第二節 『呂氏春秋』の城郭観と秦の城郭観
『呂氏春秋』の城郭観としてまず気付くのは、他の戦国後期の諸子文献に見られた、城郭の防衛能力の強化を一切主張しない点である。『呂氏春秋』ではむしろ、攻撃側の視点に立ってその戦争行為を非難するのに、城郭破壊行為を取り上げている。
田賛衣補衣而見荊王。荊王曰、先生之衣何其悪也。田賛対曰、衣又有悪於此者也。荊王曰、可得而聞乎。対曰、甲悪於此。王曰、何謂也。対曰、冬日則寒、夏日則暑、衣無悪乎甲者。賛也貧、故衣悪也。今大王、万乗之主也、富貴無敵、而好衣民以甲、臣弗得也。意者為其義耶。甲之事、兵之事也、刈人之頸、刳人之腹、隳人之城郭、刑人之父子也、其名又甚不栄。意者為其実邪。苟慮害人、人亦必慮害之。苟慮危人、人亦必慮危之。其実人則甚不安。之二者、臣為大王無取焉。荊王無以応。說雖未大行、田賛可謂能立其方矣。若夫偃息之義、則未之識也。(覧部順説篇)
王也者、非必堅甲利兵選卒練士也、非必隳人之城郭、殺人之士民也。上世之王者衆矣、而事皆不同。其当世之急、憂民之利、除民之害同。(論部愛類篇)
両方ともに、城郭破壊の行為が殺人行為と同列に扱われている。これは『墨子』非攻下篇、天志下篇の戦争惨禍の被害を述べる際に、城郭破壊行為と住民の虐殺を同列に扱うのと、認識を共有しており、おそらく墨家の関与によるものと推測されるが、その問題はここでは措いておき、ここではその戦争行為の非難姿勢について問題とする。『呂氏春秋』においてはこうした戦争非難の文脈で城郭を用いる以外は、時令思想の中で「是月也(中略)修宮室、坿墻垣、補城郭」(紀部孟秋篇)といったように、季節ごとに行うべき行政措置のひとつとして城郭を取り上げるものが中心であり、これは城郭の防衛機能を高めて戦争リスクに対応するためのものではなく民生上の利用であり、『墨子』や『韓非子』に見られるような切迫感のある城郭観とは異なる。ただし、城郭の防衛機能の条件について知識がなかったわけではなく、論部似順篇に見られる説話では「荊の荘王陳を伐たんと欲し、人をして之を視さ使む。使者曰く、陳は伐つ可からざるなり。荘王曰く、何故か。対えて曰く、城郭高く、溝洫深く、蓄積多ければなり」と、城郭城濠の防備と食料・資材の備蓄を、戦争を仕掛ける際の問題条件としており、これは『墨子』や『韓非子』などと認識を共有している。
それでいながら、何故『呂氏春秋』にあって、戦争非難を主張するのに城郭を用い、防衛問題で城郭を議論することはなかったのか。この戦争非難の主張は墨家の非攻説と強く関係しているし、『呂氏春秋』の編纂には、守城集団である墨家の学者が強く関与したと指摘されている(注60)にもかかわらずに、何故このような状況にあったのであろうか。
これらの原因は全て戦国末期の秦という『呂氏春秋』の成立環境にあったと思われる。つまり、戦国末期の秦にあっては、天下統一間近という状況にあり、侵攻を行うことはあっても、守勢にまわって城郭を防衛するという事態は、可能性として低かった。そのため城郭の防衛機能への関心が低下し、『呂氏春秋』が現実を対象としてその主張を展開する限り、城郭の防衛強化を政治的に訴える必要性は、秦においてなかったと考えられる。反対に『呂氏春秋』では、攻撃側の行う城郭破壊行為を問題として、秦の戦争行為を非難するために城郭を用いたと想像される。
考古資料を用いた研究では、秦の城郭は東方諸国の城郭に比べると、貧弱な傾向にあり、さらに秦都咸陽には城郭が存在しなかった(注61)。徐衛民氏は、秦の都城と他の戦国諸侯国の国都とを比較して、これら秦の城郭の状況は、秦は中原における城郭の伝統的建築方法や目的にこだわらず、その需要に応じて城郭を建造したため、戦国後期に秦による天下統一の流れが確定的になった時期にあって、城郭の建設需要は低くなり、咸陽にも城郭を築く必要性を覚えなかったためであると理解している(注62)。この理解は『呂氏春秋』の示す城郭観と一致しており、秦における城郭への関心の薄さをあらわしている。本稿で前章までに整理、検討した戦国諸子の活動は、秦を除いた東方諸国を中心としており、その城郭観もまた、城郭の防衛機能を重視する姿勢などから、秦に対して防衛にまわらざるを得ない東方諸国の城郭観であったと思われる。
また秦と東方諸国では統治体制に大きな違いがあった。秦は商鞅の変法によって、商業を抑制して質実な農戦体制を整えた国家であり、集権化した政治力で、住民も法治によってしっかりと管理されていた。この秦の体制を荀子は、民衆は素朴で政治も秩序があり、「故に曰く、佚にして治まり、約にして詳、煩ならずして功あるは治の至りなりと。秦は之に類するなり」(『荀子』彊国篇)と、秦の統治状況は理想的統治体制に近いものとして賞賛していた。これは東方諸国との比較も含まれた見解であると思われ、その城郭を取り巻く環境は、『韓非子』や『管子』に見られる国家の統治能力が低下傾向にあった社会状況とは、大きく異なっていたと想像される。
このように『呂氏春秋』に反映される秦の城郭観に関しては、東方諸国の城郭観とは異なる背景を想定して検討する必要があるだろう。
(注60) 渡辺氏、沼尻氏前掲書など。
(注61) 徐衛民『秦都城研究』(陝西人民教育出版社 二〇〇〇)、五井氏前掲書。小沢正人・谷豊信・西江清隆『中国の考古学』(同成社 一九九九)など。
(注62) 徐氏前掲書。
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