第三節 城郭観の地域的差異とその歴史的展開

 秦と東方諸国の城郭観の差異は、戦争や社会状況における立場の相違だけでなく、その自然生態環境の相違も考慮に入れなければならない問題であると思われる。特に黄河を中心とした生態環境史にあっては、山林伐採と耕地開拓によって土地の水土保持能力が低下し、河川への土砂流入量が増加して、河川氾濫が多発するようになったと想定されている(注63)。城郭と治水の関係性は前章第三節に言及したとおりであるが、この山林伐採と耕地開拓は、人口が多く文明の先進地域である黄河中流域に先行して起きた現象であり、城郭の需要は黄河中流域に高いものであったことが想像される。これに対して後進地域である秦は、山林伐採と耕地開拓も進行段階にあったと思われる。そしてこの時期の秦都咸陽がある関中地区は、現在よりも温暖湿潤で気候環境もよく、苑囿も多く建設されたと指摘され(注64)、土地の水土保持能力も現在の長安付近の乾燥した環境に比べると、高かったものと推測される。また、秦は黄河の上流域であり、河川氾濫が発生してもその被害の影響は、下流にある東方諸国に比べて低いものであっただろう。このため民生用の城郭に関してもその積極的必要性を覚えず、咸陽のように防衛上の必要性がなければ城郭を建造しない都市が発生したものと思われる。

 以上のような自然生態環境や地理的条件は、それぞれの地域の城郭観の形成に大きな影響を与えるものである。本稿では本格的な検討は行えなかったが、最新の考古資料も含めて、今後はこうした観点からの研究が課題となってくるだろう。

 さて、こうした背景から『呂氏春秋』の城郭観を考えると、その時令関連の城郭史料や城郭破壊を非難する主張は、呂不韋が東方諸国から集めた学者たちの説であったと推察される。彼らにとって、城郭という存在は、民生上の必要条件であった。

 先に引用した『呂氏春秋』覧部順説篇、論部愛類篇や、『墨子』非攻下篇、天志下篇において、城郭破壊行為を殺人行為と同列に扱う非道な行為と認識することは、城郭の存在が民生上或いは精神上において、非常に重要な意味を持っていたためではないかと推測される。さらに『韓非子』存韓篇の「城尽きて則ち聚散ず」や、『呂氏春秋』覧部先識篇に「地は城に従い、城は民に従い、民は賢に従う。故に賢主は賢者を得て而して民得られ、民得て而して城得られ、城得て而して地得らる」とあるように、城がなくなれば民がいなくなり、民を得れば城が手に入るとする認識も存在した。その関連性の詳しい理由は不明であるが、おそらくは東方諸国の自然環境とその反映である文化環境にあると思われる。このように東方諸国にあっては、城と民の生活は非常に密接なものであったと推察されるのである。

 この東方諸国の城郭観が、呂不韋の集めた学者たちを通して『呂氏春秋』に反映され、城郭の防衛機能という軍事上のリスク要求からしか必要性の発生しない問題に対する主張はなされなくなり、反対に秦の城郭軽視の城郭観を啓蒙しようとする立場から、城郭破壊の非道性や、時令思想と合体して城郭の民生上の必要性を主張する、『呂氏春秋』の城郭観を形成したと考えられる。

 こうした城郭観の地域的差異は、秦と漢の城郭政策の違いに大きく反映されているものと思われる。

 秦は前二二一年に天下を統一すると、その六年後の前二一五年に「皇帝威を奮い、徳は諸侯を并せ、初めて泰平を一とし、城郭を堕壊し、川防を決通し、険阻を夷去す」(『史記』始皇本紀)と、全国に城郭の破壊を命令している。この命令の真意は不明であるが、以上に見てきた秦の城郭観の傾向から考えて、秦、特に城郭の存在しない咸陽という都市に生活する始皇帝は、城郭の機能に関しての民生面での機能を深く理解せず、反対にその機能の非常に明確な、また秦の天下統一事業の障壁となった、城郭の防衛上の機能にしか注意が向いていなかったために、天下統一後、戦争のなくなった中国において城郭は不要であると判断したのではないかと思われる。

 しかし、現在の江蘇省沛県出身の農民であった漢の高祖劉邦は、始皇帝とは異なり、城郭の含む民生機能への理解があったと思われる。劉邦が楚を倒して皇帝に即位した翌年の、漢の六年(前二〇一年)冬十月に劉邦は「天下の県邑をして城か令む」(『漢書』高帝紀下)と全国に城郭の建造を命令した。これは劉邦が城郭の民生機能に理解を持っていたことのあらわれであると思われる。それを反映するように、高祖はその在位中、国都長安の城郭建造を行っていない。もともと咸陽にも城郭はなかったので、関中にあっては城郭の民生上の需要は低かったと想像される(注65)。この城郭建造命令は、城郭の防衛機能の回復を問題としたものではなく、城郭の民生機能の回復を行い、新王朝である漢の統治を安定化させるために発令されたものであったと考えられる。

 このように城郭観の地域的差異は、秦と漢の政策にも大きな影響を与える重要な問題であった。そして前漢武帝期においては儒教の国教化という事件が起こる。儒家の城郭観は今までに見てきたように、「礼」と密接な関係にある。

 もともと「礼」とは、古代中国の生活慣習が形式化したものであった。この中には城郭文化も含まれている。そして戦国時代の儒家の活動領域は、その発祥地である魯を中心に、ほぼ秦を除く東方諸国であった。彼らが「礼」化した城郭文化は東方諸国のものである可能性が高い。つまり、儒教の含有する東方諸国の城郭観が、「礼」という形式の中に残存し、それが儒教の国教化によって「礼」の実践という政治的目的を持つ城郭観に変容し、その後、宋代に「鎮」と呼ばれる城郭を持たない商業都市が発生する一方で、県城以上の政治的都市は、それぞれの地域の自然条件の違いを超えて、全て城郭都市として存在するという、中国全史を貫く城郭観になったと考えられるのである。


(注63) 小林善文「生態環境史より見た黄河史―中国における研究動向をめぐって―」(『神戸女子大学史学』二〇 二〇〇三)

(注64) 徐氏前掲書。

(注65) 長安の城郭は恵帝元年(前一九四年)にその建造が始まり、恵帝五年(前一九〇年)九月に完成した。佐原氏はその建造理由を、恵帝(事実上の呂氏政権)時代の政治不安を反映した、軍事的リスクによるものであったとし、そのためその城郭遺構からは、都市計画の存在を読み取ることはできないとしている(佐原氏前掲書)。

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