第30話 悪

『殺してしまえばいい』



本来ならば迷うまでも無く断って然るべきその提案に、迷うどころかややもすれば流されてしまおうなどと、思考を蕩かす快感を感じてしまうギルバートは、自分の中に浸蝕する悪魔の囁きを“もっと”と、求めてすらいた。

しかしそのどこか歪な欲求に対して自覚は無い。


凡そされるがままに生きてきた彼にとって“悪”とは“受け入れるより他に選択肢の無い行い”の事であった。


そんな彼は産まれて初めて、今迄の受動的な生から逃れ“与える”側に着くチャンスを得ようと手を伸ばしている。




─奴隷として産まれ落ち、然程悪くはない商人の元でゆるり旅をして暮らして後、男爵に買われ籠の鳥の様な生活を過ごした。


再び売り飛ばされた2度目の奴隷商の元は余程酷かった。商品の少年達は皆例外無く随分とぞんざいな扱いを受けていたものだ。


食べ物はおろか水さえもろくに与えられず劣悪な環境下で、当然の様に病に罹ればその辺の路傍に打ち捨てられた。寒空の下人っ子一人通らなそうな荒れた叢に投げ置かれる哀れな少年たちを、一体何人見届けた事か。彼らはきっともう生きていないだろう。


野晒の檻の中で容赦無く打ちつける風雨に震え、粗末な布のすえた匂いにさえ暖を求めて纏えば、

自身も病に罹れば同じく見殺しにされるのだろうと漠然と想像したものだ。


周囲の者達は、自分と同じく諦め無に臥して虚ろに足元を見詰めるか

はたまた、枷に縛られたまま道端に投げ捨てられた同乗者達を幾度と思い出しては、次は己の番が来ると悪夢に苛まれ膝を抱え震える者も居た。


されるに任せるか、やがてもたらされる所業を思い怯えるか…

これまで自分に許されて来た選択肢とはこのどちらかであり、何方を選んだところで結果は変わったりしなかった。


それがどうか、今度の選択は

一方を選べば恐らく安寧の日々が、もう一方を選べばそれは自由に繋がる。


自由を選べば、これからももっと自由な選択をしていける。


──この人は神様だ。

私に自由をくれようとしている──




ギルバートの認識の中で、他人によって与えられる死とは悪では無かった。

“殺される”とは“致し方無い所業”なのだ。彼にとって命の重さや、罪の意識等はいっそ軽薄なものだった。

自分の命はいつも誰か知らぬ他人の手の中にあって、重く扱われた事など唯の一度も無かったのだから。




「どうやって殺すのですか?私は何をしたらいいのですか?」


そう問い掛けるギルバートを見下ろし、リチャードは無表情のまま小首を傾げて質問に質問で返した


「ねぇ、何がそんなに嬉しいんだい?


僕を描けること?

それとも、人を殺すこと?」



問われてギルバートはきょとんとしてしまう。


嬉しいとは何だろう。


問われた意味を分からず呆けたように視線を返す彼を見て、リチャードは付け足した


「いや、君があんまり嬉嬉とした顔をしているから。

君はこれ迄あんまりそういう顔をしなかったから不思議だったんだ。」


嬉嬉と、している?


そんな事を言われたのは人生で初めての事だった。


愛想が無いだとか、感情が無いだとか、つまらないやつだと罵られることはあれど、自分を見て嬉しそうだと言う人には、これまで出会ったことが無かった。



─嬉しい?


これがそうなのか。


絵を描いている時の感情に少し似ているかもしれない。これが嬉しいんだろうか?


考えた所でよくは分からなかったし、大して興味も無かった。

喜怒哀楽が理解出来ないし、まだ震える程の感動でも無かったからだろう。


今ギルバートにその嬉嬉とした表情を零れさせたのは、ルーヴを描く事でも、人を殺す事でも無かった。


彼はただ“選択出来る”というほんの些細な事が、顔が綻ぶ程には嬉しかったのだ。



黙って見上げるばかりで答える気配のない彼の返事を待ちくたびれたリチャードは、もう興味の失せた様に視線を逸らして続けた。


「僕が閉じ込められていた地下室には本があった。

それは父さんが読み置いた本では無く、元々そこにあった本だ。


僕はある夜ベッドの下にそれが落ちているのを偶然に見つけた。


それは“魔女の日記”だったのさ…」


リチャードの言う魔女とは、嘗てこの屋敷に暮らしていたクロエのことであった。


ギルバートは以前フィリップより聞いた、嘗てのこの屋敷の主人であるオリヴァーという商人とクロエという美しい奥方、使用人のエレンとギルバートにまつわる昔話を思い出した。


彼らは皆穏やかに睦まじく暮らしており、オリヴァーはクロエの作る治療薬を商品などにすることも無く、世間から隠す様にひっそりと匿い、エレンとギルバートはそれぞれに屋敷の仕事をまかなっていた。軈て年老いたオリヴァーが亡くなり、奥方は残された使用人の2人に屋敷の留守を頼んで姿を消したと聞いていた。


ところが、日記に記されていた内容は、そんな平和な物語とはまったく別の物語であったという。



「話の続きはまた明日…そろそろ日が暮れるよ」


窓の外は相変わらず雪に覆われ、灰色の雪雲が辺りを暗くしている。

不穏な密会は雪に隠して、また素知らぬ顔して階段を降りていく。扉を開けたら元の世界。

塔を降りていくリチャードの背中を見つめながらギルバートはほんの少し残念な気持ちになっていた。

魔女の日記など、一体ここを出るための何の役に立つというのだろうか…

せめてそれを聞こうと口を開きかけた時


扉の前で振り返ったリチャードが、唇の前にそっと人差し指を立てた。


「今日の事は、誰にも言ってはいけないよ…ギル」

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館の主 三毛猫 @mike_neco

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