絵空事キャンパス

空言

第1話

 その少年は、大きな大きな、真っ白なキャンパスを持っていました。


 ━†━


 ある晴れた青空の日に、少年は言いました。

「お母さん、僕はこのキャンパスに、僕の世界を描くよ」

 少年は、とても絵の上手な子だったので、お母さんは、それはとても素敵ね、と笑いました。

「きっと、綺麗な色の明るい絵になるわね」

 少年は無表情に首を横にふります。


「ううん、真っ暗だよ」


 その日の夜に少年は、キャンパスを抱えて外に出ました。

「今から絵を描きにいくのかい?何を書くんだい?」

「僕の世界を描くんだよ、お隣のおじさん」

 お隣のおじさんは不思議そうに首を傾げました。

「こんな暗い夜じゃ、何も見えないよ?」

 少年は無表情に頷きます。


「うん、“何も見えない”を描くんだよ」


 少年は、街のはずれの小高い丘の上にキャンパスを広げます。

 真っ暗の空の下、誰もいない場所でひとり、少年は筆を取り出し、パレット上に“黒”をのせ、ただひたすらにキャンパスを塗り潰すのです。

 何度も何度も、ただ“黒”を。

 日の沈んだ夜闇の中で、毎晩毎晩。

 黒く、黒く…。


 ━†━


 ある晩、同い年の少年が、丘の上にやってきました。

「ねぇ、何を描いているの?」

 純粋な好奇心でくるくるとした、幼い瞳が尋ねます。

 絵を描く少年は、幼さに似合わない冷めた瞳で、一瞥し、そのままキャンパスに筆をはしらせました。

「僕の世界を描いているのさ」

 パチパチと、幼い瞳が瞬きます。

「真っ暗だよ?」

「真っ暗さ」

「怖いよ」

「そうでもないさ」

 怯える眼差しには興味がないように、少年は筆で描き続けます。

 もっと暗く、もっと暗く…。


 次の夜、お隣のおじさんがやってきました。

「“何も見えない”は描けたかい?」

「描いているよ」

 お隣のおじさんは少年の描いているものを覗きこみ、訝しげな表情になると、

「真っ暗じゃないか」

 と、気味悪そうに言いました。それはただの黒というよりも、不安をかきたてらるような、底知れぬ闇のような、そんな黒い絵でした。

 少年は、更に筆を重ねながら、平然とした口調で言います。

「そうだよ、僕の世界さ」

 お隣のおじさんは、今度は少年を、気持ち悪そうに見ました。

 少年は、くだらないモノを見るようにその目を細め、また描き続けます。

 もっと黒く、もっと黒く…。


 更に次の夜。お母さんが困ったような表情で、少年を見つめました。

「どうしてそんな絵を描くの?空っぽじゃない」

「だって、僕の世界だから」

 お母さんの言葉に一瞬だけ筆をとめて、それでもまた淡々と、何事もなかったように少年は手を動かします。

「それが、貴方の世界?こんなのが?」

「そう、だよ…」

 お母さんの悲しそうな視線が少年を突き刺すのです。けれど、

「これが、僕の、世界」

 少年は自分で自分の言葉を確認するように、ことさらゆっくりと話しました。するとお母さんは感窮まったのか、


「何て、可哀想なコドモでしょう!!」


 と叫んだかと思うと、さめざめと泣き出しはじめました。

 今度こそ、少年の筆がピタリと止まります。

「可哀想…?」

 口の中だけで小さく呟いた少年は、眉根を寄せ、瞳を細めるという奇妙な表情でお母さんを見やりました。幼い少年に似合わない、あまりに複雑な表情は、どこか泣き出しそうに見えましたが、お母さんは自分の涙に溺れて、見えてはいないようでした。

 少年は、1度かたく目を閉じると、また淡々と筆をとるのです。

 もっと、空っぽに、もっと、もっと空っぽに…。


 そうして、少年の絵が出来上がりに近づくある日のこと。少年と同い年くらいの少女がやってきたのでした。

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