第27話消えた絵画Ⅳ

 コン、コン…

少年は、控えめなノック音に瞑っていた目蓋をゆっくりと開いた。灯りも点けずに居た部屋はすっかり暗く塞がれて、窓辺に差し込む月明かりがやけに眩しく感じる程だった。


 ほんの僅かな回想を終えたギルバートは緩慢な動きで椅子から立ち上がると、返事の代わりに扉を開いた。


 目の前にいたのは執事…いや、彼にとってもうそれは恐ろしい人外に他ならないのだが、見上げたフィリップの双眸は慈しみをはらんでいて…


 「大丈夫、何かあれば私が貴方を守ります」


 此方の覚悟を察した様に掛けられた言葉には人間らしい思い遣りさえ感じられ、少年は戸惑った。


 目の前のこの男が、自分に対し何か不実や暴力を働いた訳でも無いのに、彼が人外と聞いたばかりに、見もしない幻影に怯え彼を曇った眼でもって悪に塗り替えてしまった…軽率で臆病な自身を少しばかり恥じた。


 けれどそうしたところで結局事態はさして変わらないのだ。これから彼が向かわさせられるのは暗い牢獄。そこに待つのはあの唸りの主で、得体の知れない化け物なのだから。

 ギルバートは彼の優しさに言葉を返さず、ふいと視線を逸らした。


 「旦那様がお待ちです」


 フィリップに促され下へ降りると、暖かな明かりの灯る応接間へ通された。

 主人はいつもの暖炉前のソファに腰掛け、此方に背を向ける格好で座っていた。


 入室した執事が何も言わずとも、その気配を察すれば立ち上がり


 「行くぞ」


 と、短く言って振り返った。暖炉の後光に照らされてその表情は読み取れなかった。



 少年は不安から足元ばかりを見つめて二人の背について廊下を進んだ。


 中に一体どんなものが巣食っているのだろうか、同じ人狼だと言うのに、なぜフィリップは自由にされていて、地下室の彼の息子は閉じ込められているのだろうか。


 答えなど出ぬのに、恐怖を紛らそうと巡らす思考は、ただ悪戯に不安を煽るだけとなった。


 やがて目の前の二人の足音が止んで慌てて視線をあげると、主人と執事はギルバートを見つめ静かに待っていた。

 気持ちの重さが足元に枷でも付けたかの様に彼の足取りを重くさせる。



 地下への扉が開かれると、暗い石壁の階段が現れた。

 階下からは、何処から吹くのかヒヤリと不気味な風が吹き上がる。


 あの晩扉の隙間から覗き込んだ暗闇と同じ闇がそこに鎮座している…

 少年は目前の光景にゴクリと生唾を嚥下した。

俄か汗ばむ掌に、階下より吹く風が熱を奪い去り、緊張と恐怖から震える指先は徐々に冷えていった。


 コツ、コツ、と、足音が反響する。

 自身の心音も同じ様にこの暗い洞穴に反響しているのでは無いかと錯覚するほど、ドクドクと脈打つ鼓動が耳底に響く。

 軈て重たげな扉が現れた。

フィリップが懐から鍵を取り出し、ガチャリと錠の動く音が鳴る。


 扉が古い為か、錆びた蝶番が耳障りな音を立てて開いた。


 不気味で分厚い扉の先からは、不似合いな暖かい灯りが洩れ差して、恐る恐る中へ入るとそこには…


 冬空の月光を映した様な白銀髪の男が緩りと椅子に腰掛けていた。


 男の肌は、生きているのかと疑うほどに滑らかな雪白で、切れ長な双眸に妖しく揺れる瞳は吸い込まれる様な臙脂。

 視線を合わせれば魅入る程に美しく、少年の抱いていた恐怖は彼を視界に捉えたその瞬間から、まるで垂らしたインクが水に溶けて掻き消える様に失くなった。

 僅かばかり濁ったのであろう、けれどそれを以てさえ染まぬ白銀。


 無言のままに互いを見つめる二人を、執事と主人は黙って居た。沈黙を破る声を発したのは白銀の狼であった。

 ルーヴは少年から視線を離さないままに



 「お前、アーティかい?」


 と、訝しむ様に眉根を寄せて尋ねた。


 居合わせた一同は皆一様に答えを探る様に思考した。


 彼らを置き去りのままルーヴは続けた


 「…違うな、似てるけど全然違う。


 それで?どうしてこいつを連れてきたの?オレは遊び相手や生き餌が欲しいと言ったつもりは無いけれど、そんな風に聞こえたの?


 だとしたら。親父殿もその主人も、揃ってお馬鹿さんだね」


ルーヴが挑発的に貶める様な物言いをすれば、父は其れを許さぬとばかりに獣の唸りをあげた。

主は一歩前へ歩み出ると片手を軽く差し上げて其れを制した。


地の底から響く様な獰猛な唸り声を聞き、ギルバートはビクリと身を固くして一歩退いた。


 美しい彼の容貌に心囚われて居たところ現実に引き戻されると、思い出した様に再び襲う恐怖に心が支配された。





 「…あ、」


 逃げ道でも探す様に視線を彷徨わせていると、白銀の狼の坐す椅子の奥、机の影に見覚えの有る探し物を見つけ、思わず声を溢した。


 あの日失くした子供部屋の絵画が、そこにあったのだ。

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