暗昼明夜

 男からの逢瀬おうせの便りは、毎月決まって九日に届いた。震える筆先で書かれた、時と宿を知らせるだけの至極簡素な文。


 もとより男は達筆である。青空に映える飛行機雲のような、柔らかく伸びやかな字形をとる。

 故に、どれほどの思慕の念がその筆先を狂わせるのだろうか。編まれた文を懐中に忍ばせる女の指もまた、その想いを感じ、歓喜に震えた。



 男と肌を重ねるようになってしばらくして後、女は、肌着を一つ新たにした。それは男と情を通じ合う時にのみ用立てられる。

 初めての逢瀬の日、宿に射していた夕焼けを切り取ったような紅色の肌着。男がいつももどかしげに剥ぎ取るそれを、女は寝室の箪笥の奥に秘めている。


 夫子とともに朝を迎え、夜にはともに夢を見て、時には夫に抱かれる。寝室とは元来そのような部屋である。

 だが、紅色の肌着を箪笥の奥に秘めるようになって以降、寝室は、家の中で男を最も感じる部屋となった。


 夫に抱かれながらも、女の心は紅色の肌着を纒う。

 もし、これが男の舌であれば、より繊細に私の肌を這うだろう。これが男の手であれば、より細く筋張り、私の肌を掻くだろう。これが男の口であれば、果てるまで耳元に私の名前を繰り返すだろう。


 いかに夫に抱かれようと、この身体が覚えた喜びは、もはや男によってしか掘り起こし得なかった。この身体は、喜びまでも、男のものだった。



 そうして、男との愛が確かなものになるほど、女の内には昏いものが広がった。それは、嫉妬と呼ぶには切なすぎる情念の炎。


「なぜ先に男と知り合ったのが、私ではなかったのか」


 もとより、男の妻と面識はない。声も、性格も、顔さえも知らない。

 だが、確かにその妻はこの世のどこかに存在し、男と寝食をともにし、子をなし、男とともに老いていく。

 男の生に当たり前にように絡みつく妻としての生。


 鋭利な剃刀で自らの喉を割き、手を差し入れようとも届かぬ深みに、消えることなくその炎は燃え続けた。

 故に、抱かれるたび、女は腰をくねらせ奥深く男を迎え入れた。その炎に届くようただただ深く。




「すまない」


 ある夜、まだ日も昇らぬ宵の内。寝台で子を抱き眠りについていた女は、唐突に夢から醒め、男が鬼籍に入ったことを理解した。男の声が微かに耳元に残っていた。


 その死の証に、男からの文は、ふつり、と途絶えた。


 葬儀場の所在と日時は知らない。墓の場所でさえ知る術はない。まるで、すべてが幻だったかのように男は消えた。


 女は、決して涙は流さなかった。涙とともに男との思い出が流れ出てしまうことを恐れた。思い出だけが、女の手に残った全てであった。


 それに、泣いたとしても、涙をすくうあの細い指先は、もうこの世のどこにもない。



 残る生は独りの生。まだ長く残る、母と妻としての生。

 だが、女は、家族の食事を用意しながら磨かれた包丁を眺め、食材の買い出しをしながら線路の轍を眺め、肌着と文を庭で焼きながら火を眺めた。


 これまで気に留めていなかっただけで、死はあまりにも身近にあった。これほど死に囲まれた世界に生まれ、かりそめにせよ男と愛を交わせたことを、女は奇跡のように感じた。


 そうして、ふいに気がついた。男に寄り添う女としての生はもう得られないが、男に寄り添う死だけは自分のものにできることを。

 そして、男もそれを望んでいるであろうことを。

 あの時に男がささやいた言葉の続き。男が飲み込んだそれを、女は深く理解していたからこそ。


「すまない。


 それは男が残した静かな懇願であり哀願。女への強い執着。男が女を選んだ証。


 ためらいはなかった。

 女はかつてのように歓喜の涙を流し、ふつり、と昏い昼を捨てた。



 そして、今も女は静かに待ち続ける。

 静謐の中からその涙をすくう指が現れることを。


 夜の中に涙を流しながら、ただ、ただ、静かに。

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夜道迷子 斧間徒平 @onoma_tohei

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