婚約破棄されて修道院に行く気だったけどやっぱりやめた元お嬢様の話~暴露編~
空は青く、風はそよぎ、今日もぜっこうの読書日和だった。
アンは朝から昼までの家事や、日課を終え、大好きな読書にいそしんでいた。
昨日から楽しみにしていた冒険譚を読み進めていると、玄関の扉をノックする音が聞こえた。
アンはため息を落とし、本にしおりをはさんで玄関へと向かう。
妹と二人暮らしの小さな平屋だ。すぐに扉の前についた。また近所の住人がお裾分けをもってきてくれたのだろう。
それでも念のため、扉を開けずに声をかけた。
「どちらさまですか?」
扉の向こうからは朗らかな声が返ってきた。
「君の大親友のジルだよー、リリアン!」
今度は深くため息を吐いて、アンは扉を開け、玄関に立つ人物に深々と頭を下げた。
「
「冷たい! 相変わらずだね」
トライム国の王太子、ヴァージルの姿がそこにあった。
***
なにもありませんので、ゆっくりせずお早くお帰りくださいヴァージル様。トライム国の王太子がなぜ隣国の田舎に? それから
「いやいや、私はちょっと裕福な商人のジルさ。トライム国の王太子などはこの場にいないとも」
はあ。裕福な商人ですか。ではそのようにいたします。ジル様。
「さんでいいんだけどなあ」
いえ、見ず知らずの初対面の他人をさん付けなど恐れ多いことですわ。それで、裕福な商人のジル様がこんな田舎に何の用でしょう。
「それはもちろん好奇心だよ」
好奇心? それは昔から猫を殺すと言いますが……。物好きな方ですね。
「だって気になるじゃないか」
そうですか。それで、どこが気になるのです? 順序立てて考えればなんら不思議なことなどないと思うのですが。
「最初から最後まで、かな」
……。そうですか。世の中には知らなくていいことなどごまんとあると思いますよ。
「それでも知りたいと思ってしまうのは人の
そうなのですか。別段、
「君らしいね」
最初から最後まで、ですか。
「ああ。説明してくれるだろう? 私達の仲じゃないか」
はあ。わかりました。では説明させていただきます。あまり面白くはありませんよ。
「わかってるさ」
……。エドキンズ伯爵とその妻が政略結婚であることはご存じですね。
「ああ」
ですがエドキンズ伯爵には他に愛する者がいました。エドキンズ伯爵邸に勤めていた使用人で、気立ての良い、美しい娘であったそうです。伯爵の結婚が決まったときに邸を出ようとしましたが、伯爵に引き留められました。君の職を奪うのは申し訳ない、ただの主従に戻るからどうかこの屋敷にいてくれ、と。嘘だった訳ですけれど。伯爵夫人が身籠ったあとに義務は済んだとばかりに伯爵は再び関係を結ぶようになったそうです。伯爵夫人を裏切るのが嫌になった使用人は身重の体で逃げたそうです。それを手伝ったのが伯爵夫人です。
「伯爵夫人……。君のお母様が?」
ええ。べつに伯爵夫人は伯爵に対して恋愛感情をまっっっっっったく抱いておりませんでしたので。
「強調するね」
自分の恋人を逃がされたので、伯爵はさらに夫人を嫌うようになったわけです。
「なるほど?」
自己中すぎてなにも言えないくらいに愚かですね。うふふ。
「目が笑ってない」
失礼。伯爵の態度は子どもが生まれてからも変わりません。むしろますます伯爵夫人を遠ざけるようになりました。夫人によく似た娘も同様に。
自分の嫌いな人間とよく似た容姿の人間が増えたのですから当然といえばそうなのですけれど。――昔は父の気を引こうとしたときもあったのですよ。勉強や行儀作法をがんばってみたり。父の似顔絵を描いてみたり。すべて無駄でしたけれど。
「無駄なんかじゃないよ。そのがんばりのおかげで君は素敵な淑女になったんじゃないか」
慰めをどうも。そんなわけで伯爵令嬢は現実世界から本の世界に逃げこみ、読書が三度の食事より好きになったのですが。使用人達にも恵まれて幸福だったと言えるでしょう。哀れなのは伯爵夫人です。彼女は貴族の義務を胸に、伯爵夫人たらんと日々をすごしていました。がんばっていらしたのですよ? 愛情は無理でも、友情か仲間意識くらいは持てないかと伯爵に歩みよろうとして……。やはり無駄でしたけれど。
「………ひどいものだ」
伯爵は夫人がなにをしても、どんなに良い評判を受けても、まったく興味を持たず、情を抱くこともなく、夫人が死ぬまで、死んでからも邪魔者扱いをしていました。おしどり夫婦という評判は夫人の努力の賜物でしたのにね。
「君、怒ってるね?」
まさか。いいえ? 怒ってなど。
「別に隠すことじゃないさ。君は母君を嫌ってはいないだろう? なら、自分の母親が不当な扱いを受けて怒るのは当たり前のことだ」
……そう、なのでしょうか。……ええ。そうなのかもしれません。
「君は存外鈍いんだなあ」
まあ。鈍いだなんてひどい。反論はいたしませんが。さて、話がそれてしまいましたね。夫人の死因ですが、病死となっていますが毒殺です。犯人は言わずもがな伯爵です。遅効性の毒が少しずつ体内に溜まっていき、最終的に死に至る毒でした。気丈な夫人は伯爵の嫌がらせに負けてなるものか、と始めは抵抗をしていたのです。解毒薬を飲んだり、治癒術師を呼んで解毒術を施したり。義務感だけで二十年も。けれどまったく態度の変わらない伯爵に嫌気が差し、諦め、抵抗をやめたのです。
「……」
あら、顔色が悪いですね。お茶でも飲みますか?
「そうさせてもらうよ」
ええと、さてどこまで話したでしょうか。そうそう、それで伯爵令嬢が十六のときに安らかな寝顔で
「多少は。けど、君は修道院に行くはずだったよね?
ええ。そのときは修道院に行くのも悪くないと思っていたのですけれど、気が変わったんです。重大な見落としに気付きまして。
「重大な見落とし?」
アウティ半島のシビィ修道院には図書室も図書館もないのです。
「あー――、なるほど」
なんですか、その顔は。
「本当に思い切りがいいよね。でも、わざわざ死体を偽造までして死んだことにしなくても」
死んだことにでもしないと粘着男が地の果てまで追いかけてくるおそれがあったもので、つい。
「ついで死体を偽造しないで欲しい」
しかしよく死体が捏造だとわかりましたね? 使用人達が力を入れて捏造したと胸を張っていましたし、
「君をよく知る人間ならすぐ気付くさ。だって死体のそばに本が一冊もなかったからね」
ああ、それで。ですが、傍らに本がなかったというだけで死体の偽造に気付くのはあなたくらいでは?
「そうかなあ。父上も気付いていらっしゃったようだけど」
……ジル様も、ジル様のお父上も、どうかこのことは内密に。絶対に知られないようにしてくださいね。万が一にでもあの男に知られては困ります。もう引っ越しができる余裕はないんですから。
「おや。
そんなことはありません。いくら本狂いと言われていても生活資金に手は出しませんわ。今だって代筆の仕事をしていますし。それはともかく。これであなたの疑問には答えられたでしょう? 満足なさったらどうぞお帰りになって。
「まあまあまあ。もう少し。伯爵邸からほとんどの使用人が消えたけど、全員がこちらに?」
あなたの少しはちっともあてにならないのですけれど。ええ、屋敷にいた使用人のほとんどはこちらにいます。
いい気味です。
「悪い顔だ」
失礼。
「君も今の暮らしを満喫してるのかな?」
ええ。大満足です。空気を悪くする人間は存在しないし、本は読めるし、妹はかわいいし。
「ああ、ダリアだっけ?」
「わかったわかった。君も妹さんの魅力にやられちゃったんだ?」
そのような言い方はどうかと思いますが。ディーは良くできた
「なるほどなあ」
帰る気になりました?
「めちゃくちゃ帰らせようとしてくる……。ここまでくるのにけっこう大変だったんだから一泊くらいさせてよ」
***
「御冗談を。もう欲しい情報は手に入れたでしょう?」
リリアン――アンは眼鏡のつるを押し上げ、チェストから封筒を取り出した。
「夫人を殺した証拠は、まだ伯爵に見つかっていなければ
ヴァージル――ジルはさっそく封筒の中身を検めた。
「うわあ、めんどうな手順だなあ。
でもこれなら急いで帰らなくても大丈夫だよ。
「あら、まあ」
つい上がってしまったアンの口角を見たジルも笑う。
「フフ。悪い顔だなあ。そんな君も魅力的だけどね」
「お世辞は結構ですと毎回言っています」
「ははは。読書友達がいなくなって父上も寂しがってるよ。君と本について話すのをとても楽しみにしていたから」
「ヴァージル様がお相手をなさってあげてください」
「ジルだってば。本は好きだけど、さすがに父上ほどでは。それよりは馬に乗りたいかな」
「机仕事が嫌だと言っていましたものね」
「アハハハ」
長話の末に紅茶は冷めてしまった。アンはそれを飲み干してしまう。リリアンであったころとはまったく違う、安っぽい味だ。けれど嫌いではない。
「これでもう知りたいこともなくなったでしょう。お帰りを」
「せっかちだなあ。なんで伯爵を捕まえたいのかくらい聞いてくれないか?」
「興味ありません。どうせ世論でしょう」
「まあね。あーあ、もったいない。君が文官になって、城勤めをしてくれたら毎日がおもしろかっただろうに」
「ご冗談を」
「いやいや、私は本気だよ?」
ジルが目を細めた。まるで猛禽類に睨まれているようだ。アンが蛙であったなら身動きがとれないばかりか、呼吸すらおぼつかなかったろう。
けれど、アンは蛙ではなく人間であったので、笑顔をジルに返した。
「ただいまー、姉さん」
「おや、お帰り」
「おかえりなさい、ディー」
「……誰ですか?」
ディーはアンと話している見知らぬ男を警戒したようだった。訝し気な視線を送っている。
「こちら、裕福な商人の放蕩息子のジル様、という設定のトライム国の王太子ヴァージル様」
「放蕩息子なんて言ってないんだけどなー」
「……初めまして」
王族と聞いたディーの警戒度がさらに上がった。無理もない。王族にはロクな思い出がないのだから。
「さあ、
「君は本当に容赦がないな……」
ジルはがっくりと肩を落とした。
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