養母~延子の章

みや

養母~延子の章

「お養母かあさま、どうしましょう」

 延子えんしは、傍らの脩子しゅうし内親王に語り掛ける。

 今日は、延子の入内じゅだいの夜だった。


   ☆


 ずっと、延子は、父・頼宗よりみちに、

『お前は、主上しゅじょうのもとに入内するのだ』

 と言い聞かされて育ったし、今思えば、母の従姉妹である脩子内親王に自分の養育を依頼したことも、その布石であったのだろう、と思う。


 だが、本当に入内することは、今の主上が中宮を亡くした時に具現化した。

 父・頼宗は、養女である中宮ちゅうぐうを亡くした関白・頼通よりみち――頼宗にとっては異母兄にもあたる――に擦り寄り、入内を実現化させたのだ。

 頼通は、実の弟であり政敵の、内大臣・教通のりみちの娘である生子せいしが入内したことがとにかく気に入らないらしく、そのけん制のため、延子の入内を承諾したという。

(関白さまに年頃の娘御がいたら、違っただろうに)

 延子はそう思う。頼通には、実の子は、今は入内できない幼い娘がいるだけだった。


「お養母さま」

 延子は養母である脩子内親王に擦り寄る。そして胸に頭をうずめた。

 脩子内親王は出家しているため、尼そぎで僧衣に身を包んでいた。胸からは香の香りが漂う。

「まぁ、どうされたの。姫。幼い子のようですよ」

 脩子は軽く笑う。

 延子は、目を瞑った。

「不安なのです。この邸から出て、人の妻になるということ、主上のきさきになるということが――私、不安でたまらなくて」

 もう二十七歳であるのに、恥ずかしいのですけど、と延子は続けた。

「ずっとずっと不安なのです。どうしたらいいのか、本当にわからなくて」

 そう訴える延子の髪を撫でながら、脩子は慰めるように明るく言った。

「私は、人の妻になったことがない身だから、わからないけれど」

 そう言った後、脩子は延子をぎゅっと抱きしめた。

「あなたには、誰の妻になっても恥ずかしくない教養、たしなみ、すべてを教えたつもりです。どこに行っても恥ずかしいことはありませんよ?」

 それに――、と脩子は続ける。

「弟の主上は、明るくて優しいかたです。政には時に厳しい目を向けることがあると聞きますが――異母姉である私にはいつも、そんな目は向けず、優しいかたです。安心していいと思いますよ?」

 そう言った後、脩子はいたずらっぽく笑った。

「それに、私もあなたの入内についていきますし、その時に、主上によく言っておきましょう」

「お養母さま、それはいやだわ」

 延子は慌てて言う。

「ますます恥ずかしいもの」

 そんな言葉に、脩子はまた笑って、延子の目を覗き込んだ。

「不安になるのはもっともなことです。知らないかたの妻になるのですから。でも、私は、あの主上――弟は、あなたの夫とするのに、足りる人だと思いますよ」

「養母上……」

 延子はまた脩子の胸に顔をうずめた。


 幼いころから、ずっと脩子の養育を受けてきた。

 もちろん、文化、教養の師であったけれど、それ以上な――本当の母のような存在だった。

 庭で積んだ花を差し伸べて微笑んでくれた。

 美しい髪になるように、と髪を削いでくれた。

 雷が怖くて泣いたときは、今のように胸に抱きしめてくれた。

 そんな養母とこれからは離れて住む――そして、自分が誰かの妻になることでなにかが変わってしまうようで、とても怖かった。


   ☆


 その夜、延子は脩子や女房に付き添われて、内裏に上がった。

 局に賜った麗景殿れいけいでんの美しさに不安になりつつあっけにとられていると、傍らの脩子が厳しい顔をしているのがわかった。

「お養母さま?」

 その顔に驚いて、延子は声をかける。

 延子の声にはっとしたように、脩子は慌てて笑顔を作った。

(――お養母さまのあの顔、どこかで見たような……)

 不安になっていた気持ちを忘れ、延子は過去を思い巡らす。

(そうだ、あの時だわ)


 延子が小さい頃、まだ脩子が出家する前だったように思う。

 脩子の膝の上で横になりうとうとした延子の髪を撫でながら、脩子は口を開いた。

「内裏は戦場なのだわ。お母さまもお父さまも、飲み込まれて死んだ……」

 延子は、発せられた言葉の禍々しさに驚いたが、すぐに眠くなりそのまま眠ってしまった。

 あれは、脩子が久しぶりに内裏に上がる、前の日だった。


 脩子の母である皇后・定子は、藤原道長ふじわらのみちながの権勢に押され、花のように散って亡くなった。

 脩子の父である一条院は、主上の身でありながら、道長の権勢により、思うに任せないことが多かったらしい。

 それを、延子は脩子の言葉の端々から知っている。


(――内裏は戦場)

 延子は、背筋に芯が入ったような気になった。

(私に足りなかったのはこれなのだわ)

 彼女は思う。

(――『覚悟』だわ)


「どうしたの、姫?」

 脩子内親王が訝しげに声をかける。

「――いいえ。お養母さま。私、絶対に父上のため、主上のために、立派な子を、産んでみせますわ。私に求められていることを、果たしてみせます」

 延子は微笑んだ。

 その笑みに、今までの不安はなかった。

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養母~延子の章 みや @moromiya06

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