夜道迷子

斧間徒平

夜道迷子

 男は不義ふぎをしていた。幾千幾万もの言葉を並べてもなお、ゆるされざる愛の不義を。


 男は、毎日、つとには家を出て、昼には弁当で空腹を満たし、夜には帰宅するただ一介の勤め人つとめびとであった。

 だが、月に一度、家を出るその足は逢瀬おうせの場所に向けられ、弁当を食するその舌は肢体したいを這い、心は妻子を忘れた。


 郊外の宿に狭い部屋を取り、女をくまなく愛でる。

 その女は、夫子ふうしある身でありながら、あまり喜びを知らなかった。ために、奥深くまで分け入り、女の顔に夫子が知らぬであろう淫蕩いんとうが浮かぶ時、男はひとりくらく無上の喜びをおぼえた。


 時折、女は泣いた。

 貴方の臨終の間際、その枕元に私の席はない。それどころか、貴方の死を知ることすら敵わないかも知れない。

 そう言って、狭い部屋の中で一つになりながら静かに涙を溢れさせた。

 人の世はさまざまな形の愛に満ちていたが、不義の愛には、今もなお居場所はなかった。

 故に、女も男も、この逢瀬が永遠に続くと信じた。否、信じようとした。




 ある夜、男は唐突に自らの死を知った。


 夢の中で丘の上に立ち、自らの名前が彫られた墓碑ぼひを静かに眺めていた。夕と夜の狭間の誰そ彼時たそがれどき、栗色に染まった丘には黒く細い風が吹いている。墓碑の横に佇む単眼単足の稚児は、涅槃ねはんへの案内役だ。


「せめて女に私の死を伝えたい」


「今、現世うつしよに戻らばもう二度と冥府めいふへは行けぬ。なんじは、めしいの亡者となりて永遠とこしえに現世を彷徨さまよわん」


「それでも構わない。光を失おうとも最後に女の顔を見れるなら」


「亡者は輪廻転生りんねてんしょうの輪から外れ、二度と妻子と巡り合うことあたわず。弥勒菩薩みろくぼさつ衆生しゅじょうを救う五十六億七千万年の後も救済なからん」


「例えそうでも、構わない」


 しからば、と稚児は道を指し示した。人ひとり分ほどの幅の道が、針先ほどに極まる遠くに薄い光が見え、男は歩き出した。

 夢の外では、男の身体はもう冷たくなっていた。寝台に同衾していた妻子に看取られることもない、不意の卒中であった。


 光を手繰り寄せるように、男はゆっくりと歩き続けた。道を外れれば無明むみょうの闇が広がり、その果てはようとして知れない。これが終われば男はその闇を彷徨い、永遠とわを過ごす。男の喉がごくり、と鳴った。

 次第に光が近づき、その眩しさに男は思わず目を細めた。


 光を潜り抜け目を開けると、そこはほの暗い寝室であった。寝台には、愛した女が母の顔で眠っている。傍らには夫、腕には赤児を抱いている。

 男は躊躇した。このまま忘れ去られるのが良いのではないか。記憶に残すことは、まるで呪いに似ている。


 だが、最後に望みが出た。まさった。男は女の耳に口を寄せると、絞り出すように「すまない」とのみささやいた。

 言うや否や、男の目からは、、とあらゆる光が失われ、そして天地左右の別もかき消えた。




 あれからどれだけの時間が経ったのか。日月ひづきを数えるのを諦めた日さえはるか遠くに残し、磨滅した心を抱え、無明の夜を男はただ彷徨い続けた。

 し方はとうに消え、行く末はない。

 これは不義の愛を交わした罰なのだろうか、それとも不義の愛にじゅんじた代償なのだろうか。内省しても答えは出ず、問うても応えはなかった。


 終わりのない永い放浪の果て、無明を探る触覚は視覚となり、嗅覚は味覚となり、聴覚は触覚となっていた。

 五感は曖昧模糊となって一つとなり、さらに数えきれぬほどの歩みを進めた後、男は、ふと夜に何かを見出した。夜にひとりぼっちになって初めてのことであった。

 そろり指先で救い上げると、一雫の涙が聞こえてきた。過ぎし日に腕の中に抱いた涙だった。それは、今もそこから静かに溢れ続けていた。

 嗚呼ああ。男は震えるように嘆息たんそくし、かつてのように愛おしげにそっとかき抱いた。

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