夜の風

カバなか

夜の風

 桜が散って、連休も終わると、東京ではもう夏も近くなった感が強い。

 本格的に暑くなる前には、梅雨のひと湿りがあってすこし涼しくなる。でもこの時期は昼間、太陽がでていると夜になってもそれほど冷えることはない。

 川辺にあるマンションの4階。ベランダに面した窓からは、湿りけを帯びた風がゆるやかに流れ込んできている。

 川は海に近い。風にもすこしだけ潮の香りが感じられる、気がする。それともこれは、海なし県出身のわたしだけが感じている、幻想の香りだろうか。

 そういえばここに引っ越して来てまだ、海を見ていない。幼いころは海を見るだけではしゃいでいたものだけど、いざ海の近くに住まうようになってみると、そう海辺に出向く機会などなかった。

 この川辺の道を、流れに沿って下っていけば、海に出る。

 それを教えてくれたのも、小夜ちゃんだった。


 なん年まえだったか。中学3年のころ……だから4年前、か。

 そのころまだ小夜ちゃんはこのマンションではなく、別のマンションに住んでいた。といっても、ここからそう遠いところではない。そこもまた、この川に面したマンションだった。

 遊びにきたわたしを、小夜ちゃんが自分のマンションに泊めてくれたのだ。

 東京に遊びに行きたい、と言うわたしに、あんたみたいな田舎モンが東京をふらふらしてたらアブない、と言って、どこへ行くにも付いてきてくれたのだった。

 中学の春休みを利用しての上京だったから、時期は3月末から4月あたまにかけて。お仕事は大丈夫なの、って訊いたら、あたしはフリーランスだから平気、って言った。

 当時はよくわからなかったけど、小夜ちゃんはどうやら大きな会社からデザインを委託されるフリーランスのデザイナーだった。大学を出たあと入った会社をわりあいすぐやめて、フリーランスになったのだ。

 小夜ちゃんは大学入学以来、ずっとこの界隈に住んでいる。引越しをすることになっても、近くにあるこのマンションを選んでいるから、つごう10年以上ここにいるのだ。

 だからもう、この風に潮の香りをかんじることはないのかもしれない。いや、もしかしたらずっとこのあたりに住んでいたほうが、ずっと風にふくまれる香りに敏感になるのかしら。


「この川を下っていけばじき海だし、遡っていけば、ほら、あんたの家の近くに出るよ」

「え、うそ? あの川がここまで流れてるの?」

「そうだよ。川の名前はいろいろ変わるけど、たどっていけば、ね」


 へえ、とおどろくわたしを見て、小夜ちゃんはタバコの煙を吹きながら笑った。

 東京から家に帰る日、小夜ちゃんのマンションの近くにある出身大学を案内してもらった帰り、わたしは土手に並んでいる桜並木の美しいのにもすっかり興奮して、こう言ったのだった。


「わたし、小夜ちゃんとおなじ大学に入る」

「みのりが?」

「うん。それで、この川の近くに住むんだ」


 すっかりその気になった田舎モンの中学3年生に、小夜ちゃんは笑って言ったものだ。


「じゃあ、みのりが来るのを楽しみにしてるよ」


 べつにその時から小夜ちゃんに対する憧れが始まったわけじゃない。

 親戚のお姉ちゃん、っていうのは、小さい子にとって往々にしてそういう対象になると思う。

 わたしは、小夜ちゃんとおなじ大学に合格するために、いっしょうけんめい勉強した。

 運も手伝って、というのはあるだろうけど、ぶじ合格したとき、まっさきに小夜ちゃんに電話した。


「じゃ、うちきなよ」

「え?」

「あんたみたいな世間知らずが東京でひとり暮らししてたらアブないわ」


 とんとん拍子に話がまとまって、いまに至るというわけだ。

 中学のときに泊めてもらった部屋のままだと思っていたけど、いつのまにか小夜ちゃんは部屋がいくつかあるマンションに引っ越していた。

 もしかしたら、それはわたしが約束を守って大学に行くために東京に出てくる日のためだったのかもしれない。そのことについては、もしそうだとしたら、すごくうれしいのと同時に、すごく申し訳ない、という思いがあって、まだ小夜ちゃんに直接はきいていない。でも、たぶんそうだと思う。

 ベランダに面した部屋が、わたしにあてがわれた。引っ越しの日、ベランダから川を挟んでずっと続く満開の桜並木を見て、わたしはほとんど感動してしまった。小夜ちゃんはやっぱり笑っていた。ベランダで、いつもの、笑顔。


 中学のとき、小夜ちゃんのところに泊まった何夜かを、わたしは忘れられない。

 ベッドがひとつしかないから、という理由でわたしと小夜ちゃんは一緒に寝た。

 だれかとおなじ布団で寝るなんて、物心がついてからはじめてだったから、どきどきしてたまらなかった。とても眠れないと思った。

 でも、やはりわたしは疲れていたようで、いつしか眠りに落ちてしまっていたらしい。

 深夜、何時だかはわからない。いつもだったらぜったいに目覚めないような時間だろう。そんな時間に、目が覚めた。

 すぐに、布団の中に小夜ちゃんがいないのに気づいた。小夜ちゃんはデスクライトをつけて、パソコンで作業をしていた。これは一緒に暮らすようになって気づいたのだけど、小夜ちゃんは夜型で、日が出ているうちはほとんど仕事に関しては手が付かないらしい。

 そのときのわたしは、小夜ちゃんに迷惑をかけたなあと思って申し訳ない気持ちになった。自分の東京見物につき合わせて、小夜ちゃんに大変な思いをさせたのではないかと。

 でも、それと同時に仕事があるにもかかわらず、わたしを寝かせるためにいっしょに布団に入ってくれた小夜ちゃんの心遣いがうれしかった。その申し訳なさとうれしさを抱えながらぼんやりと小夜ちゃんを布団の中から眺めていると、急に彼女は立ち上がってこちらに向かってきた。

 わたしはとっさに目をつぶった。なんとなく、起きているのを知られたくなかった。


 がらり、と音がして風がゆるく吹き込んできた。

 小夜ちゃんがベランダの引き戸を開けたのだ。

 しばらくして、タバコの匂いがうっすらとその風に乗って運ばれてきた。

 タバコは父も嗜むからその匂いには慣れていたが、小夜ちゃんの吸うタバコの匂いは、またすこし違って、甘い香りが含まれているような気がした。わたしはその香りの中でまた眠りに落ちる。

 それはわたしが小夜ちゃんのマンションに滞在していた毎夜、繰り返されたのだった。


 あの東京旅行から、わたしの小夜ちゃんへの憧れは変わった。

 それはより強いものになったと思うけど、その形、じたいが変わった。

 それまでのわたしはただ、小夜ちゃんの真似をしていた。小夜ちゃんとおなじショートカットにしたがったり、小夜ちゃんがかけているような眼鏡をほしがった。

 親戚が集まったときなんかは、まるで姉妹だ、なんて言われたりするのを素直に喜んでいたのだ。

 でも、あのあと、わたしは髪を伸ばしたり、フェミニンな服装を好むようになった。背だって少しは伸び、意外と小柄な小夜ちゃんよりも少しだけ高くなったのだ。視力は幸いなことにいいので、眼鏡はかけていない。

 久しぶりに会った小夜ちゃんは驚いた顔を見せた。変わったねえ、なんて。

 自分が、わたしにどんな思いを抱かれているかなんて、ちっとも気づきはしないのだ。だから、平気で部屋に住まわせるのだ。だから、無防備な姿をわたしに見せ付けるのだ。だから……。


「お、みのり、まだ起きてた」


 ベランダの外を眺めながら、ベッドに腰掛けていたわたしに、部屋に入ってきた小夜ちゃんが声をかける。小夜ちゃんの新しいマンションのうちで、わたしに割り当てられた部屋が、ベランダに面した部屋だった。

 それで、小夜ちゃんはタバコが吸いたくなるとわたしの部屋を通ってベランダに出る。小夜ちゃんはごめんねって言うけど、わたしはそのたびに小夜ちゃんの顔がみられてうれしかった。


「早く寝なさいよ、子供は寝ないとだめだからね」

「子供じゃないし。小夜ちゃんはどうなのよ」

「いやあ、あたしはもう若くないからね」


 アッハッハ、とわざとらしく笑いながらベランダに出る。

 わたしは布団にもぐりこんで電気を消した。

 窓の外には、東京の明るい夜空に小夜ちゃんの影が浮かび上がった。

 ぽ、っとジッポーでタバコに火をつける。小夜ちゃんはずっとキャスターだ。


「仕事どうなの」

「ん、まあ山は越えたから、しばらく楽かな」


 煙を吐き出しながら答える。

 風に、タバコの匂いがのってやってくる。わたしはたちまち安心して眠たくなる。

 ふ、とする予定の無かった質問が、わたしの口から出た。


「……小夜ちゃんさあ、なんでベランダでタバコ喫うの? 部屋ででもいいじゃない」

「いや、賃貸だとね、壁紙とかにヤニがつくのよ。お金取られるのばかばかしいからね」

「……それだけ?」

「ん」

「ずっと? タバコ喫いはじめてから」

「うん、そうだよ」


 それきり黙った。

 この人は、これでわたしが気づくことは無いと思っているのだ。

 子供だと思って。


 わたしは、前の小夜ちゃんのマンションの部屋のいたるところにキャスターの吸殻が突っ込まれた灰皿があったのを覚えている。

 泊まりに来たわたしが寝ている横でタバコを喫うのをはばかって、たぶんあのときはじめてベランダで喫った。

 それ以来なんだろう。

 そんなことにわたしが気づかないと思っているのだ。そして、わたしの気持ちなんかにとうぜん、気づこうとはしないのだ。


「さ、はやく寝なさい。なんなら子守歌うたってあげようか」

「……だから子供じゃないし……」

「アッハッハ! わたしにしてみりゃみのりはまだ子供よ」

「…………」


 また、ふうわりとキャスターの香り。

 わたしはいよいよ眠くなってきた。

 ねえ、小夜ちゃん。

 何か話したことは覚えている。小夜ちゃんがなにか返したことも覚えている。

 でも、何を話したかは、もう覚えていない。わたしは夢の中に落ちていった。

 ベランダから、月と、風と、小夜ちゃんが見守る中。


「小夜ちゃんッ! 朝ごはん作っといたからね!」

「ん~」

「じゃ、いってきます!」

「いってらっふぁーい」


 朝の小夜ちゃんはどうしようもない。

 明け方まで仕事をしているから、昼過ぎまで寝る羽目になる。

 わたしが朝ごはんを作っても、それはたいてい彼女の昼ごはんになるようだ。

 でも、わたしの見送りには出てきてくれる。

 それは、保護者として、なのかしら。それとも……。


 はあ、とためいきをつきながら土手の道を歩く。

 今のマンションは、前のマンションよりもさらに大学に近くて、歩いて15分かからない。

 うららかな陽気だが、わたしの心はいまいち晴れなかった。

 小夜ちゃん、わたしのこと、子供扱いしすぎではないか。


 バッグから紙のハコを取り出し、フタを開く。一本取り出して、口にくわえた。

 百円ライターで火をつける時にフィルターを吸うと、キャスターのバニラフレイバーが強く香った。

 小夜ちゃんとおなじ、キャスター。小夜ちゃんはずっとソフトの5ミリ。わたしのは1ミリのボックスだけれども。

 ふうと肺でまわした煙を吐き出す。

 川風に乗って煙はどこかに消えていった。

 小夜ちゃんはわたしがタバコを喫っていることなんか知らないだろう。

 たとえ、たとえ、万が一、わたしとキスしたって気づかないに違いない。


「……ばかだなあ……」


 誰に向かってだか何に向かってだか知らないけど、そんなことばが口から出てきた。




(了)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夜の風 カバなか @kavanaka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ