をする時の、年相応の微笑みで、明るい声で言いました。


『絵空事キャンパス!』


 重なった、少女の声。笑い会う子供の姿。

 少年と少女の筆の先には、夜闇に舞う光の絵がありました。


 End

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絵空事キャンパス 空言 @esoragoto

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