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キャリーケースを引いて空港のロビーに向かうと、そこには懐かしい人物が待ち構えていた。
「やっと来たかケシキ! こんな老体をまぁ、よくもこんなに待たせてくれたな! このままワシを空港に住まわせる気かと思ったぞ!」
「初めて会って直ぐさま三日間車に詰め込んだ人が、どうしてそんなセリフを仰りますかねぇ……とにかく元気そうで何よりです、先生」
伸ばした髭はそのまま、贅肉が多分に減ったペドロ氏と、私は挨拶のハグを交わす。四年前にあって以来、七十歳となったペドロ氏のその体には、まだ触って分かるほどの筋肉が残っていた。
「先生はいつからこちらに?」
「もう一週間はいるな。もう仕事も退職してしまってるから、妻と娘と一緒に旅行も兼ねてね」
「それは良いですね」
「お前さんはどうなんだ?」
「私は、今日含めて四日間ですね。最後までは一応いますよ」
「ふむ、それが良い。アメリカも久々だろう?」
「えぇ。それこそ、先生と最後に会った時が最後ですよ」
「彼女の移住以来か。こないだみたいなもんだな」
「そうですねぇ……あっという間でしたけど、変化は山のようにありました」
「ガハハハ、まったくだ!」
ほれ、と先生が手を出してくる。何のことか分からずにいると、ペドロ氏は私の手からキャリーケースを奪い取って歩きだす。
「ほら行くぞ! 車で送ってやる! 残念ながら運転は娘だけどな!」
快活に笑いながら進んでいくペドロ氏の、背中を追って私も歩き出した。
――――――
慣れない土地での生活と研究において、ペドロ氏の思考や行動は本当に勉強となった。それこそ毎日が、ペドロ氏の背中を追う日々だった。
私達が向き合う相手は、何もアリニとアランの二人だけじゃない。この施設にいる部族は、彼女達二人だけじゃないのだ。けれどどうにもあの二人が気になった私は、空いた時間を二人に向き合う時間にした。
さて、二人の言葉を研究するためには、まず言葉を話してもらわなければならない。
日が出ている大抵の時間、二人は割り当てられた小屋で休んでいるか、施設周辺の
最初の数日間は、警戒されてしまい遠巻きでしか二人を見守ることができなかった。探索のあいだ二人は言葉を交わしていたが、意味が分かるかどうか以前に、離れていると鳥の鳴き声に二人の会話が負けてしまい聞こえなかった。結果として、私はまず二人と仲良くなることが最初だと気付いた。
『一度に距離を詰めようと思わない方が良い。彼らには彼らの詰め方があるわけだからな。……まぁ相手が子供の場合、毎日ご飯を運んでやれば警戒はしなくなるからそうしてみると良い』
とペドロ氏からアドバイスをもらったので、即座に実行に移す。その日以降の夕飯――基本的には豆を主食としてそれと肉や魚、日によってはレトルトのパスタなんて日もあった――を、私は二人の小屋で一緒に食べることにした。効果はわりとすぐ見られ、一週間も経てば隣に座って食べても嫌がらなくなった。
あった事としては、「いただきます」で二人に怪訝な顔をされたのを強く覚えている。食べ物を前に手を合わせて呟いて、何をしてるんだこいつは……という眼差しがそこにあった。
説明しようにも、二人の言葉が分からない。とりあえず私は、唯一知っている単語と、日本で勉強してきた他の先住民の言葉を使って片言に説明をしてみた。
『私の住んでいた場所では、
ニュアンスとしてはそんなことを言った記憶がある。二人は私が話しているあいだ視線を向け、それから何も言わずに食事に戻してしまったので、伝わったのかどうかは分からずじまいだが。
少なくとも、これが二人に向けて私が初めて言葉で意思を伝えようとした瞬間だった。
* * *
翌日から、私は本格的に彼女達の話す言葉について調べることにした。
「知り合いの言語学者に映像を見せたが、発音からや区切りの付け方から、やはりトゥピ語族には分類できるらしい。ただ、単語は聞いたことのないものばかりだそうだ。だからワシらがやるべきこととしては、単語の解明だな」
トゥピ語族というのは、南米先住民の話す七十ほどの言語学的に近縁な言語群のことだ。今でもトゥピ語を母体とするニェエンガトゥ語(こちらは文法構造はポルトガル語的だが)を利用する先住民族がいたり、トゥピ語族内の最も大きな分類であるトゥピ・グアラニー語族に括られるグアラニー語がパラグアイの公用語になっていたりと、決して絶えた言語ではない。
何より、それこそが私の研究している分野だ。
言葉というのは、必要だから作られる。少数部族の言語となると、「川」に該当する言葉はあっても「海」に該当する言葉はないのはざらな話なわけだ。よって言葉は、この
単語を調べる方法としては、ひたすらに物を指差しては尋ねるのが最も原始的、かつ実用的な手法だ。
身の回りのもの――家、木、水、雨、土、獣、髪、手、足、眼……エトセトラエトセトラ、それはもう手当たり次第。何かを見る度に指差して喋る私の、その意図を二人が理解してくれるまでには時間がかかった。施設敷地内に生えているブラジルヤシの木の実を指差して尋ねた時は、私がそれを欲しいと思ったらしくアランが実を取って私に渡してくれた時は笑ってしまった。
やがて探索の度に毎回尋ねるうち、徐々に私の意図を汲み、言葉を話してくれるようになった。文法構造は既知のものであり、二人が協力的だったおかげで単語の解明は想像以上に早く進んだ。
ある日、私は二人の部屋に画用紙と色鉛筆を持っていった。二人の見ている世界を知るには、何かを描いてもらうのがいいのではないかという私の素人的なアイディアだ。
とりあえず見本として、私が探索でよく見かけるインコの絵を描いて見せた。高校美術の評価が3だった人間の画力により、画用紙上にかろうじでインコだと分かる動物が生まれる。
これに興味を示したのがアリニだった。紙に鉛筆を突き刺さんとばかりの鷲掴みで色鉛筆を握り、ガリガリと画用紙を彩りはじめた。
最初は微笑ましく眺めたいた私だったが、端から見ていればその表情は段々と驚愕のものに変わっていただろう。
握り方のせいで筆圧の調整が下手で線もところどころ歪んでしまっているが、そこに浮かび上がったのは初めて絵を描いたとは思えないような、生を感じさせるインコだった。全体のバランスが完璧で、まるで写真の上をなぞったかのような描写。
何よりも目を見張ったのが、その色彩だ。
羽根の一枚の中にすらグラデーションを乗せるような、それこそ極彩色とでもいうような鳥だ。確かに南米の鳥にはカラフルなものが多いが、その色彩が見事に表現されていた。また言うようだが、アリニが絵を描いたのはこれが初めてである。言葉で褒めることができないので、私は身振り手振りで喜んでるように表現し、アリニのその才能を褒め称えた。そうしていると脇で見ていただけのアランが参加してきて、彼も絵を描き始めた。結果としては、アランは私と同じくらいのレベルのインコを描き上げた(といってもアランも初めてなわけだから、相当に上手い)。ただ姿形こそ少し変だったが、色使いに関してはアリニと同じぐらいのものがあった。
その日の夕食を二人と取った後、宿舎に戻って私は二人の描いた絵をペドロ氏に見せた。ペドロ氏にそれがアリニが描いた絵だと伝えると、大層驚いてからその絵をじっくり観察した。
最初は驚いていたペドロ氏だったが、段々と眉を寄せ、悩ましげな表情と変化する。何か気になるところでもあるのですかと私が尋ねると、ペドロ氏は答えた。
「いや、実によく描けているとは思うのだが……この周辺で、あと彼女らの保護された場所についても、こんな配色をしたインコなんていただろうかと少し疑問に思ってねぇ」
もっともワシが見た事ないだけだろうがな、と続けて視線を戻した後も、少しの間ペドロ氏は髭を触りながらその絵を眺めていた。
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