歪な箱庭の中で
「申し訳ございません、奥さま!」
「貴女が謝ることはないわ。なにひとつ」
「ですが……」
デイジーは男に好かれる天性の才能を持っている。本人は嬉しくないようだが。
ローズマリーがエドキンズ伯爵に嫁いできたのは五年前になる。
政略結婚で、夫もローズマリーも互いの浮気を咎めないことを了承しあう仲だった。
だがそれは夫婦の義務を果たしたればこその約束だったはずだ。
エドキンズ伯は夜会でも茶会でも、表向きは良き夫としての対面を保った。
それはローズマリーも同じだ。伯爵夫人として申し分のない働きをしてきたとローズマリー自身ですら思う。
それなのに伯爵は、ただ一点、ローズマリーがデイジーではないというだけでローズマリーを毛嫌いし、遠ざけ、事務的な最低限の会話しかしようとしない。
初めのころこそ伯爵家の運営のために、と歩みよっていたローズマリーだったが、自分の歩みよりがことごとく無駄であったと悟ってからはそれも止めた。同じ屋敷に住む者同士、せめて世間話くらいはしてくださいと詰め寄っても、迷惑そうに眉をひそめるだけで、改善の余地は毛ほども見られなかった。
あまつさえ、毒を盛られるようになった。
うっすらと曇る銀食器に血の気が引いたのは最初だけだった。今では顔色ひとつ変えずに食べきることができる。
解毒薬や治癒術師を雇う金がもったいないので、毒を盛るのはやめてくれと訴えても伯爵は毒など盛っていないの一点張りだった。ローズマリーを見る目は「さっさと死ねば良いのに」と如実に語っていた。
デイジーをいじめているわけではない。むしろ仲良くすごしているのに、なぜこんな扱いを受けなくてはならないのかがわからない。あの男は、胸の厚みのない女は生きている価値がないとでも思っているのだろうか。
毒薬の中身を入れ替える事も考えた。だが、あの男は毒の管理を自分一人で行っていた。長年仕えている自分の執事にすら鍵を預けない。伯爵に脅され、良心の呵責に耐えながら毒を盛る役目を背負わされた料理長にローズマリーが近付こうとすれば、すぐさま解雇する。どうしようもなかった。
さすがに妊婦となってからは毒を盛られることはなくなったが、やはりそれでも不愉快だった。
こんな場所、出て行ってしまいたい。何度そう思ったことか。
けれど、伯爵邸を出て行ったとしても、ローズマリーには行く場所がない。生きて行くあてがない。なんの生き甲斐もない、なんの意味もない人生だとしても、死ぬのは、まださすがに怖かった。
ぽろぽろと涙を流すデイジーはそれでもやわらかな手つきで両の手を己の腹に当てていた。
ローズマリーと違い、いまだ目立たぬデイジーの腹の中にも伯爵の子が宿っている。
妊婦にストレスはよくないのだけれど、と頭の痛くなりそうな思いでローズマリーはこめかみを押さえる。
これでデイジーが男児を産みでもしたら、伯爵は本気でローズマリーを殺しにかかるだろう。
暗殺など考えず、せめて離縁にしてくれれば、と思うも、あまり裕福ではないローズマリーの実家のことだから、目立つ失態のない、それどころか評判の良い娘を、平民を娶るために送り返してきた伯爵に、たっぷり慰謝料を要求することだろう。
エドキンズ家の資産はそこまで潤沢ではないのだから、払いたくない気持ちはわかる。
で、あればローズマリーに一言でも相談してくれたのなら、実家を説得する努力をしようとも思うのだが。
つらつらと伯爵の短所を羅列して、ローズマリーは伯爵夫人にふさわしくない表情を浮かべ、盛大に顔をしかめた。
「ねえ、デイジー。貴女はあんな男のどこがいいの? 貴女みたいな良い
それをあの粘着男が許すかは別として。
デイジーがこの屋敷から、ひいてはあの男から逃げ出したいと願うのなら、ローズマリーは喜んで協力をするつもりだった。
無論、あの男に惚れているとかでは断じてない。ただ、このかわいそうな娘をあの男から自由にしてやりたかった。
けれどデイジーは首を横に振る。
男の趣味がすこぶる悪いようだった。
「……貴女はこの上なくかわいらしいのに、男の趣味は悪いのねえ……」
「それは、わかっています。けれど、ザカライアさまはわたしに初めてやさしくしてくださった男の人なんです。母の葬儀にもお金を出してくださって……」
「それは下心満載の行動だと思うのだけれど……」
「はい。それもわかっています。けど、わたし、どうしてもダメなんです。悲しそうな、さみしそうなザカライアさまを放っておけないんです」
「そうなの。難儀な性分ね」
そんな性分だからこそ、ローズマリーを迎えることになった伯爵から離れられず、ローズマリーが妊娠したすぐあとに妊娠することになってしまったのだろう。
人の妻となり、これから子の母になるというのに、いまだ恋を知らぬローズマリーにとっては少しうらやましくもある。
しかし、さすがにデイジーの子を伯爵家の子として扱うのは外聞が悪い。最悪な夫婦仲を隠して守ってきた伯爵家の評判がガタ落ち間違いなしだ。
ローズマリーの子として、養子にしてもいいが伯爵は許さないだろう。あくまで自分とデイジーの子であって欲しいのだろうから。
「わたし、今度は、今度という今度は、お屋敷を出ます。これ以上、奥さまにご迷惑をかけられません」
「別に貴女のことは、ほんのわずかでも迷惑だったことなんてなかったけれどね」
ただあの男に執着されてかわいそうだなあ、と思うくらいだ。
「もういっそ、貴方が貴族であれば良かったのにね? そうすればすべてが丸く収まったでしょうに」
「なにをおっしゃるんですか、奥さま! そんなこと、冗談でも言ってはいけません!」
「あら。そこそこ本気なのだけれど。あまり興奮するのはよくないわ。
さあ座って。いつまでも
「……はい」
しぶしぶと席についたデイジーはもじもじと指を動かした。
「堕ろす、という選択肢はないのね?」
「はい」
震えていたけれど、力強い返事だった。
「この子さえいればわたしはザカライアさまに二度と会えなくてもいい、と思えます」
「そう。なら、貴女にはそのほうが良いと思うわ。あてはあるの?」
「お世話になっていた孤児院に戻ろうかと。あそこなら教会も併設されていますから、なにかと仕事を得やすいので」
「そう。その教会の名前を教えてくれるかしら。寄付をしておくから。あまり多くは出せないけれど、出産祝いとして受けとっておいて」
「そんな! いただけません! ただでさえ、奥さまにはご迷惑ばかりをかけているというのに……!」
「ですから、迷惑ではないと言っているでしょう? それに放っておいてもあの男が寄付するでしょうよ。自分だけが貴女の力になったと優越感に浸る男の顔を踏みつぶしてやりたいの。協力してくれるでしょう?」
「奥さま……」
ほんの少しだけ明るさを取り戻したデイジーの目尻から雫がこぼれた。
***
嫁いで二十年が経っても夫の態度は変わらず、
リリアンのことを考えて、男児を産みたいと訴えたが、聞き入れてもらえなかった。
女が爵位を継ぐことの大変さなどみじんも考慮してもらえないようだ。
ローズマリーは
ローズマリーは伯爵夫人としての義務を果たしているだけにすぎないというのに。
ある日、急にばかばかしくなった。すべてがどうでもよくなった。
ローズマリーの財産は嫁入り道具として持ってきた少しばかりの家財と、ドレス、夫から申し訳程度に贈られた宝飾品だ。
そのすべてをリリアンに遺す旨を遺書に書いた。
弁護士を呼び、遺言書を預けたことでローズマリーが解毒をやめると理解したリリアンが会いにきた。
幼い頃は快活な子で、よく笑う子だったのに、忙しいからと構ってやれず、父親に後継者であるはずの自分が必要とされていないと悟ってからは、本以外に興味を持たなくなってしまった。今では事務的な、最小限の会話しかしない関係になってしまった。
そんなリリアンを遺して逝くのは心配なのだけれど、もう人の心配をする気力すらなくなってしまったのだから仕方ない。
ローズマリーが死ねば、必ずデイジーの娘が屋敷に連れて来られるだろうから、仲良く……は無理でも会話くらいはしてあげてほしい。
デイジーの娘なのだから、きっと良い子に違いない。いまいち愛想の足りない
ねえ、デイジー。知ってた?
「いいですか、リリアン。私が死んだあと、あの男はかならず 妹をつれてきます。あなたが本にしか興味を持てなくなってしまったのは知っていますが、死に逝く母の願いです。あの男からどうか守ってあげてちょうだいね。
あの
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