第29話 首輪Ⅲ
リチャードは夜明けを待っていた。
やっと外に出られるのだ、こっそり抜け出したりするのではない。許しを得て部屋を出るのだ。
扉に錠のかかっていない事を知って尚じっと部屋で迎えを待った。
明け方、階上の扉が開かれる音が聞こえるとぴくりと反応した。野生の獣が何者かの気配に耳をそばだてるように…
コツンコツンと、石階段を踏み鳴らすくぐもった靴音が響く、聴き慣れない足音だ。
やがて部屋を訪れたのは父ではなく“ギルバート”を名乗る例の少年であった。
おずおずと扉を開いて、そろりと顔を覗かせた揺れる金髪の少年は、既に支度を整えて椅子に腰掛けていたリチャードを見つけると、相手を窺う様に見つめてから小さく言った。
「あ、あの、おはようございます。リチャード様」
「…様は要らないって言ったでしょう、ギルバート」
リチャードがにこりと柔く微笑み返すと、彼もまたほっと胸を撫で下ろしたようになり
「キッチンでスミスさんが…あ、お父様がお呼びです」と、言い直した。
「君が呼び易いように呼んだら良いと思うよ」
二人連立って歩く途中、ギルバートはなんとも形容し難い僅かな違和感を抱いていた。
けれどそれが何なのか見出だせぬままに、キッチンへと辿り着く。
中では既に執事が主人の食事の用意を初めており、湯を沸かした鍋が温かな湯気をたたえていた。
ギルバートは初めて訪れるキッチンを物珍しげに眺め、片やリチャードは
在りし日の母達の面影を探す様に辺りを見回した。
執事はそんな2人を少しばかり微笑ましく思いながら、スープに入れる野菜やパンを切らせたり、食器の場所を教えたりした。
屋敷内の掃除などの仕事が粗方済むと、夕飯の支度までは特に何も無いから屋敷の中で好きに過ごしなさいと言い残して執事は部屋を出ていき、見習いの二人は談話室に取り残された。
手持ち無沙汰に立ち尽くすギルバートにリチャードは
「ねぇ、君の部屋もあるんでしょう、良かったら案内してくれない?」
唐突な申し出に少々戸惑うものの、そもそもあれは貸し与えられた部屋で、自分の所有物でも無いわけだし…別段断る理由も無いので
“はい”
と、二つ返事で答えると談話室を出て、暗い廊下を奥へと進んだ。
角を折れたところで塔への扉が見えてくる。冷たいドアノブに手を置くと、後ろを着いて来ていたリチャードが小さく声を洩らした
「へぇ、ここなんだ…」
独り言のようにも取れる程の小声に、視線だけでチラと後ろを覗えば、黙って扉を開いた。
薄暗い螺旋階段の踊り場に立ち入り
「この上です」
と指差す。螺旋を囲む石壁の上部、明り取りの窓から僅かな光が洩れ差している。外は今日もしんしんと降り続く雪模様で、薄暗く足元もよく見えないだろうと察したギルバートは、扉横に掛けられた洋燈をつけようかと振り返った。
「あの、暗いので洋燈を点けましょうか…」
振り向き様見上げたリチャードは、暗い階段の先をじっと見詰めており、その瞳はぼんやりと赤い光を灯していて…
魔性の宝石の如きその赤い瞳に、ギルバートはまたしても心奪われた。
─なんて美しいんだろうか。
問い掛けも半ばに動きを止めて見上げる少年に気付き、リチャードもまたゆっくりと視線を下げて彼を見つめ返した。
リチャードの目にも少年は目を留める美しさを持って映った。若々しく滑らかな肌に、ツンと筋の通った鼻先、人形の様に大きな碧眼、血色の良いじんわりと薔薇色の差した品の良い唇に、絹糸の様な柔らかな金髪。
女の様な顔立ちに、少年らしい骨の浮いた鎖骨や、首の筋なんかがやけに艶かしく映る。
じっとこちらを見上げる彼は、自身の持ち得ない繊細な美しさを模していた。
もしも獣の爪が一度その柔肌に触れようものなら、きっと鮮やかな赤い一筋を引いて容易く裂くだろう。
二人が互いの姿に魅入っていたのはほんの僅かの間であったが…
音も無く降り積もる雪が、辺りの音や気配、時間を吸い込んで作り出すその静寂は、ほんの刹那の間に濃厚な感受を齎らした。
先に静寂を破ったのはリチャードの言葉であった。
「…じっと見詰めて、僕の目がそんなに好きかい?」
その言葉にハッとしたギルバートはとても恥ずかしくなった。
気取られる程に見惚れていたのかと。無意識だとしても不躾に、まるで欲情にも似た熱を込めたその視線を彼に浴びせていた事を気付かれたのかと思うと、居ても立ってもいられぬ様な羞恥を覚えた。
「も、申し訳ありません!」
慌てて視線を逸らし、罰悪そうに足元を見つめているその様子を、悪戯に覗き込むように腰を屈め囁きかけた
「素直になりなよ、君は僕が好きなんだ。そうだろう?」
人狼だからと言って、特別な呪術が使える訳じゃない。
けれどギルバートはまるでまじないにでもかかったような、フワフワした心地に襲われた。耳元に低く響く低音が心地良く神経を震わす。
視線を恐る恐る上げれば、赤い瞳が此方を見つめていた。はらりと落ちた一房の白銀がより赤を濃く魅せる。
「…その、あんまり美しくて…」
「君は僕を描きたいんだ」
「はい…」
誘うような問答にぽつぽつと胸の内の欲を吐露するギルバートは、己の奴隷としての禁忌を破る背徳を覚えたが、それさえ心地良いと感じてしまう自身の淫らを止める事ができず、耳元から侵食してくる悪魔の囁きの様な甘言に享受した。
赤い瞳の彼は一歩前へ踏み出すと戸惑う少年に手を差し伸べた。
「さ、行こう」
骨にシルクを被せたような生力を感じない手、細長い朽枝が広がった様な指先が招く。
少年は心奪われたまま、操り人形の様になって自身の手をそこへそっと重ねる。すると力無く包み込む絡繰のような指先。
強く引かれても居ないのに呼び寄せられる様に、掬われた掌に着いてゆく。足元で軋む木の板は、いつも嫌な音で鳴いてた筈なのに、この時は少しの音も出さない。
─…あぁ、この雪白の指先が
重たい雪の様に音を吸い込んでいるに違いない。
漠然とそんな事を思った。
夢見心地のまま部屋の前まで来ると、もう片方の白い手が扉を開いた。中へ入ると手は離されてしまい、彼の冷たい指に誘われた心地を惜しんで少年の手は空を彷徨うように落ちた。
別段珍しい物も無い殺風景な辺りをぐるり見回すと、リチャードは窓際の机に置かれた一枚の絵に目を留めた。
彼が机の一点に視線を釘付けにし近付くのを見て、少年ははっと我に返った。
「それは駄目です!!」
思いがけず出てしまった大声に口元を覆った。しかし呼び止めるも虚しく、振り返りもしない彼は歩みを進めて紙を手に取るとじっくりと舐める様にそれを眺めた。
「これが僕…へぇ、狼の僕はこんな感じなのか。悪くない。
ねぇ、僕をこっそり描いていた事…許してあげるからお願い聞いてくれる?」
“こっそり描いていた”
いけないことをしてしまったのだと気付き、不安から蒼白になった少年は怯える瞳で彼を見た。“お願い”をされる事よりも自分のしでかした愚行が他人を不快にさせた事が気になってしまい、コクコクと首を上下に振るしかできなかった。
その様子に、嬉しげに細めた双眸から赤い瞳が覗いている。
「…僕の首輪を外して、ギル」
「…そ、それは……出来ません…」
「何故さ?」
「鍵を持っているのは旦那様です…貴方は、ルーヴですか?」
「……」
ふっと表情を消した彼は静かな溜息を洩らしたあとに続けた
「ルーヴなど、初めから居なかった。
と、言えるし
リチャードは既に居なくなった…とも言える。
つまり僕は初めから一人。ルーヴもリチャードも僕の一人芝居だよ。全てを捨ててここから逃れる為の。
欺く為に仕方なく着けた首輪が邪魔でしかたないんだ、外してよギル」
「そ、そんな!じゃあ貴方には全ての記憶が?アーサーの事も…」
「そうだよ。体を動かせなかったのは事実だったけれど、それでも暫く経ってからは満月の夜ならば動く事が出来るようになった。
それからは毎夜、父の読み置いて行った本ばかり読んで過ごしていた。
もう飽き飽きなんだよ、こんな牢獄に囚われた生活なんて。
だから首輪を外して…一緒にここから出よう」
「出ようって…一体どうするつもりですか?行くところなんてどこにもない…」
「いいじゃない、そんな事。出てから考えれば。どこに行ったってここよりはマシさ。
一生囚われたまま鎖に繋がれて、死ぬ迄墓場の様な屋敷で過ごす地獄より最低の場所なんて僕にはないよ。」
「…けれど、私にはやはりできません…旦那様には買って頂いたご恩がありますし、フィリップさんにもとても良くして頂いて…」
「…殺しちゃおうよ。二人とも」
「…え?今、なんて?」
「旦那様も父さんも、殺してしまえばいいのさ。そうすれば僕達は自由になれる。」
実の父を殺そうと持ち掛けた彼の髪は根元から白銀に変わり、ニヤリと不敵に吊り上げた口端からは鋭い犬歯が覗いていた。
両の目に嵌まる魔性の紅玉は更に赤を増す。それは冷淡で残酷、無慈悲で薄情、それでいて己の野心に滾る熱を宿している。ギルバートは抗い難い誘惑に意識が柔く陶酔して行くのを感じながら、彼を真っ直ぐに見つめた。
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