第28話首輪 Ⅱ
ギルバートの微かな声にフィリップが振り返った。
少年の人形の様な瞳が驚きに見開かれ、その視線が捉えている先を辿るとそこには、描き上げた筈だと言っていた絵画が置かれていた。
「ルーヴ、お前やはり此処から出たのか…」
嘆息を混じらせて彼を睨みつけた父に、ちっとも怖く無い、とでも言いたげに鼻先で笑い透かして返すと、彼らの視線の先の絵画を振り向いて
「これは気に入ったので貰って差し上げたんです。
庭は大層荒れ果てていましたね。
オレが此処に閉じ込められている間に…ギルバートおじさんもエレンおばさんもいなくなって…
ところで、其処の小僧は何者なの?
そいつからは微かに懐かしい匂いがするんですよねぇ…
絵を頂いた時には絵の具の匂いで気付かなかったけれど、もしかしてその子おじさん達の親類か何か?
ま、どうでも良いか。其れで?その子を何の為に此処へ呼んだの?
オレが浅ましい獣の欲求を露わにその子を襲うとでも思った?」
事の真意については皆が気にかけることであった。場に居合わせた者達の、答えを求める視線が主のジャックに集中する。
主はルーヴを見据えたままに言った
「お前を此処から出してやる。けれど条件としてこのギルバートと共に過ごし、フィリップの仕事を手伝うこと。
逃れる事は勿論許されない。
それに叶わないだろう。お前の首に嵌められているそれは“服従の証”だ。
意味は分かるな?」
“服従の証”一体何の事かと見当のつかない執事と奴隷を置いて、ルーヴの顔色は変わった。
先程まで余裕を思わせる態度で飄々と振る舞っていた人狼は、蒼白の顔で主人を見つめた。
直ぐにソレを確かめる様に自身の首元へ手を遣ると、その白い首筋に纏わり付いた革のベルトを掴み、全体を満遍なく確認でもするかの様に弄った。
「一体いつの間に着けた!!」
「いつの間に?お前がその手で着けたのさ。
お前の眠っている間に、リチャードが自ら嵌めたのだ“魔女の首輪”をな」
“魔女の首輪”はこの辺りでは有名な言い伝えであった。
魔女の刻印の入った革の首輪は束縛の呪い。嵌めたら最後、魔女の館から一歩たりとも出る事は出来ぬ。
もしも敷地から一歩でも外へ出たならば、呪いが貴方を殺すでしょう。
自ら嵌めるは服従の証、それを与えた主に決して逆らってはいけない。もしも主の怒りに触れたなら、生まれ変わる事さえ許されぬ、永劫囚われ地獄の住人となるでしょう。
多くの者は、魔女などいる筈も無く子供を躾るために聞かせるほんのお伽話に過ぎないと思い、大人になるに連れ薄らいでいく恐怖なのだが、どうやらこの狼には効果があった様だ。
生まれてこの方およそ人に接する事もなく、地下で本ばかり読んで過ごした彼にとっては空恐ろしい事だった様子。
暫く主人に睨みを利かせた後、ふと視線を逸らし
「わかりましたよ、ご主人様…」
不服そうに低く漏らした
「俺のことは“旦那様”と呼べ、ルーヴ」
それだけ言うとジャックは背を向けた。地下の扉をフィリップが開けると
「ここの鍵はもういい開けておけ」
皆が主人の背中を見送り振り向くと、先ほどまで居た筈の人狼は姿を隠しており、代わりに居たのはキョトンとした表情で此方を見る黒髪の男。
「髪が…」と思わず呟いたギルバートを、一等不思議そうに眺めた彼は
「君、だれ?」と問い掛ければ、ギルバートも執事の話を思い出し、この人はフィリップの息子で、もう一人のリチャードなのだと察し、慌てて挨拶を返した。
「私は、ギルバートと申します。初めまして、その…リチャード、様」
「様?様なんてよしてよ、僕の名前知ってくれているんだね、君はギルバートっていうの?
おじさんとおんなじ名前だね、よろしく」
にこやかに返す彼からは先程のピリピリとした獣の威圧は微塵も感じられず、ギルバートも多少戸惑いはしたものの直ぐに心を落ち着けた。
二人の和やかな雰囲気にフィリップも安心した様で
「さぁ、今夜はもう眠りましょう二人とも。明日から二人には屋敷の仕事を手伝っていただかなくてはなりません」
「え?仕事って、父さん僕ここから出られるの?」
「ええ、旦那様のご命令です。きちんと努めるのですよ。」
「…はい!」
息子の輝く瞳が明日を夢見ているのを見て、父としてフィリップも胸が熱くなった。
この暗い地下室からやっと出してやれるのだと。
鍵を閉めたりしないことを告げ、明朝迎えに来るからちゃんと支度をして待つ様にと告げてギルバートとフィリップは地下室を後にした。
階段を登りながらフィリップは
「あの子の中身は幼少の時代のままで、今やっと時が動き出したところです。
ギルバート、貴方も戸惑う事もあるかも知れませんが、どうかあの子を頼みますね…」
「はい、スミスさん…」
屋根裏へ戻ったギルバートは不思議な心地でいた。
ほんの少し前この部屋を出るときにはあれほど恐れていたと言うのに、無事またここに戻って来たのだ。
それにあの美しい人狼…
白銀の髪のその一本ずつが、まるでガラスの様に輝いて見えた。白い肌は陶器の様に滑らかで、赤い瞳はまるで宝石の様だった。
あんな人間が、もとい人型をした人外なのだが、あの様な美しい生き物を見たのは初めての事だった。
筆を取りたい衝動に駆られたギルバートは、画布の近くに転がっていた木炭を手にすると、スケッチ用に与えられていた紙切れに、先程の人狼を描いた。
夢中で描き終えると、そこにはまるで鏡にでも映したのかという程繊細に描かれた、先程の美しい男の肖像が完成した。
彼はすっかりあの妖しく秀麗な人外の姿に、心を奪われている様であった。
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