施設に来てからあっという間に二ヶ月が過ぎた。

 そういえば私はここに留学として来ているわけだが、フィールドワークばかりやっていていいのだろうか? そんな疑問が頭をよぎったのもこの頃だ。

 しかし尋ねたところでペドロ氏は大丈夫としか言わないし、未だ足を踏み入れてすらいない大学を拝むにも昼夜車を飛ばして四日はかかる。一人では帰れないという状況もまた、私の活動を活発にさせた。


『アリニ、今日はどんな絵を書きたい?』


 彼女達の言葉で分からないところはトゥピ語に置き換えつつ、トゥピ語にすらないものはポルトガル語で固有名詞扱い、というのが私から二人への言語として定まっていた。アリニ達の方も日常的に多用するポルトガル語――食事Refeiçãopapelなどについては理解するようになっていた。中でも毎日のように私が尋ねる言葉……それこそどんな絵を描きたいのか、という質問に関しては、アリニはもはや一つの慣用句として覚えたらしかった。


vuroヴロ


 抑揚の少ない声で、アリニが答える。ヴロというのは、意味合い的には鳥にあたる言葉だ。そこからそれぞれの種の名前までいくと、さすがに細かくて(もとより私が野鳥に詳しくないこともあり)覚えられない。


 はじめ部屋で黙々と描いていたアリニは、この二ヶ月で段々とアトリエを外に移していた。外の道を出歩いて、見つけたものをその場で描く。建築用のベニヤ板の余りで作った画板を首から紐で提げ、短パンのポケットにまばらな長さの色鉛筆を詰め込む。それがアリニのスタイルだ。

 最初から絵の上手かったアリニだが、私が鉛筆の持ち方と力の強弱を教えてあげたらその作品はさらに繊細なものとなった。彼女のよく描くvuroは、羽根の一本一本まで描いていくような繊細さを持つ。それが彼女達特有の特徴的なカラーリングで仕上げられることにより、藁半紙の上に生命が生まれるのだ。

 こうしてアリニが絵を描き、単語を色々調べて回った結果分かったことが一つある。


 どうにも、彼女らは類い希なる色彩感覚を持っているようだった。


 分かりやすい例としては、元々色彩の豊かな鳥や花が挙げられる。私達には青い胴体に黄色の尾羽を長く生やした二色の鳥に見えてみても、アリニの絵ではその首に紫の輪があり、尾羽の先も緑色に塗られていることがある。こういう例が、一度だけでなくほとんどのケースで見られるのだ。

 しかしこれだけでは、まだ確定することはできない。そこにはまだ故意的――つまりアリニの芸術性が描く彩色フィクションである――可能性が残されているのだ。ましてや相手は少女で、おまけに話す言葉も未だ不明瞭。決めつけるには早計だった。


「どういうことなんでしょうか?」


 その特殊性に疑問を持ち始めた私は、宿泊施設の食卓スペースで喫煙中だったペドロ氏に問い掛けた。コンクリートの床に投げ捨てた煙草をサンダルで踏み消しながら、ペドロ氏は唸る。


「可能性としては、二人が私達とは異なる色覚を持っていると考えるのが無難だろうな。もし二人が何かワシ達に理解できる言葉を話せるならば、色覚の検査でも受けさせれば分かるかもしれんが、現状ではそれは難しい……時にケシキくん、一度英語に切り替えても?」

「え? あ、はい構いませんけど……」


 脳内のチューニングを切り替える。この地にきてずっとポルトガル語ばかりを浴び、研究としてはトゥピ語とアリニ達の言葉を扱っていたから少し時間が掛かった。


いったい何の話を?What are you talking about?

「いやなに、君もポルトガル語で理系の話はしたくないだろうと思っただけだよ。色覚の仕組みについて、君は何をどのくらい知っている?」

「そう聞かれると、ほとんど何も知らないと答えるのが正解になります」

「そうか。なら少し説明するとしよう」


 テーブルの上、何かしらの書類らしきものを一枚引き寄せると、ペドロ氏はその裏にボールペンで絵を描き始めた。やがて描かれたのは、眼球の断面図と、何やら三角のついた図形と長方形の図形だった。


「ヒト、というよりカメラ眼を有する動物の目は、外からの光を網膜で受け取って、それを視覚として知覚・利用している。そこまではいいな?」

「まぁ、それぐらいは」

「よろしい。それで網膜の何が光を受容しているかというと、盲点を除き敷き詰められた視細胞がその役割を担う。視細胞には二種類があり、それが錐体細胞と桿体細胞だ」


 カンカン、と、ペドロ氏はボールペンで横に描いた二つの図形を示した。


「桿体細胞というのは、雑に言ってしまえば夜目のために用いられる細胞だな。これがあるから、私達は月明かりだけでも物の輪郭を見る事が出来るわけだ。でも、今は置いておこう。今話すべきなのは錐体細胞こっちの方だ」


 ぐるりと、三角のついた図形の方が丸で囲まれる。


「ヒトの場合、錐体細胞は三種類存在する。それぞれが異なる波長を受容し、その量的な刺激を統合したものが我々の知覚するになる。これが三色型色覚、いわゆる光の三原色RGBで構成される視覚だよ。

 しかし、これが生物のスタンダードというわけではない。霊長類でも色覚を持たないサルは存在するし、逆に爬虫類や鳥類は四色型色覚だと言われておる。四色型色覚というのは、つまり色覚を構成するパラメータが普通のヒトよりも一つ多いということで、私達なんかよりもより細やかなsubdivided世界を見ているということだ」

細やかなsubdivided? 色鮮やかcolorfulではなく?」

「クオリアの話さ。君の見ている赤ですら私の見ている赤と全く同じものだといえないのに、どうして異なる色覚を持つ動物の視界が、自分達のものより鮮やかであると断言できる? 異なることは確かでも、鮮やかかどうかは主観を超える事ができない」


 そういうことか、と私は首を小さく縦に振った。


「まぁ……あの二人の見ている世界は、きっと鮮やかなのだろうがね」

「それじゃあつまり、アリニ達はその……四色型色覚だと?」

「無い話ではないな。全世界の女性の二~三パーセントが四色型色覚であると発表した研究もあるし、実際イギリスでは二人、四色型色覚者が見つかっておる」


 予想より遥かに多い割合に、私は驚く。もしかしたら私もそういう色覚を――とまで考えたところで、私にはアリニの絵と異なる世界が映っていることを思い出して肩を落とした。


「でも見つかってるっていうことは、調べる方法はあるんですね?」

「あるんだろうな。詳しいことは私も知らないが、ここ保護キャンプがイギリスじゃないのは間違いない」

「あー……そうですよね」


 つまり、打つ手無しということか。すぐそこにあるはずのものに手が届かないもどかしさに、落ちた肩がさらに下がった。

 ペドロ氏も話していて喉が渇いたらしく、ペットボトルの水を一口飲むと、胸ポケットの箱から煙草を取り出して火を付けた。

 虫のさざめきに包まれる蒸し暑い空気に、紫煙をふぅと吐いてから。


『そしてこういう時に必要なのが、創意工夫なわけだ』


 ポルトガル語に戻したペドロ氏は笑みを浮かべ、


『ケシキアオヤマ。二人に、虹を描かせなさい』


 と、私に向かって言ったのだった。

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十七色の虹 緒賀けゐす @oga-keisu

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