夏の呉羽
夏山茂樹
柚木藍という男の初恋
むかし、私は飛騨山脈が見下ろす街に住んでいた。山に入ると戦国時代にあった城の遺跡があり、よくそこで友人と遊んでいたのだが、私は決してそのことを両親に言うつもりはなかった。いや、できなかった。
父は京都の大学を出てすぐ就職のために移住してきた人間で、勤めている会社の社長令嬢だった母と恋愛結婚した。祖父である社長が反対したにもかかわらず、だ。それでも父は祖父に納得してもらおうと、血反吐を吐きながら営業成績を上げて、そのおかげで会社は大きく成長した。
やっと祖父が満足しようとしたときに私が生まれたものだから、初孫の誕生を彼は複雑な気持ちで迎えたのだろう。私の将来のために、呉羽山の麓にある町で一番大きな土地を購入して一番大きな邸宅を建ててくれた。
そして家庭教師をつけて、私は色々なことを知るきっかけを作ってもらった。そんな中、ある日家庭教師の秋山先生は、私に呉羽山から町を見下ろすように建っていた城のことを教えた。
その日は秋山先生の娘さんと彼女、そして私とで山に登って遊んでいた。数段の階段を降りて、広がる真っ平らな広場は夏の訪れを告げるかのように青く茂っていて、それでいて北陸の寒い場所だったからだろうか。爽やかな自然の匂いを風が運んできて空気が美味しい。
「せんせー、どうしてこんなにこの町は涼しいんですか? 東京はじめったいってニュースでやってましたよ?」
すると秋山先生が視線を私に合わせて、子供にとって難しい言葉を教えながら私に笑いかける。赤く塗った唇の間から見える白い歯が、私の中で妙に印象に残っている。
「それはね。湿度といって、ジメジメの具合を測るものがあるの。湿度が高いほどじめったいんだけど、ここは山の連なりが太陽を遮るから涼しいのよ」
すると、彼女の娘が私の手を引っ張って走り出す。私は彼女に合わせながら走っていくが、だだっ広い広場を見てふと思った。ここには昔、何があったんだろう?
「ねえ
すると呉羽は小さな体で考えこんで、数秒後にぱあっと明るい顔で私に返した。
「わかんない!」
すると秋山先生が割り入って教えてくれた。
「ここには昔、お城が建っていたのよ。白鳥城っていう、綺麗な名前のお城がね」
「どうして無くなっちゃったんですか?」
私が無邪気な笑顔を添えて答えると、彼女は城が歩んだ複雑な歴史をどう説明するのかで困惑してしまい、苦笑いをしながらごまかした。
「言葉では言い表せないほどの難しい歴史を歩んだの。大きくなったら自分で調べてみなさい」
「はーい」
私が素直に答えると、一緒に呉羽も答えた。偶然だろうか、同じタイミングで出た同じ言葉に私たちは顔を見合わせ、呉羽がぷっと吹き出すと笑い出す。それにつられて私もどこかおかしくなって、笑い出してしまった。
やめなさい。自分の娘のすることを止めようと怒る秋山先生だが、私たちは幼い絆で結ばれていた。決して笑うことをやめないのだとお互いに目配せして笑った。
「大人になっても一緒だからね」
私たちはそう決めあって、同じ学校に行くものだと信じていた。
それからすぐ、私はお受験をして国立の小学校に入学し、電車とバスで通学することになった。だが電車にもバスにも、果てには小学校にも呉羽はいない。
裏切られたような気持ちでガッカリした私は、それから忘れるように勉強に打ちこんだ。それからは祖父の言うとおり、学校の成績も一位で家庭でも両親が常に私の成績のことでピリピリしている。
四年生の夏、そんな空気が嫌になってふと山の中にある白鳥城址に足を運んでみると、そこには幼い呉羽が成長したような姿で『白鳥城址』と彫られた岩にへたりこんで眠っていた。どうしてか。夏なのに彼女は汗ひとつかかずに意識を手放している。赤く染まった頬が柔らかそうだ。
何となく人差し指で彼女の頬をついてみる。すると、その目が開いて私の顔をじっと見る。私と同じ小学校の制服を着た少女は、目を覚まして早々に聞いてきた。
「……藍くん?」
「もしかして呉羽?」
すると彼女は自分の名前に反応し、うんうんとうなずいて答える。その顔には懐かしさと幼き日の友人に会えた喜びでか、ささやかな笑みが浮かんでいた。
「呉羽だよ。わたし、藍くんと同じ学校に入ったの」
「クラスは?」
「二組の一番よ」
無邪気な笑みで呉羽は私に答える。そしてこう聞き返す。
「藍くんは?」
「おれは一組。隣のクラスなのに名前を聞いたことがなかったんだ。なんでだろう……?」
「ああ、それは」
そこから彼女は黙りこくって、私の制服を掴んでうつむく。その目には何か秘密でも隠しているような様子が見て取れた。
「なんでもないよ!」
その時、一瞬強い風が私たちの間を通り抜けて空へ消えていった。私はその風に気を取られてつい、呉羽の掴んでいた手を制服のズボンから剥がすように後ろへ下がってしまった。
「あっ、ごめん……」
「ううん、なんでもないの。本当に」
「そうか……。なあ。久しぶりなんだ。明日、昼休みになったら一緒に遊ばねえか?」
彼女はどこか寂しそうな笑みを浮かべて笑った。それでも無邪気な笑顔に見えるのだから驚きだ。
「うん、もちろん!」
それから翌日。私が呉羽を迎えに行こうと二組へ行くと、彼女は髪を掴まれて坊主頭の男子に引きずりまわされていた。
「はーい! これが火蔵を持つレッテちゃん。秋山呉羽でーす!」
「うわっ。なに普通の子ぶってこの学校にいるの? 気持ち悪いんだけど」
複数の男女で呉羽を囲ってなじっているその様子に、私は思わず苛立ってしまう。その中に無理矢理入り込むと、呉羽を引きずり回す男子の股間を蹴って、女子たちにはこう罵倒してやった。
「呉羽はお前らがなじっていい存在じゃねえんだよ。お前らみんな頭にウジ虫でも沸いてんのか? そっちの方が気持ち悪いわ」
「優等生くんが何をわかった振りをしてんだよ?」
股間を蹴られて痛がる様子を見せる男子が私を睨みつけながら罵倒し返す。女子は言われたことを反芻したのか、泣き出す子まで出てきた。
「レッテでもいいじゃねえか。お前らのしてることは差別だぞ!」
「レッテは血のためなら人殺しもするんだよ。今朝もニュース、みただろ? お前の住む街で殺人が起きてる。しかもレッテが殺した奴らばっかり!」
「呉羽が殺したわけじゃないのに、やっぱお前の脳味噌、ウジ虫が沸いてるわ。そのまま寄生されて死ね」
さっ、呉羽行くぞ。私は呉羽の手を掴むとそのまま彼女を連れて人気のないトイレの中に入った。
「呉羽、大丈夫か?」
「う、うん……」
「レッテの全員が殺人を犯すわけないもんな。あいつらは何も学ぼうとしないクズだ」
「でも、なんで私がここにいるか分かる?」
「図書室の本で読んだぞ。火蔵って、レッテの臓器だろ? 感情の昂りで爆発を起こすってやつ」
「うん……」
それから彼女はまた黙りこくって、それからボロボロと目に溜めた涙をこぼし始める。トイレの床に落ちた涙の粒が赤く染まっている。
「ごめんね……」
「おれはいいんだよ。悪いのはあいつらだ」
私が庇っても、呉羽の涙が止まることはなかった。その日の夕方まで、授業をさぼって彼女を慰めたことは覚えているのだが、どう泣きやんだかは忘れてしまった。
*
「にいちゃーん!」
「また伝、興奮したのか?」
「うん! でもあいつ喋れねえからひたすら痛がってて……。顔が怖かったよ」
「どこにいる?」
「ホールで黙りながら騒いでる」
「分かった。じゃあ行こう」
「うん!」
私はそのままホールへ直行し、挨拶してくる女子生徒さえも無視して教え子の元へ向かう。そのまま私も琳音も汗をかいてホールに着くと、そこにはリンダ先生に守られながら涙を流す伝がいた。
「伝! 大丈夫か?」
すると彼女はブンブン頭を振って、小さな声でその痛みの強さを私に教えてきた。
「まるで……地獄の業火で神経を焼かれたような気分……」
今も彼女は興奮で神経が痛いらしい。私は痛みを抑える薬を飲ませて伝を保健室に運んだ。
「精神が落ち着く薬だ。これ飲んで、保健室で寝ていなさい」
「わかった……」
この薬は飲んで速攻で眠気に襲われる薬で、火蔵を持つレッテのために作られたものだ。同時にレッテに不足している血液の酵素を補ってくれるから、かなり重宝する。
そのまま眠りに落ちた伝を保健室の先生に預けると、私と琳音は誰もいないトイレの中でこっそり話をする。まるであの日のように。
「にいちゃん……。伝は大丈夫なの?」
心配そうな表情をする琳音に、私は視線を合わせて教える。
「大丈夫だ。それにしても、伝が興奮するなんて珍しいな。どうしてだ?」
「実は図書館で火蔵について調べてたら、富山の事件が出てきてさ……。三条さんとかいう一家が一人息子を除いて殺されたって。レッテの母がかつて家庭教師をしていた金持ち一家を襲って、その娘が友人だった息子を庇って火蔵を爆発させて母を道連れにしたって……。火蔵って爆発するんだな、とか笑い合ってたらいきなりあいつがもがき出して……。それで」
ああ、覚えているよ。冬の寒い夜、いきなり帰ってきたばかりの父を襲って、その喉を食い破って血を啜るその姿は化け物のようで、今もトラウマだ。秋山先生は私にも襲いかかってきたが、呉羽が庇って火蔵を爆発させた。どうやって爆発させるかは知らないが。
「『死んでも自殺するな』とか言ってたのによお……」
「何か言った?」
「いや。むかし読んだ漫画のセリフを思い出してな。お前の長い髪をポニーテールにしたような見た目のキャラが言ってたよ」
「ふうん……」
どこか怪訝そうな顔をする琳音の髪を手で梳いてやると、途中で彼は赤い顔をして私をドンと押した。
「もうにいちゃんのバカ! 髪フェチ!」
そんなだから二十五を過ぎても彼女ができないんだよ! そう琳音が赤い顔をして怒ったので、私はそこで下ネタを兼ねた初恋の話をしてやることにした。
「俺だって彼女はいたことある。……もう十五年近く前の話だけど」
「へえ。にいちゃんに彼女ねえ」
琳音が大きな猫目を細めてニタリ顔で私を煽ってくる。
「俺が富山に住んでた頃、山の城跡で落ち合ってなあ……。童貞もその時に捨てた」
「にいちゃんが今二十六だから逆算して……十一歳?! やべえ……」
「同じ学校の子でさ、笑顔に色んな感情を隠した子だったよ。その子、虐められててさあ……。レッテだったから」
すると琳音が目を丸くして唖然とする。私もその顔に驚いて思わず沈黙してしまう。それから黙り込むこと数十秒。琳音が聞いてきた。
「じゃあその子はどうなったの?」
「聞きたい?」
「聞きたいに決まってんじゃん! レッテはエッチなことをするのが苦手ってよく言われるからさ。感染しちゃうし」
「うーん、お前がさっき読んだ本の通りだよ。その子の体がバラバラになって、俺はその破片を抱いて泣いた」
「……聞かなかったことにします」
琳音も悟ったのだろう。私が三条家一家殺人事件の生き残りだということを。
「そうしてくれ」
私が笑って琳音の肩を叩くと、彼は頬を赤くしてたった一言言うだけだった。
「そうします」
琳音と私。ふたりの空気は気まずいまま、そのまま外へ出た。すると、女子生徒が私を睨みつけて捨て台詞を吐いてきた。
「女子よりも男子をとるんですね」
「違うよ。たまたま私が大学生の頃、バイトであの子の世話をしたから親しいだけだ」
「へえ……」
頷いて女子生徒は、そのまま走り去った。悲しい恋物語はこれで終わりにしよう。せめて琳音には私みたいな悲しい結末の初恋はしてほしくない。それだけ祈って、私はチャイムのなる教室へ急いだのだった。
夏の呉羽 夏山茂樹 @minakolan
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