第10話 似て非なる立場の約束
「こんなところにいらしたのですね」
「ハーミンジャーお姉さま」
ベッドではテンが高熱にうなされていた。そばについて離れないイペックはその手を握ったまま、優雅に歩く彼女を迎え入れた。
「その子が、イペックの大切なお客様なのね。酷く苦しそうな様子だけれど、お父様とライクリールお兄様がいるから心配はいらなそうね」
「はい。……時間はかかると思いますが、大丈夫でしょう」
彼らがいるから、何が大丈夫だというのだろうか。その言葉を、彼女の前で出すわけにはいかなかった。
貴族にとって当たり前の、幸福な舞台に立って輝く一人の女性。その人生に影を落としたくはない。そう思うのはお父様やライクリールだけでなくイペックも同じで、そうやって家族に守られて大切に育てられてきたからこそ、ハーミンジャーという女性は誰もが羨むような幸福を手に入れることができた。
「イペックは、またお兄様に何か言われたのかしら? お母様のこと、子どもの私たちには何もできないというのにね」
「いえ。私がお兄様に心配をかけてしまっているだけで、優しくお言葉をいただいたのですよ。喧嘩をするほど子どもでもないですから」
「そうだといいのだけれど……」
イペックとその一つ上の兄のナイニードは、他三人の兄弟とは腹違いの兄弟に当たる。容姿端麗で思慮深く、それでいて誰に対しても優しかったという彼らの母親は、ハーミンジャーが生まれて間もなく流行り病で亡くなった。王族専属の医師でありながら、大切な人を救うことのできなかった事実はお父様を苦しめ、その苦しさを紛らわせるために彼は屋敷の人間に手を出した。
その女性が彼らの母親に似ているところなど一つとしてない。身分も容姿も知性でさえ、一般人と何ら変わらない。そんな人物に彼女の姿を追い求め、その結果ナイニードとイペックが生まれた。そして時間が経ったことで、お父様の精神は正気に戻っていったのだろう。お父様は二人の子どもを引き取り、手を出した女性を屋敷から追い出した。
召し抱えられている立場で、お父様に反発することなどできない。追い出された後のことを知る者はいなかったが、イペックたちが劣った血を受け継いでいると、その母親を悪く言った噂はいくつも聞かされてきた。たった二人の兄弟は、お父様にもお兄様たちにも見下され、常に貶されて生きていくことが屋敷での役割となっていた。
「こうやって顔を見せてくれるだけでいいから、たまには帰ってくるのよ。イペックは幼いうちからどこかへ行ってしまうし、ナイニードなんて大人になってから顔を合わせたことがないのだから」
「ナイニードお兄様は、街で医院を開いていると聞きました。彼も忙しくしているのでしょう」
嫌われていたイペックたち二人と親しくしてくれたのは、屋敷の中でハーミンジャーただ一人。彼女がそこまで良くしてくれる理由は分からないが、味方が一人いたところでイペックたちへの風当たりが弱まることはなかった。だからイペックは家を抜け出し、ナイニードは自立して家に帰らなくなった。
「医師になっていらしたのね。それなら今度、顔を見に行こうかしら?」
ハーミンジャーは楽しそうに笑った。彼女ほどの人間になれば、街に下りる機会はそうそうないはずだ。それを軽い遠足気分で決められてしまっては、イペックやナイニードはたまったもんじゃない。せっかく手に入れた平穏を、無自覚な圧力で壊されるわけにはいかない。
「医院には様々な病が集まるそうですよ。私が顔を出すようにお伝えしますので、お姉さまはご自分のお体に気を遣ってください」
「あら、……そう?」
ハーミンジャーの残念そうに肩をすくめる姿には申し訳なかったが、イペックが引き下がることはなかった。
「それなら、ここにも長居しないほうがいいのかしら?」
「……そうですね」
ハーミンジャーが視線を送ったのは、今も熱にうなされて呻き声をあげているテンの方向だった。
骨張った手を軽く握るが、その手が握り返してくれることはない。そばで見守ることしかできないのに、その想いが届くこともない。テンが一人で苦しむ様子を見つめ、それ以上の苦しみを味わっているかのような表情をするイペックは、ハーミンジャーの記憶の中で初めてのものだった。
「大切な時間に水を差してしまったようね」
ハーミンジャーは美しい笑みを浮かべ、スカートを翻して扉へ向かった。
「出会いなんて、人生の中で数えきれないほどあるものよ。一回で終わらないのはその中のほんの一握り。ましてや相手の苦しみに寄り添うことができるのは、人生で一度っきりだと思うの」
振り返ることなく、足を止めることもなく、優雅に歩いて髪を揺らす。その歩みが止まったのは扉の前で、彼女は小首を傾げてイペックに言葉を告げた。
真珠の耳飾りは淡い輝きを放ち、陶器のような肌の中に差された鮮やかな紅がこちらを伺う。ほんの瞬く間だけ、清楚だと思っていた女性は嘲笑うかのように、その妖艶さを醸し出した。
「自分の行動には、自分で責任を取ることになる。後悔のないようにね」
部屋を後にした彼女は、何を考えてそれを伝えたのだろうか。どこか普段と違う様子に、イペックは後ろ髪を引かれるような思いだった。
「行動には責任がつきもの……ですか……」
これまでイペックがしてきたことは、彼一人で背負えるほど小さくはない。それはテンに関しても言えること。彼がテンと共にいることを選んだところで、その人生に手を貸すことも責任を負うこともできはしなかった。それがより目に見える形で現れたのが今回の薬の件だった。
熱にうなされ大量の汗をかいている。それはまだ結晶化しておらず、薬を生み出す時期の一歩手前といったところだろう。苦しみに上げる呻き声は、次第に弱々しくなっている気がする。どこが痛いのか、それがどんな苦しみであるのか、イペックには理解してあげることができない。理解できなければ癒してあげることはできないし、薬を作らせないためだからと医師である父や兄を遠ざければ、状況を悪化させることにつながるかもしれない。
そんなイペックが何もできないのにそばにいるのは、その背負いきれていない責任を、背負いきれていないなりに頑張っていると思い込みたかったためではないのだろうか。テンが出す音以外に聞こえるものがない静かな部屋では、こういった考えがぐるぐると渦巻き続ける。
「……すみません」
その声に驚いて顔を上げると、扉の前にテンと一緒にいた使用人の男が立っていた。
「何度かお声掛けしたのですが、返事がなかったので……」
「……失礼した」
安全な場所であるとはいえ、裏路地で仕事をこなすイペックがその気配に気づかないほど気を抜くのは初めてのことだった。
「その……テンの様子はいかがでしょうか?」
使用人の男は扉の前から動くことなく、恐る恐るイペックに尋ねた。
「心配して来てくれたのですか。……私のことは気にせず、近くで見守ってあげてください」
「ありがとうございます」
迷いが吹っ切れたようで、イペックの隣へ歩み寄った男は、その手でテンの頬や額に触れる。依然苦しそうな様子に、男の表情も険しくなった。
「あなたは彼を普通の人間のように扱うのですね」
テンが寝込むことを想定した結果、イペックは彼をこの屋敷へと連れて来た。彼がこの屋敷に住む人から受けるであろう扱いは現実のものとなり、それが彼を苦しめると分かっていても後悔はしなかった。
だからこそ、そんな状況で一人浮いている存在への疑問は消えない。予想外のありがたさではあったが、その根幹に何があるのか、掴みきれずにいるのは気持ち悪かった。
「私が普通の人間であるように、テンも普通の人間ですから。ただ直属の後輩という点で、私にとって特別な人間ではありますよ」
「変わった方ですね」
「そうかもしれません」
弱々しい笑顔は、テンへの心配が拭いきれない証拠。この世界での普通はこの屋敷での普通ではなく、男の優しさは異常とみなされてしまう。
「……伝言を頼まれてくれませんか? テン以外には伝えないと約束していただけると良いのですが」
それはイペックがしばらく悩んでいたことだった。
「構いませんよ。私が仕えているのはシルキー家ですから、イペック様の依頼も仕事の内です」
「ありがとう」
突然の申し出にも、彼は迷わず承諾してくれた。承諾の理由に使用人としての立場を口にしたが、そこには彼個人の意思も含まれているようにイペックは感じた。一族の人間と使用人という立場は異なるが、屋敷の中で異色を放ち危うげな立場は同じである。
「しかし、ご自分でお伝えにならなくてよろしいのですか?」
イペックはその言葉に笑って答えた。
「ええ。私が伝えられるのであれば、それが良いとは思いますが……。伝えるべきかどうかは、あなたに任せようと思います」
「承知いたしました」
使用人の男も、その言葉に笑った。
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