十七色の虹
緒賀けゐす
1
二〇二五年、五月。
成田からジョン・F・ケネディ国際空港へと向かう旅客機が、その十三時間の旅路を終えようとしている。うたた寝から覚めた私が窓の外に目をやると、その視界にはちょうどマンハッタンの摩天楼が収まっていた。
機内アナウンスが、到着に際する注意を促す。私はそれを聞き流しながら、膝に掛けていた毛布を畳み、凝り固まった背筋を伸ばす。
張った胸元、服の中に何かが入っている感触があった。何だろうかと思案してすぐ、これこそが今回私がこの飛行機に乗った理由であり、向こうまで肌身離さず持っていようと、上着の内ポケットに入れたものであったことを思い出す。
取り出すと、それは記憶通りトリコロールカラーに縁取られたエアメールの便箋だった。右下受取人の名前には「Aoyama Keshiki」と私の名前が書かれ、そこから左上に目を動かせば、U.S.A.の三文字と住所、そして差出人である彼女の名前が記されている。
太平洋の向こうから送られてきたその便箋に包まれていたのは、アメリカへの往復分チケットを含む三枚のチケットと、彼女が自筆で書いた手紙だった。書き慣れたその
腕時計を見る。身支度を考えても、到着までにもう一度読み返す時間くらいはあるように思えた。なので私は便箋を開き、中から三つ折りにされた二枚の紙を取り出すことにする。
「Dear Keshiki」から始まる文章。
私はそれを読みながら、彼女との出会いについて思いを馳せることにした。
―――――
大学院に通っていたのは、もう十五年も前の話になる。
専攻は比較言語学。付いていた教授の専門ということもあり、特に南米の先住民の言語についてその文法構造を考察してルーツごとに分類しよう、というのが私の研究だった。
そしてまぁ往々にして、こういう学問は机上での文献漁りだけではどうにも理解しきれない点が多すぎるものである。学部の頃までは楽しさの勝っていた研究も、モラトリアムを延ばさんと院に進んでからは毎日が砂漠を掻き分けているような気分だった。
行き詰まっていた私のところに、教授は留学してみるのも選択肢だと勧めてきた。ちょうどブラジルの大学に教授が親しい文化人類学の先生がいて、フィールドワークもできるし、参考になることが多いはずだ――とか何とか。細部までは覚えていないが、耳心地の良い言葉を並べられたことは確かだ。
……後に酔っ払ったペドロ氏が機嫌良さげに吐いた言葉が事実なら、どうやら交換留学生の駒としてスケープゴートにされただけらしいが。しかし留学前の私はそんな大人の事情も露知らず(あとは単純に興味があったので)、単身ブラジルへと向かったわけである。
当時留学先の教授であったペドロ氏は、南米原住民に関する文化人類学的研究において当時最前線を走っていた権威であり、分野こそ異なるが、彼らを知る上で私でも何本か文献を読んだことがあるような、界隈ではそれなりの有名人である。当時五十歳半ばだったペドロ氏は、その一八〇センチは下らない大きな背丈に、
空港で初めて顔を合わせたとき、歓迎の言葉と快活な笑い声の次に繋げた言葉さえ違うものだったなら、ペドロ氏の印象はその温和な表情から感じられるように、陽気でいつも楽しそうにしているブラジル人だっただろう。
『よしっ、早速向かうから車に乗り込んでくれ!』
まだ聞き慣れぬポルトガル語に急かされ、私は押し込まれるようにジムニーの後部座席に乗せられた。
……その後丸三日以上も悪路に揺られる羽目になることも、辿り着いた先で私の人生を大きく変える出会いがあることも、空港周りの異国情緒に胸躍らせていた私には知る由もない。
* * *
かくしてお尻の肉という肉を磨り減らし辿り着いたのは、アマゾン密林の中、いきなり林冠の開かれた敷地だった。そこには木材かトタン板で屋根と壁をあしらった、簡易な高床の住居が数十軒無秩序に建てられている。一番手前の建物だけがコンクリートでしっかりと作られ、それがどうにも、今日から数ヶ月、私の寝泊まりする場所らしかった。
三日間の道中で、私はこの場所こそが私の研究対象としている先住民族……そして“イゾラド”の保護キャンプ場であることを聞かされてた。
イゾラド――『隔絶された人々』。
ブラジル・ペルー国境のアマゾン川源流域に住む、当時は部族の名前も人数も、言語すら分からないとされていた原住民族群を指す総称である。この保護キャンプは、そのイゾラドの中でも
そしてその保護キャンプで、私は彼女と出会った。
「一ヶ月前に、ここから西に100キロくらいのところにある牧場で捕まえられたんだ。『こいつらがウチの羊を殺して食べようとしてたから取っ捕まえた、引き取ってくれ』って牧場主から連絡が入ってね。あの剣幕だと、僕達が拒否したら殺すつもりだったかもしれないね」
こいつら、という職員の言葉通り、案内された小屋には二人の子供がいた。裸吊りの白熱電球に照らされた部屋の隅に座る、少年と、少女。
そのうちの少女こそが彼女――アリニだった。
あらかじめ言っておくと、アリニという名前は彼女の本当の名前ではない。施設側としてイゾラド達を管理するために、便宜上名付けられたものだ。
歳の頃は十歳程度。施設から渡されたのであろう、白無地のTシャツと紺の短パンを着ている。ただその服から生える手足が、あまりにも細い。シャツを胸元まで捲り上げれば、きっとそこには肋骨の浮いた胴体が見えるのだろう。
似たような服を着ている少年――彼はアランと呼ばれていた――は、アリニより少し大きい。兄だと私は思ったが、実際にその血縁関係について断定されるのはまた数年後の話であり、それが『兄』に該当する単語が包括する血縁関係の範囲に差が云々……というのは、話すと長くなるので置いておく。
初めて会った時の彼らは、私を見て警戒していた。そりゃあ無理やり連れて来られたところで風貌の異なる新顔が出てきたらそうするよな……と思っていたら、私の横に立っていたペドロ氏がアリニらに歩み寄っていった。ペドロ氏はかなりの頻度で通っているからか、二人はそこまで警戒していなかった。
そして道中の町で買っていた果物(記憶が定かではないが、確かパッションフルーツだったと思う)をどこからともなく取り出すと、ペドロ氏はそれを二人の前に置き、一つ呟いた。
「bo」
ポルトガル語仕様に耳を用意していた私は、それが知らないポルトガル語なのかと思った。しかしすぐにアリニ達のところから下がってきたペドロ氏は、私を見ながら肩を竦めた。
「彼らの言葉で、『食べ物』に該当する言葉らしい。原義に関しちゃさっぱり分からんがね」
その説明を聞いてやっと、ペドロが発した言葉が彼女らのものであったことに気が付く。その瞬間は、まさに電流が走るかのようだった。文献や画像、とにかく何かしらの媒体を通してでしか学んでこなかったそれの実物に、初めて触れた瞬間だった。
そしてそれは、同時に大きな壁が目の前に現れた瞬間でもあった。
「私は言語学が専門というわけではないが、それでもここ一ヶ月の彼らのやり取りを聞いていて理解したよ」
――アリニとアランは、これまでのイゾラドとはまた違う言葉を話している。
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