いつでも人生の明るい面を見つめよう
犬井作
駆け落ちから、ちょうど二年後のこと。
台風にも匹敵する大雨の中だったから、初めそのチャイムの音は聞き違えだと思われた。しかし三度四度と続いたからか無視できなくなった。訪問者はいないはずだった。この住所を知る人は、少なくとも知己ではない。訪問販売のセールスくらいだ。通信販売も、住所の流出を避けて行っていない。すべてコンビニ受取か局留めだ。過去との縁は全て断っていたはずだ。だから、こんなにも、この家に用があるとしか思えない人物が存在するはずがないのである。存在するとすれば、それは……
「姉さん、姉さん、いるんだろう? 僕だよ、ミロクだよ、それとも忘れてしまった?」
その声を聞いた時、言葉は判然としなかったにもかかわらず、カユリは玄関へ飛び出した。彼女が聞き間違えるはずなかった。しかしシバエはそれを知らなかった。部屋の明かりを消しじっと身を潜めていたのに、こうしては意味がない。シバエはカユリを止めようとした。彼女を追って玄関へ飛び出した。しかし扉は開け放たれ、轟々と吹く雨風と共に、濡れ鼠になった若い男がカユリに腕を支えられ転がり込んできた。カユリは後ろ手に鍵とチェーンを掛けると、床に手をついてうつむいたままの男を介抱した。
学生服のズボンと長袖と思わしき簡素な出で立ちで、髪は長く、目元まで覆っている。手入れされていないことは明らかだった。それなのに、その美貌は思わず息を呑むほどで、なだらかなカーブを描く目元、軽く線を引かれたような細い眉、薄い、しかし色艶のいい唇といい、それは驚くほどカユリに似ていた。骨格や胸のサイズ、腰つきの違いを除けば二人は双子も同然だった。
「姉さん」
「ミロク! ミロク、ミロクなのね。どうしてここが? どうして雨に濡れて? ああ、こんなに冷たい……これじゃ風邪引いちゃうわ。し、シバエ、お願い、お湯を沸かして、ミロクにタオルをちょうだい?」
日ごろ大人しいカユリが声を荒げる様子にシバエは戸惑った。カユリは、シバエといるときはいつも微笑み、穏やかで、何事にも動じなかった。二年前のあの日からずっと、カユリはシバエを受け止めてくれる存在だった。そのカユリがなんの説明もなく、見知らぬ男に身を寄せて、温めるために手を重ねている。恋人のようではないかと、シバエは戸惑った。
「どうしたのシバエ、はやく!」
「そ……そいつは、誰? カユリの何? この家に入れないといけないくらい、大事なやつなの?」
「弟なの! たった一人の弟――二年前、私たちが駆け落ちした時、私の身代わりになって時間稼ぎもしてくれた! お願い――ああ、もう、いいわ、わたしが行く! シバエはお茶と食べ物を用意してあげて。すごく痩せてて……お願いよ!」
○
毛布にくるまれてもなお、オニオンスープを飲む唇は震えていた。湯気の立つマグカップを、そっと、何度も何度も小分けにして、飲んでいく。喉仏の目立たない首筋が上下に動いているけれど、それは骨や皮下の薄い筋肉の輪郭でしかないように、薄く張っている。シバエの視線に気がつくと、ミロクはニコリと微笑んだ。
ミロクはシャワーを貸してもらったのち、シバエが自分用に買ったメンズのボクサーパンツ、それと大きめのTシャツを与えられていた。未使用だったし、この家に男物の服はないから、シバエはその事自体を気にしてはいない。しかし、異性で、自分より十センチは背が高いはずなのに、服も下着もミロクにはぶかぶかだったことに戸惑っていた。
「二年ぶりよね? 元気、してた? 高校は……もう卒業したかしら」
「あの時姉さんが高三で僕が高二だったからね、うん。もう十九歳だよ」
「そう。そしたら来年で二十歳かあ……もう、そんなに経つのね」
「ああ。二年は、本当にあっという間だったよ」
その声音は、一音一音を噛みしめるようで、シバエはどこか不吉な気がした。
三人は食卓の丸テーブルを囲んでいた。いつもならカユリとシバエが向かい合うように座るが、ミロクがカユリの横にテレビ用鑑賞のソファを持ってきて腰掛けている格好だった。背もたれのないピアノチェアだからくつろぐには難しいかもしれないが、ミロクがそれでいいと言ったのである。
八畳間ほどのリビングは必要最小限の家具しかなくて殺風景だ。しかし小さなテレビモニタに貼られたシールやテーブルの中央に置かれた木彫りのうさぎ、カユリがシバエと二人で選んだカーテンなど、細々したものが生活感と、二人の距離を示していた。
「姉さんが彫ったの、これ?」
「ええ。でも二匹のうち一匹は――」
「そこの、シバエさんが彫ったんだろ?」
「ええ。よくわかったわね」
「そういうペアルックみたいなの、姉さん好きだから。シバエさんが本当に大切なんだね」
「……ええ」
カユリは照れくさそうに目を伏せてシバエに視線を送った。それは現在の幸せを噛みしめるように暖かく、だからこそ、その隣から向けられる視線の読みきれなさが気持ち悪い。カユリとよく似た紫色の瞳はしかし、どこか色褪せていて、まっすぐシバエを見つめているはずなのにどこか覚束ない。遠くを見ているようだった。
警戒されているのだろうか。
「ミロク、くん……でいいのよね」
「ええ、シバエさん。でも呼び捨てでいいですよ。姉さんの恋人ということは、シバエさんは僕の姉でもある」
「そうよシバエ、家族なんだから、わたしたち……」
「……家族、ね」
その言葉がこの三人の間では特殊な意味を帯びることにようやく気がついてカユリは口元を押さえた。シバエはなおも薄笑いを浮かべるミロクを訝しむ。ミロクの声音は確かに親しげで、姉に再会した弟の声音そのものだった。しかし、しかし私たちは。シバエはテーブルの下で、手の甲に触れる硬い鉄の冷たさを感じながら唾を飲む。私たちは家を捨ててきたのだ。
ミロクは過去そのものだった。二人が捨ててきた、過去そのもの。二人が結ばれることを徹底的に妨害してきた家をシバエは思い出したくない。一人娘だからといって、人生のすべてを縛ろうとして――
生まれてすぐにはもう婚約者がいた。何年後、どの学校に入り、どのような成績を収め、どのような技術を身につけるか、それらを今でも思い出せるくらいなんども何度も言い聞かされてきた。ノブレス・オブリージュだと、ストレスで嘔吐するシバエに母が語ったことがある。「私たちは特殊なのです。特殊な生まれの持ち主で、世の上層にいるのです。私たちは生まれながらにして使命を与えられ、その義務を果たす責任を負っているのです。あらゆる生には責任が伴います」だから、吐く暇があれば力をつけろ。長いトンネルの先に見える微かな光を追いかけて後ろから鞭で叩かれるような、馬。それが私だった。そう、思い返す。そのトンネルに突然現れて、御者になってくれたのがカユリだった。
高校まで一貫のミッション系女学校に入学して、早くも自分が他と違うことを突きつけられた。彼女の名字は生徒全員に知られており、職員すら彼女を特別待遇で扱った。彼女は一人になるところだった――もしカユリが、お昼休み、突然声をかけてくれなかったら。「そのおべんと、美味しそうだね」それがカユリに告げられた最初の言葉。召使いが作ったと答えると、大げさなくらい驚いてみせた。
対等に友人として接してくれたただ一人がカユリだった。彼女は中流の家庭の生まれだとすぐわかった。服装や所作、文化的素養に長けているのに、言葉遣いが粗野だったからだ。しかしそのカユリが、シバエの言葉遣いを「うつくしい」と言ってくれたその時、シバエはかつて感じたことのないぬくもりを感じた。そしていつしかカユリに名を呼ばれることに、幸せを、喜びを感じるようになっていた。
駆け落ちのきっかけは、婚約が目前になったことだった。学校帰り、校門で待っていた婚約者はシバエをカユリとの帰り道から引き離し、車に載せた。助手席に座らせ、ドライブに連れて行かれ、ディナーに連れて行かれた。そこで婚約者はシバエの色素の薄い、日本人に珍しい亜麻色の髪を所有物のように撫でながら、それに口を寄せ、戸惑い、身を竦ませるシバエに今夜部屋に訪れると告げたのである。シバエはかつて感じたことのない嫌悪感、背筋を走る冷たさ、暗くなっていく視界、そうしたすべてを経験しながら、今まで一度たりとも訪れることを許されなかったかユリの家へ走った。そして一晩、物置で二人だけで過ごして、翌朝、どこからかお金と替えの服を手に入れたカユリに連れられて、もはや名前すら記憶の諸所の沈殿物に封じてしまった故郷を脱出したのである。
二年前のことなれどその経緯を忘れたことはない。ミロクはそして、二人の故郷からやってきた、異邦人だ。二人の家にいるべき存在ではなかった。まっとうな感性をしていれば、わかるはずだ。だけど、きっと違うだろう。なにせこの男は台風に匹敵する風雨の中、傘もレインコートもささず、それどころか、所持品の一切を持たないまま、ここまでやってきていたのだ。
「なんですか、義姉さん。急に黙っちゃって……家族、とてもいい響きじゃないですか。姉さんたちにピッタリの言葉だ。なんせ、二人は、一緒にいることを選んで、新しい環境に移って、それから生活を営んでいる。大変なのに、立派ですよ。父さんと母さんはいつも言ってた。幸福の追求こそが人生の目的である、って。愛する人との幸せはその最上級だろうって、古くさいけど僕はその考え方が好きだよ。だから姉さんたちが幸せそうで良かったよ」
姉と呼ばれたことに戸惑いシバエはミロクを見つめた。似つかわしくないほど明るい声にカユリも戸惑っているようだった。カユリは、そうね、とつぶやくように答えると、空になったオニオンスープの器を奪い取るように受け取るとキッチンへ向かった。
「おかわり、ほしいでしょ。ね? まだ冷えるもの」
「うん、お願い。ねえ、それ母さんが作ってた味でしょ。姉さん、レシピ受け取ってたの? いつの間に?」
「昔教えてもらったことがあったの。ミロクが風邪引いた時のこと、覚えてる?」
「あの時飲んだ味だった。もしかしてあれ姉さんが作ってくれたの?」
「そうよ。今になるまで、すっかり忘れちゃってたけどね……ね、シバエ。わたし作ったことなかったよね」
「オニオンスープを作れるとは、知らなかったよ」
「ほら」
「そうか、まあそりゃそうだよね。駆け落ちしたんだ。昔のことは忘れちゃうよね。僕のことも初め忘れちゃったんじゃないかと不安だったんだ。だって姉さん、姉さんって何度も呼んで、扉を叩いたのに気づいてくれなかったんだもの。外には木の枝なんかも飛んでたよ。背中に当たっていたかったなあ。怪我はしてないし、痕にもなってないと思うけど、ははは、まあ、どうでもいいやそんなことは」
「遠路はるばる、大変だったね」
遮るようにシバエが言った。声は震えていた。わざと見当違いのことを声に出してミロクの関心をそらそうとした。ミロクはにこにこと笑いながらなおも話し続けた。
「うん大変だったんだ、なんせ電車が止まっちゃってね。絶対に行こうと思ってたんだ、ここに。だから歩いてきたんだよ。靴底が剥がれちゃって大変だった。自転車は先月売っちゃったからね。自転車は折り畳めないやつだから電車には持ち込めないし」
「持ち込めるわよ、申し出たら」
「え、本当、義姉さん。知らなかったなあ、知っておけばよかった。それならこんな苦労はしなかったかもしれない。今日は僕の誕生日なんだ、だから祝ってほしかったんだ」
「え、そう、だったかしら?」
オニオンスープを持ってきたカユリはミロクに手渡すと、今度はその隣に腰を下ろさず、シバエの隣に立ち、肩に手をおいた。その指先の震えを感じて、シバエは左手を重ねた。ミロクは両手で器を握ったけどニコニコと笑いながら話し続けていた。
「そうだよ、いやそうじゃなかったかもしれない。今日は何日だっけ。僕は十九歳だってことは覚えているんだけど、二十はまだだっけなあ。アルバイトを断られたんだよ、こないだ。年齢詐称がバレちゃったんだっけ、いや、いいやこれは。そう、それで姉さんに会いたくなって」
「アルバイト? 年齢詐称……? み、ミロク、どうしちゃったの? そんなこと、父さんが許すわけ」
「父さんは死んだよ、自殺したんだ。首を吊ってね。目玉が飛び出てて、下に漏らしたんだろうね、水たまりができてたよ。姉さんがいなくてよかった。きっとトラウマになってたからね。母さんも仕事を首になって大変でね、やれるのは水商売だけだとか、散々な意地悪をされて心も体も病んでしまってね。大変だったんだ、本当に、本当に大変だったんだよ、ねえさん。どうしてだと思う? シバエ姉さんのご両親がね、僕らを悪魔だって触れて回ったせいなんだ」
ミロクは吹き出した。ごめんね、と手のひらを前に出して、息がしづらくなるまで、引きつった笑い声を上げていた。甲高く、家中に響き渡るその笑い声は本当に悪魔のようだった。シバエは思わずカユリの手のひらを強く握っていた。シバエは顔を上げることができなかった。カユリの指先の震えが、もはや痙攣じみていただけで、耐えられなかった。雨風ががたがたと窓を揺らし飛来物を雨戸に叩きつけている。硬いものが当たったのか、パシッ、と弾けるような音がした。稲妻が響き渡った。近くに落ちたのか、地面が揺れた。ミロクは笑っていた。
「知らなかったんだ、僕は。まさかこんなことになるなんて。だって幸福の追求こそが最重要なんだから、そのための選択は正しいと思ってたんだ。神様だってそう言ってくれるって思ったんだ。だから母さんがこっそりためてたお金を姉さんに渡して、僕は姉さんの服を着て体調が悪くて眠いふりをして、同じ部屋のミロクは学校に行ったって嘘をついて、そうして、シバエさんのご両親から電話があったんだ、逃げたって、お前の娘がうちの宝を騙し取ったんだと叫んでいたよ。すごくひび割れた声でね、喉を潰したいのかな、そう思えてしまうくらい、受話器から家中に響きそうだった。話したのはそれっきりだったけどね姉さんが知らないところでうちの家はつながってたんだよ、シバエさんの家と、知らなかったよ、誓っていい。だから間違いじゃないんだ、この選択は、全部、今までのすべて、正しいはずだ。僕たちは幸せになりたいんだ。そうだろう? それだけで良かったはずなんだ。でも、パパの会社の取引先だったんだ。婚約者さんが社長だった。大手からの仕事がなくなってその日のうちにクビだったよ。母さんも勤め先にこの女は雇うな、さもなくばと脅されたらしくてね。だからすぐだめになっちゃったよ。車も壊されたって知らないよね? 火をつけられたんだ。家が燃えたよ。全部消えた。だからアパートに移って仕事をもらおうとして、でももらえずに一年過ぎて、貯金は消えていって、父さんは生命保険をあてにして自殺したんだ。そしたら、自殺じゃ降りない期間の最終日だったみたいでさ、笑えるだろう? 二人になったんだようちは。母さんは体を売るしかなくなったんだよ。あの母さんが父さん以外のものを何人も咥えこんだんだ。それで言われたのはやくたたずの能無しだとさ。殴られて帰ってきても治療費を節約して僕を学校に通わせようとしたんだ、だけど僕は学校に居場所がなくってね」
「もうやめて!」
「やめるもんか。なんで姉さんが泣くんだい? だって幸せだったろうこの二年。母さんが病気になって死んじゃったけど姉さんは幸せじゃなきゃおかしいだろう? だって二人で選んだ道じゃないか、これは。僕が姉さんの背中を押したんだ」
「でも、でも、どうすればよかったの、わたし、だって」
「姉さん……ごめんよ、泣かせるつもりはなかったんだよ。シバエ姉さんも、そんなに、怯えないで。僕は責めたいんじゃないんだ。聞いてほしかったんだ、もしよかったら、抱きしめてほしかった……さっきオニオンスープをもらって満足したよ。帰ろうと思うよ。泊まることもしないから安心して。でも……でも、考えが変わったことを聞いてほしいんだ」
「なにが、かわったのよ。ミロクはミロクでしょ。痩せて、服はぼろぼろになってて、靴も壊れてたけど、ミロクはミロクだったじゃない。あたたかくて、そばにいたら柔らかい香りがしていたわ」
シバエの肩に顔をうずめて嗚咽を堪えながらカユリが尋ねるとミロクは指を鳴らして、そう、それだよ! と二人を指した。
「父さんと母さんは間違っていて、シバエ姉さんのご両親が部分的に正しかったんだ。お母さんが会いに来たよ。流石に忍びないと思ったんだね。僕を引き取ってもいいと言い出したんだ。シバエ姉さんはだから本当に姉さんなんだよ。僕はまあ、下男みたいに扱われて形の上では雇われてもいたけどね、頭を踏まれながら言われたんだ、昨日の夜。耐えきれなくて泣いていたところを見つけられて、拾われただけ感謝できないのかと言われてね、言われるままに頭を下げてから踏みつけられたんだ。それで義母さんは言ったんだ。『あらゆる生には責任が伴うんです』って。でも伴うのは生にじゃない。行為にだ。選択がすべてを動かすんだ。その事に気づかせてくれたんだ。だから会いに来たんだよ。聞きたかったんだ、姉さんがこの考えをどう思うか。だって姉さんたちは家族だから」
「どんな考えだっていうわけ」
シバエが尋ねると、ミロクはひび割れた声で答えた。
「行動には責任が伴う。だから一貫させなくちゃいけないんだ。正しいと思わない? 僕はすべてを奪う悪魔の子だから、奪い続けなくちゃいけないんだって昨日、気づいてね、お母さんを殺したんだ」
「……誰、を?」
「母さんをだよ! 僕の頭を踏みつけていたから足首を掴んで転がしてやってそれから頭を何度も踏みつけたんだ。顔が潰れてしまったんだ。見られて困ったからお父さんも刺し殺した。だってお父さんとお母さんは僕を悪魔の子だと言ってたんだ。悪魔はすべてを奪っていく、悪魔を矯正するまで私たちが飼育しなくてはいけないって話してたんだ。でも生まれは変えられないだろう?」
ミロクはまだなにか言っていた。しかしシバエは急速に思考が狭まっていき、全身の筋肉がこわばり、ただ一つのことだけを考えられるように特化していくことに気がついていた。背筋が冷たかった。体が冷えていた。雨がうるさかった。カユリはもはや崩れ落ちて、涙をこらえられないまま、声を上げて泣いていた。わたしのせいなんだ、わたしがわたしがわたしが、何度も繰り返していた。これはミロクがもたらした悪夢だった。彼はたしかに悪夢であり、ここにいてはいけない存在だった。シバエはテーブルの下で手の上下を入れ替えた。手のひらで、ガムテープで固定していただけの拳銃の引き金を絞った。すべてを吹き飛ばす音がして、ミロクは仰向けに倒れた。笑い声はまだ止まらなかった。シバエはガムテープを剥がすと拳銃を構えてミロクのもとへ歩み寄った。見下されるミロクは堪えられない涙をこぼしながら笑い続けていた。紫色の瞳がキラキラと不気味に輝いていた。じっと銃口を見つめていた。この目が父と母の命を吸い、シバエとカユリの幸福すらも吸い取ろうとしている。だからシバエは二つの瞳を吹き飛ばした。銃弾は後頭部に抜けて床に刺さった。それは彼の脳機能を奪うに十分だったがシバエはなおも額に二発打ち込んだ。耳鳴りが止んで、シバエが自分が泣いていることに、カユリに後ろから抱きしめられて、二人で涙を流していることに気づいた時、雨はすっかり止んでいた。
○
むせ返る土の匂いに鼻をしかめながらシバエはスコップを振るい穴を掘る。ちょうど人一人が入るに丁度いい深さ、大きさの長方形を作って、ふうと息を吐き、手の甲で額の汗を拭った時痛みを感じた。手のひらの皮が裂けていた。いつの間に生じたのだろう。シバエは赤くまんべんなく血が滲んだ手のひらを見つめて、処置に困り、そのままにすることにした。
振り返って息を吐く。カユリはまだ泣いていた。
「ミロク、みろく、ううううう、ああ、あ、ああああああ」
何度も何度も生を呼んでは嗚咽を漏らし、潰れたトマトになってしまった頭部を直視しては泣き崩れる。傷口を何度も触って怪我を悪化させる子供そのものだ。シバエはどこか冷めた気持ちでカユリを止めた。
「無理しなくていいよ、カユリ」
「だめ、これ、これは、わたしがやらなきゃいけないから、だから、お願い、責任を取らせて」
顔をゆがめて、鼻にシワが寄ってぶさいくになっている。醜いカユリも可愛いなと思いながら、シバエは死体の足を掴む。カユリは緩慢な動きで死体の肩に腕を通した。どちらともなく、息ぴったりに持ち上げて、掘った穴に横たえる。手を離すと、カユリの緑色のセーターにべっとりと血がついて赤く汚れてしまっていた。シバエがそのことを指摘しようとする前に、カユリはセーターを脱ぐと、顔を覆うように――そして腕を首の下に通して、抱きしめるようにしてミロクにかけてあげていた。
カユリは顔を上げると、シバエの方をじっと見つめた。シバエは躊躇ったが、スコップを渡した。
「あ、それ血で滑るかもしれないから……」
「うん。でも、土をかぶせるのは楽だから大丈夫。ありがとう、シバエ」
まだ嗚咽に震え、時折言葉を詰まらせながらカユリは答えた。シバエはなにも言えなくなり、カユリが土――というよりは泥をかぶせていく様子を少し離れた位置から見ていた。
会話はなかった。スコップが土を掬い、かぶせる音だけが続いた。湿り気を伴う粘性の、老人がなにも食べていないのに咀嚼している時めいた、嫌悪感が掻き立てられて、沈黙のせいでそれがうるさいくらいだったので思わずシバエは口を開いた。
「あの子がここへ来たってことは私の家もここを探り当てるよ。そしたら私たち離れ離れになる。カユリがどんなことになるかもわかんない。父さんと母さんが死んだだけで解決する話じゃないの。だから、殺すしかなかったの」
「ええ、判ってるわ、シバエ。私のためにしてくれたのでしょう?」
「……うん」
「ありがとう、シバエ」
死体が見えなくなるにつれて、カユリの声は普段どおりに近づいていった。奇妙な印象を抱いてシバエはなおも言葉を続けた。
「ミロクが味方なら、大丈夫だった、きっとまた助けてくれた、でもダメだった、本当に、つらいわ。ここへ来た時点で、あの子はついてきてくれるか、さもなければ今生の別れにするしかなかったのだから……」
「ええ……まさか、みんないなくなるなんて、思わなかった」
カユリは苦笑気味に答えた。
「世界の終わりでも来ない限り、ミロクも、母さんも父さんもいなくならないと思ってたけど、違ったのね、きっと」
「……え?」
最後の土をかぶせると、その上を歩いて均しながらカユリは空を見た。
「選べることには限りがあって、その制約を壊そうとすることは、世界を破壊することだったのよ。だって制約を生むのは世界でしょう? わたしたちあのとき、幸福のために逃げたのだと思ってた。けど違った。幸福のために世界をこわしちゃったのよ」
「カユリ……それは、でも、私のためにカユリがしてくれたことで……」
「ええ。でも、わたしがしたことだから、わたしの責任。そしてミロクを殺させてしまったのもわたしの責任。殺したシバエに悲しそうな顔をさせてしまったのも、わたしの責任」
「そ、それは、違う! 私は、悲しくなんか」
「泣きたいときには泣いていいのよ、シバエ。わたし、あなたがそうやって耐えるところを見たくなくて、いつも側にいたんだもの」
いつの間にかカユリはシバエの目の前にやってきていた。カユリはシバエを抱きしめた。
「わたしたち、二人でこうすることを選んだのよ。だからその責任を、二人で分かち合って……それで、前に進みましょう?」
「うん、うん――っ」
あたたかさが、耐えきれなくて、シバエは泣いた。泣き続けた。子供のようにわんわんと泣いて、カユリにあやされた。
「次はどこへ行こうかしら――もっと遠くへ行かないとね、シバエ。誰の手も届かないところへ……ああ、でも海の側がいいな。綺麗だから。四国とか、どう? 今あるお金で行けると思わない? ねえ、シバエ――」
数刻前から始まった雨は消え去り空は晴れ渡っていた。青空はどこまでも続き、カユリの目にも写り込んでいた。しかし瞳からは、かつてあった輝きは失われており、それは永遠に戻らないだろう。
それでも祝福するように、太陽は世界に光を注いでいた。
いつでも人生の明るい面を見つめよう 犬井作 @TsukuruInui
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