おわりに

おわりに

 以上に『孟子』『墨子』『荀子』『韓非子』『管子』『呂氏春秋』に見られる城郭観を整理、検討してきた。

 そこに見られた城郭観は、戦国期を通じての戦争拡大に対応して、次第に城郭の防衛機能に対する関心が強まっていく状況を反映していた。特に戦国後期に至っては、『墨子』後期成立部分のように、城郭の防衛機能を積極的に主張する態度があらわれ、本来的には城郭の防衛機能に否定的であったはずの儒家であっても、戦国中期の『孟子』の城郭を否定的な比較材料として扱って、儒家の徳目を主張する姿勢から、『荀子』のように「礼」という自己の理論の説得性を補強するために、城郭を肯定的に利用する姿勢への変化があらわれた。

 また『韓非子』や『管子』などの史料には、『孟子』に顕在化し始めた社会問題が、戦国後期になって深刻化し、貨幣経済の浸透と貧富格差の拡大、農民人口の流動化、また個人主義や功利主義の進展、任侠的習俗のような民間独自の秩序形成などによって、国家の管理能力が低下し、国家を主体としてなされることを想定する城郭の修築管理や食糧の備蓄などの公共機能の維持が困難となった社会状況があらわれていた。その一方で、国家は人民の生活保障と対外安全保障を行わなければならず、それらが行われなければ、人民の国家統制からの離脱という事態を生んだ。これらの社会状況を反映し、『墨子』後期成立部分や『管子』『韓非子』には、戦国後期以前にはあまり主張されなかった、安全保障上の城郭の防衛機能の活用や、城郭の管理維持体制に関する問題意識への関心の強まりが、見られるようになった(注66)。

 そして『呂氏春秋』の城郭観の検討によって、以上のような城郭観は東方諸国のものであり、秦にあっては東方諸国に対する軍事的優勢という政治状況や、その自然環境の条件から、城郭の需要は東方諸国に比べて相対的に低く、東方諸国とは異なった城郭軽視の城郭観が存在したことがわかった(注67)。

 また、城郭観の地域的差異の存在により課題もあらわれた。今後の城郭研究は、その政治経済的背景だけでなく、地域ごとの自然生態環境、特に水利との関係から城郭を検討していく必要がある。その研究には、考古資料や戦国時代の気候や地質などの科学的検証を基礎にして、その政治、経済、社会への影響を、文献史料によって検討していく必要があると思われる。その際には、本稿で整理、検討した戦国諸子の城郭観と城郭史料は、研究の進行によって修正を加えながらも、文献研究における戦国時代の城郭理解の基本的な視座として活用できるものであろう。

 はじめにで述べたように、中国史と城郭の関係は長期にわたって密接であり、決して切り離すことができないものであった。その関係はおそらく治水の必要性などの中国の自然環境から発生したものであると思われるが、その後の春秋戦国期の諸国間抗争によって、国家による城郭強化、管理という、政治的に明確な関係へと発展し、戦国諸子は多くこの問題を議論していた。そしてこの諸子の中で、前漢に儒教が国教化され、戦国時代に秦を除く東方諸国に存在した城郭文化を形式化し、「礼」の一環として政治的に中国全史、全地域に拡大させていったのである。

 このように戦国時代の城郭研究は、中国の歴史文化を理解する上でも重要な研究視座であり、以後も研究を持続していく価値のある研究対象であるといえよう。


(注66) このような社会分解の方向性を、君主権の強化によって再統合することを狙ったのが、『韓非子』に代表され、『管子』にも見られる法家思想であったと考えられる。おそらく『荀子』の「礼」統治思想も、同様の背景から発生したものであった。この問題は戦国時代にあって、増淵龍夫氏が主張した民間における任侠的習俗への方向性(増淵龍夫『中国古代の社会と国家』弘文堂 一九六〇)と、西嶋定生氏が主張した皇帝による個別人臣支配への方向性(西嶋定生『西嶋定生東アジア史論集 第一巻』岩波書店 二〇〇二)が、同時進行で存在したことを示している。特に後者は前者の存在を理由として、その強化を推し進めていったものと考えられる。つまり、国家統制外への離脱を志向する人民を、いかにして国家の秩序に組み込んでいくかが、戦国後期の政治ベクトルであり、その現実における方法論の模索から誕生したのが法家思想及び法家的思想傾向であったのだろう。そのため思想史研究に見られるような、戦国後期の諸子思想を法家の影響があるか否かで分類する意義はあまりないように思われる。戦国後期という社会状況は、その思想を現実の社会問題に反映させることを意図する限り、その方法論に法家的思想傾向を含まなければ、現実的実効性を持たない空論とならざるを得なかったと想像できる。戦国後期の法家思想の影響拡大は、戦国時代に進行した社会状況から発生する歴史的必然であり、むしろこれに影響されない思想の方が特殊なものであったと考えられる。道家思想と『韓非子』の関係や、後期墨家思想に見られる秦の影響、『管子』や『呂氏春秋』といった雑家的文献の性格といった問題は、こうした戦国時代の社会背景や政治ベクトルから、再検討を行う必要があると思われる。

(注67) この東方諸国と秦の城郭観の地域的差異から、本来都市住民の負担によって維持されていた城郭が、東方諸国での社会分解による城郭維持体勢の持続困難な状況と、秦の城郭軽視の状況によって、秦律に頻見される城旦舂といった、公民の徭役負担に頼らない、罪人や奴隷による城郭修築の制度を形成していったと想像できる。この城旦舂の制度の起源について検討していくことは、戦国時代の城郭を取り巻く歴史状況のひとつとして、今後検討していく必要のある課題であると思われる。

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戦国諸子文献から見る中国戦国時代の城郭について ラーさん @rasan02783643

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