第26話ギルバート Ⅲ
夜の帳が降りる頃…ギルバートは自室に籠り静かにその時が来るを待っていた。
彼はこれ迄の自身の人生を振り返っていた。
とはいえ、まだほんの20年ほどしか生きていないのだ。大仰に振り返る程の感動的な秘話など何一つ持っていない。少なくとも彼自身はそう思っていただろう。
彼が生まれたその日、母は血の海に伏していたと聞かされていた。
そもそも奴隷商の話では、美しい娼婦だった母は誰のとも知れぬ胎の子を疎ましく思っており、それを買い取ると証して産ませたという話であったが。
真実は違った。
彼の母の名はサラ。
サラは町でも評判の美人で、気さくで人柄も良く、誰からも愛される娘であった。彼女の両親は既に他界しており、年頃のサラがいつまでも独り身でいる事を近所の世話焼きなバーバラ夫人は随分気にかけていたし、町の若い男たちもまた、誰が彼女と結婚するのかと密かな争いもあるほどだった。
サラは毎日こうして本屋で働きながら暮らしているだけでも十分幸せだと言って幾度の誘いを笑顔でかわしていた。
そんなある日、平和な町に一人の旅人が訪れた。
いや、果たして“旅人”と言っていいのだろうか。襤褸を纏った初老の男で、何処からきて一体何処に向かおうとしているのか、今にも倒れてしまいそうな覚束無い足どりでフラフラと現れた彼は、遂に力尽きたのかサラの働く本屋の目の前でバタリと倒れた。
正体の知れない、それも汚らしい男である、町の住人たちは皆遠巻きに見遣るばかりで誰も近付こうとはしなかった。
ところがサラは違った。
窓の向こうに通り過ぎる人たちが不思議な視線を向けている事に気づき店の外に出ると、足元に倒れた彼を見つけ、躊躇いもなく抱き起こすと大丈夫ですか?!と声を掛けた。
そこから彼は医者にかかり一命を取り留めたのだった。
とはいえ運ばれた時には既に随分消耗した状態で、彼は数日目を覚まさなかった。
男が昏睡している間はサラが彼を自宅に寝かせ、心配したバーバラ婦人とその娘が一緒に住まい彼の世話をしていた。
数日の後目覚めた男はサラと夫人に深く礼を告げた。けれど自分の名前も、何処から来たのかも何も覚えていなかった彼は、自分の素性を表す様な持ち物も持っておらず、どうやって恩を返せば良いのかと弱り果てた。
するとサラは、此処に住んで仕事をして返してくれたらいいと提案した。
見ず知らずの怪しい男を一人住まいの女の家に住まわせるなどどうかしていると、バーバラ夫人は随分反対したが、サラは行き場のない彼を追い出す事は出来ないと言って聞かなかった。
仕事をするために身なりを整えた男は、ボサボサだった髪やボウボウの髭をこざっぱりさすとなかなかに気の良さそうないい男で、初めは反対していた夫人も彼の真摯な振る舞いと容貌にすっかり絆されて、気付けば町にも馴染んでいった。
彼は元の名を忘れて居たので、サラは彼に新しい名を“ヴァン”と付けて呼んだ
不思議なことに彼の忘れ去っていたのはその素性に繋がることだけがすっぽりと抜け去っていて、生活するのに必要な事はなんでもできた。
特に手先が器用で縫製の技術は大したものだった、仕事もそれに因んで洋服店で働き、貴族の正装などを仕立てていた。
彼の仕立ては上等で、すぐに馴染みの貴族が付くと、指名されるほどにまでになった。
こうして共に暮らしていた二人はそうなるのが自然な様に恋仲になり、やがてサラは身篭った。
けれどサラに子が出来た事を知ったヴァンは喜ぶどころか悲しそうに彼女を見つめた。
こんな喜ばしい事なのに自分でも何故だかわからないといった様子だった。
サラも彼の様子に少し戸惑ったが、身篭ってからもよく世話を焼きに来てくれていた夫人が、「子供が生まれたらきっと変わるわよ」と言うので、そう云うものなのかと二人も然程気にせず過ごすことにした。
こうして胎の子は日毎すくすくと成長していった。
そんなある日の事、予期せぬ流行病が町に蔓延した。小さな町故ちゃんとした医者は馬車でも数日は掛かろうかと言うほど遠い町まで呼びにいかなければならない。
タイミング悪くこの時陣痛を起こしたサラ。医者が来るまでせめて堪えてくれと言う願いも虚しく、子は無事にと言うべきなのか、時を待たずして産まれた。
なんとか子を取り上げてくれたバーバラ夫人も数日後には病を発症した。
抵抗力の弱い子供や年寄りから次々と感染していき、見る間に町には死人が溢れた。
このままではこの子にも危険が及ぶ…ヴァンはサラと子供を連れて何とかして町を出ようとしたが、初産を終えたばかりな上にこの惨事でサラはとても長時間の移動に耐えられそうもないし、何より彼女はずっと傍に居てくれたバーバラ夫人を母の様に慕っており、彼女を見捨ててなどいけないと言った。
このままではいずれ皆病に倒れる事は必至。
絶望し頭を抱えるヴァンの元にこの時訪れたのが、例の商人であった。
ヴァンはサラと相談し、商人に子を託したのだった。どの道このままでは自分たちももう長くは無いだろう。
世話になった者達を看取って、潰えていく町と共に自分たちも死を待つだけになるだろう。
だからその子には、親はもうないと伝えて欲しい。出来るだけ酷く言って教えてくれ。
この子が思い出して辛くない様に…
それがヴァンとサラの願いだった。
託された子を連れて商人は町を出た。その後その町と住人がどうなったのかは誰も知らないのである。
あの時の幼子こそが彼であった。
彼は勿論そんな事など知らずに、暗い部屋でこれ迄の思い出せる限りの人生を振り返っていた。
…あぁ、大して楽しい事もなかったけれど、絵を描ける喜びを得た事は、私の人生を豊かなものにしてくれたなぁ、待つ人も会いたい人もないし、これで良いんだろう。
悔いはないとばかりに心が落ち着いた頃、扉はノックされた。
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