きみの嘘、僕の恋心◇婚約破棄

八重垣ケイシ

きみの嘘、僕の恋心◇婚約破棄


「婚約を破棄しよう、シルビア」


 一人の男が静かに語るのを、シルビアは驚いた顔で見る。


「何を言い出すの? ケイン?」


 郊外の静かな家の中、三ヶ月の間二人きりで過ごした小さな家の中で、シルビアとケインは共に悲しげな顔で話をする。


「ケイン、何があったの? 急に婚約を無かったことにしようなんて」

「急に、か。シルビアには急に見えるのか?」

「私、何かしてしまった? それともケイン、私の他に好きな女でもできた?」

「シルビア、君のことは愛していた。いや、今も愛している。僕も信じたくは無かった」

「ケイン、何を言っているの?」


 シルビアの言葉にケインは顔を上げる。悲しげな瞳でシルビアを見る。

 付き合い初めてから半年、婚約をして同棲しこの小さな郊外の家に住むようになってから三ヶ月。

 都会から離れた田舎、近くの町からも離れたところで二人きり、ケインとシルビアは仲睦まじく暮らしていた。

 ケインは信じたくは無かった。だが、調べて見ればシルビアの経歴は偽装されたものだった。


「結婚を前にいくつか調べてみた。シルビアのことを」

「ケイン、私の過去は詮索しないって、約束してくれたじゃない」

「約束を破ったことは謝ろう。だけど、シルビアのことを知りたかった。僕はシルビアのことを知った上で、受け入れるつもりだった。だが……」


 テーブルを挟み、椅子に座ったまま語り合う二人。ケインはポケットから取り出したメダルをひとつテーブルの上に置く。黄色い色の不思議な文様のあるメダル。一見して骨董品のような、しかし何処の国のものかは解らない黄色のメダル。


「どうして、シルビアのバッグにこのメダルがあったんだ?」

「それは……」


 シルビアの顔色が変わる。何故、ここにこれが、と驚くシルビア。その顔を見てケインは確信する。


「シルビア、どうしてこのメダルを盗んだ?」

「……」

「他のものには手をつけず、金目のものは盗まれてはいない。シルビアが盗んだものはこの古ぼけたメダルがひとつだけ。それは、このメダルが何か、シルビアは知っているということだ」

「……ケイン、いつから疑っていたの?」

「僕のような男に、どうしてシルビアのような美人が惚れたか、ずっと疑問には感じていたさ」

「ケイン、さては、あなたの友達ね?」

「友達、と言うか同胞さ」


 シルビアの目がスッと細くなる。


催眠ヒュプノの効きが甘かったのかしら? それとも何か対抗手段を用意していた? 気がつかなかったわね」


 大人しく控えめな淑女レディの仮面を捨てて、シルビアはニヤリと笑みを浮かべる。


「大人しく恋の夢に溺れていれば良いものを」

「それがシルビアの本心か?」


 ケインは失望と同時に僅かな安堵を得る。信じられないとも思いつつも、やはりそうなのか、とも思う。

 シルビアは理想の彼女だった。ケインが夢に思い描くような、ユーモアがありケインとは音楽と本の趣味が似ている。好きな本のことを語り合うのに時間を忘れて熱中した。

 それが全て、ケインを騙す為の嘘だった。


「シルビア、それが演技を止めた君の本性なのか?」

「できればもう少し探りたいところだったのだけど」

「シルビア、君がどこの手のものか、どこの結社に所属するものか、これから調べさせてもらう。このメダルを知る者はただ者じゃあるまい」

「ケイン、もと婚約者の恋人を拷問にでもかけようと言うの?」


 薄くニヤニヤと笑うシルビア。こんな顔もできるのか、いや、これが今まで隠していた本性なのか、とケインは恋を失っていく音を聞く。これまでのシルビアとの思い出が色褪せていく。

 シルビアが椅子から立ち上がるのをケインは止める。


「シルビア、この家の周りは我が同胞が既に囲んでいる。ここからは逃げられない」

「謀るつもりがこの私が騙されていたというのね」


 シルビアは椅子から立ち上がり、後ろに下がる。片手を高々と上げてケインを睨む。


「捕まる訳にはいかないわ。手段を選んではいられない。ケイン、私を追い詰めようとしたことを後悔しなさい!」


 シルビアは片手を差し上げたまま、その口から朗々と言葉を吐く。


 いあ! しゅぶ=にぐらす! 

 千匹の仔を孕みし森の黒山羊よ!

 いあーる、むなーる 

 うが なぐる 

 となるろ よらならーく しらーりー!


 いむ ろくなる のいくろむ! 

 のいくろむ らじゃにー! 

 いあ! いあ! しゅぶ=にぐらす!

 となるろ よらなるか! 

 黒山羊よ! 森の山羊よ! 

 我が生け贄を受取り給え!


「シルビア! お前は地の者か!」


 ケインもまた跳びすさる。シルビアの奇行に驚きながらも、その意味を知るケイン。なぜならケインもまた禁断の知識に足を踏み入れる者。

 ケインはその手に持つ黄色のメダル『黄の印イエローサイン』をシルビアに突きつけるようにして言葉を紡ぐ。


 いあ! いあ! はすたあ!

 くふあやく ぶるぐとむ

 ぶるぐらとん ぶるぐとむ!

 あい! あい! はすたあ!


 シルビアとケイン、二人の唱える呪文に応えるように世界が歪む。禁断の知識の果て、宇宙の深淵を覗く裂け目から、狂気に満ちた冒涜的な存在が顕現しようとする。

 それは人が目にするだけで正気を失う次元の違う存在。遥かな過去に異星の狭間へと封じられた、知られざる旧支配者グレート・オールド・ワンズ、その眷属。

 シルビアは狂笑と共にその名を叫ぶ。


「顕れよ! 黒い仔山羊! シュブ=ニグラスの落とし子よ!!」


「迎え撃て! 双子の卑猥なるものツァール&ロイガー!!」


 あまりにも冒涜的な、忌まわしき不浄の気配を纏い、この世にあっては為らぬ封じられた狂気の悪夢が、異界の扉をこじ開け滲み出るように現れる。


 一説に寄れば、千匹の子を孕みし森の黒山羊、シュブ=ニグラスとは名付けられざるものの妻とされる。名付けられざるものと呼ばれる旧支配者ハスターの妻がシュブ=ニグラスであるとも。

 双子の卑猥なるものツァール&ロイガーとはこの二柱の旧支配者の子とも呼ばれている。


 ハスターを崇める風のもの、ケイン。

 シュブ=ニグラスを崇める地のもの、シルビア。

 この二人が惹かれ会い、愛し合い、そして争う定めとなったのも、深淵なる宇宙の法則から導かれた二人の運命だったのかもしれない。


 今、二人の婚約破棄を切っ掛けに、次元の壁を越えて、起きては為らぬ悪夢がこの世界を浸食せんと目覚めて蠢きはじめる。

 

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きみの嘘、僕の恋心◇婚約破棄 八重垣ケイシ @NOMAR

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