第3章 飛べない翅

第11話 大人の世界

「ここは?」


 目を覚ましたテンは、しばらくの間何かに怯えるようにベッドの上で震えていた。まだ熱が完全に下がったわけではなく、体の痛みも引いていないのだろう。


「屋敷の中だよ。テンが最初に寝ていた場所と同じ」


「そんなはずない。こんな景色じゃなかった!」


「景色?」


 テンのそばで長く見守っていた先輩が、テンの質問に答えた。この部屋を訪れていたのは、薬を作るために出入りするライクリールと、テンの身の回りのお世話をしていた先輩の二人だけ。ハーミンジャーはイペックの忠告に従って、あの日以来この部屋に訪れることはなかったし、イペック本人はできることがないと分かるとすぐに屋敷から出ていった。


「目が……痛い……。何で……こんなにもまぶしいの?」


「まぶしい? ……まだ体が慣れていないんだよ」


 先輩は混乱しているテンを落ち着かせるように、その胸をそっと叩いた。体の震えは止まらず、涙が溢れる瞳がまっすぐに先輩の姿を捉える。


「落ち着いて」


「……先輩?」


「ああ。テンの先輩の、スレドラムだよ」


 歪んだ笑顔は苦しみに耐えているようで、寄り添うことしかできないスレドラムの心は締めつけられるように痛んだ。その眉間のしわが取れることはなかったが、答えを聞いたテンの表情は朗らかに緩んだように見える。


「本当に?」


「ああ。本当だとも。それとも、テンは先輩の顔も声も忘れたというのかな?」


「よかった……。でも僕、おかしくなっちゃったのかな? 先輩のことがよく見えていないみたいで……。ただこの声は、僕が覚えていたままです」


 弱々しい声はどこかほっとした様子で、テンはスレドラムが添えた手に自分の手を重ねた。信頼の証であるかのようなその仕草は、この五年間ずっと得られなかったもの。テンが目を開けて自らの声にこたえてくれることが、これほど嬉しいことになるとはスレドラムも思っていなかった。


「そういえば……」


 テンが目覚めて安心したからか、それとも弱々しくなった彼を助けることができなかったからか、嬉し涙か後悔の涙か分からないそれを押しとどめるように、スレドラムはテンが特殊な人種であることを語り始めた。



「色?」


 テンが五年間も苦しんでいたこと。それは大人になるための特別な過程だということ。スレドラムがテンに伝えなければならないことは多く残っていたが、彼が伝えたのはテンの体調に関係することだけ。

 そしてその中で、テンが不安に思っていたことの答えであるかのように告げたのが、その人種の色覚に関する話だった。


「その人種は、生まれてからしばらくは色を知覚できないとか。世界が白黒で曖昧で、大人になって初めて本当の世界を知ることができるらしい」


「これが……本当の世界……?」


 その人種は貴重な薬を生み出すことができるからと、ある一族に囲われて生かされてきた。求められた時期まで生かすためだけの研究では、生きるために必要とされない知識に価値はない。当事者間でも大雑把にしか伝えられていなかったその知識は、屋敷の使用人としての立場では噂を聞く程度で、その真偽すら不明だった。


「僕はおかしくなっちゃったのではなく、元々がおかしかったのですね」


 嬉しそうに細められた瞳に、この世界はどう映っているのだろうか。見えているものはスレドラムと変わらないのかもしれない。

 広い部屋の中。テンが寝ているベッドのシーツは白一色で染みひとつなく、床には深みのある緑色のカーペットが敷かれている。すぐそばの木製の椅子にスレドラムは腰かけており、その黒くよれのない使用人の制服は赤色で飾り立てられて、シルキー家の高い品位を示した。鮮やかな緑色のカーテンは絞られて、大きな窓から差し込む光は空間を切り取るかのようにその色を一段明るくしている。窓から見える外の世界の空は青く、たなびく雲はその分厚さで白さを変える。


「世界は何も変わらない。変わったのはテンが大人になったということ。子供だったからといって、おかしかったわけではないよ」


「大人に……」


「テンには、この世界がどう見える?」


 当たり前のように見てきた世界が突然崩れ去り、新たな世界へと姿を変える。そこで生まれる感情は、大抵の人間が味わうことができないもの。当たり前だという認識すら、変えることが難しいのだから。


「何と言えばいいのでしょうか……。とにかく明るくてまぶしいんです。触らなくてもその温かさが伝わってくるみたいで、優しい……という言葉が一番近いような……」


 初めての感覚を言葉にするのは、相当に難しいことのようだった。当てはまる言葉を選び出しても、どこかその感覚を表すことができない。自らの掌を見つめるテンの様子は、まだその言葉に納得していないようだった。


「優しい……ね。きっと良いものなのだろう」


 スレドラムはテンに笑いかけた。彼はテンと同じ感覚を味わうことはできない。たとえ同じ景色を見ていたのだとしても、その根底が全く異なる二人では、瞳に映る景色は違ってくる。

 テンが表した言葉で、スレドラムは彼に見えている景色を想像した。白黒の景色。そこに鮮やかな色が加えられる。明るさやまぶしさは、光が色付いたからだろうか。温かさは、色という新しい枠組みから伝えられるようになったのだろうか。優しさは、この世界が彼を歓迎している証拠だろうか。


「良いもの……なのでしょうか?」


「それはこれから考えていけばいい」


 スレドラムは、この変化がテンの未来を良い方向へと導いてくれることを願った。彼の人生は確実に変化する。残された短い時間の中で、その命の価値に笑ってもらえるように、手を伸ばす瞬間を間違えてはならない。


「疲れただろう? 今は休んでいるといい。元気になったら……また仕事を任せるから」


 その瞳が光に慣れるまで、まだしばらくかかるだろう。テンに掛けられたシーツを整えて、額に張り付いた透き通る髪を除ける。最後に体に取り残されたままの少し高い熱を確認して、スレドラムはテンのそばを離れた。

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テンモウ・カイ・カイコ・ドク・ノ・シルベ 雪鼠 @YukiNezumi

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