サカモト商店の週末

@isako

サカモト商店の週末


 その年のゴールデンウイークが終わった時点で、サカモト・ゼネラル・ハイパマケットは先月の3300万倍の売り上げ金を叩き出した。一週間、朝十時から夜九時までの営業で、は人類史上最高の経営的成長を見せたことになる。


 法人化さえしてないこの総合量販店は、人類が必死に積み上げてきた経済の根幹の一つである株式にまったく触れることなく、まるで人間の豊かになりたいという欲求やそれに伴うこれまで数々の努力を侮辱しているかのような原始的システムの売買で、その場所まで上り詰めた。安く仕入れて、高く売る。それだけが二代目店主であるハルヒコ・サカモトの経営理念であり、彼はそれを実直に執り行うことしかしていない。サーヴィスも愛想も存在しない、自動販売機のような交換のやり取りが、サカモト・ゼネラル・ハイパマケットの在り方だった。

 

 経営者の母であるハルコ・サカモトの腕には黄金色に輝くロレックスがまかれ、彼女はひっきりなしに、時計から聞こえる秒針の音を聞くために時計を耳元にあてた。誰もがそれを、成金老女の傲慢たる悪癖だと考えていたが、実のところ彼女は息子にプレゼントされたその時計の音を気に入っているだけであり、高級品を見せびらかして喜んでいるわけではなかった。彼女はそのロレックスを、プレゼントされてから死ぬまでの二年と八か月の間、肌身離さず身に着けていた。男ものの、下品な金ぴかを細い左腕に巻いた彼女にとって、息子が唯一かつ初めて自分に贈ったものがそれだった。ハルヒコ・サカモトには、年老いた母にふさわしいプレゼントが分からなかったのだ。


 S.G.Hサカモト・ゼネラル・ハイパマケットにはキャッチコピーが存在する。子供たちでも知っている。だれでも知っている。それは噂で伝わった。広告なんてものはまず存在しないこの店舗において、キャッチコピーは都市伝説のようなかたちで広まっていった。

 

 「なんでもおいている」それがS.G.Hのキャッチコピーである。なんでもおいている。本当に何でもおいている。駄菓子から、携帯電話から、自動車から、土地から、ミサイルから、金融商品から……。S.G.Hで買えないものは存在しない。足を運べば、なんでも買える。本当に何でも買えたから、様々なひとが訪れた。欲しいものを買いにやってきた。


 S.G.Hは一週間前まで、ただの田舎の雑貨屋に過ぎなかった。少年ジャンプは一週間古いものが店頭に並ぶし、店の冷蔵庫の奥には十年前に賞味期限が切れたラムネの瓶が中身そのままで転がっていた。


 ある日、サカモト商店――S.G.Hのかつての屋号である――に外国人の客が訪れた。日没を少し過ぎていた。店主のハルヒコ・サカモトは、もう店じまいの準備をしているところで、その客をうっとおしそうに眺めた。


 客は白人の男だった。ハルヒコとほとんど同じくらいの歳に見えた。白い肌とオールバックにした金髪が、やけに輝いていた。彼は一目で高級とわかるコートを着ていて、靴はぴかぴかに磨かれていた。ハルヒコはテレビでしかこういうものを見たことがない。

 ――やれやれ、おれは英語なんざ話せんのだが。ハルヒコはそう独り言ちた。客が聞き取れないのをわかっていての発言だった。


「ご心配なく、日本は長いので」彼は店主にそう告げた。ハルヒコは何かを恥じるように下を向いた。


 客はざっと店内を見回した後、冷蔵庫からお茶のペットボトルをとった。それをレジまでもっていくと、彼は店主に言った。「マルボロを二つ」


 ハルヒコはカウンターの下からマルボロの箱を二つ取り出しておいた。値段を言うと、客は高そうな財布からぴったりの現金を取り出して渡した。まるで初めからどれだけの値段になるのか知っていたかのように不自然な動きだった。


 商品を受け取ったあとも、外国人はサカモト商店から立ち去ろうとはしなかった。じっとハルヒコの顔を見つめている。「なにか?」店主は尋ねた。


「あの……握手をしていただいても?」客は言った。


 ハルヒコは何か聞き間違えをしたと思った。そして聞き返した。「なんですって?」


「だから、握手です。もしよろしければ、あなたと握手がしたい。感謝の意を込めて」


「はぁ……。あの、外国の流儀ですか? それってのは。よくわかりませんが、日本人はそんなに簡単にぽんぽん握手だのハグだのキスだのってのをしないですよ。旦那」


「私も同じように思います。欧米流の接触のあいさつはどうも苦手です。こういうものは本当に心を許せる相手にのみするべきだと思う」


 店主は客の言葉の意味が分からなかった。やや論理の飛躍した会話だった。ハルヒコの知能からいって、このレベルを口語の速度でやり取りするは難しい。

 それを補うように、客は付け加えた。


「驚くかもしれませんが、私はあなたに対して、強い敬意をもってあたっています。我々は確かに初対面の関係です。しかしあなたはたいへんに素晴らしい人物です。私はそれを知っているのです」


 ハルヒコはそう言われて悪い気はしなかった。しかし、彼の言っていることがまったく根拠を欠いた妄言であるということがわからないほどに愚かでもなかった。ハルヒコは凡夫だった。並以下といって差し支えない。四十を過ぎて結婚はしていないし、父親の遺したくたびれた雑貨屋と母親の年金とでなんとかやりくりしている。性格は暗く卑屈で、友達はいない。恋人もいない。まともな会話は、年老いた母とのものだけ。


 自分がこの世界でほとんど価値のない人間であることを誰よりもわかっていた。そういう自己評価はおおむね社会が彼に下すものと合致していた。そしてそれこそが彼を陰鬱な男にするもっとも大きな要因だった。


「それはどうも。でもね、旦那。おれはあんたが思うほどにたいしたもんじゃないんだよ。どこにでもいるくたびれた中年なんだ。能力もないし運もない。あんたみたいなひとが握手を求める人間じゃないんだ」


「いいえ。あなたが知らないだけで、あなたは本当に素晴らしい人物です。今はそうでなくとも、これからそうなります。私はそれを知っているのです。だから私は、あなたに敬意を表します。あなたは不気味に思うことでしょう。まったく説明を欠いたようなことを私が話しているというのも、わかっています。それでも、私はあなたに握手を求めたいのです。もし嫌でなければ――そう、ただの気まぐれということにしていただいてもいい――私と、握手を」


 店主は困惑していた。これは何かのいたずらだろうか。テレビショーの企画なのかもしれない。たったひとつの信じられない可能性を除けば、今起きていることは、彼にとって非常に悪趣味で腹立たしい出来事だといえた。それほどまでに、目の前の紳士が自分を過剰に評価していることが、彼にとってきまり悪くもうれしいものだった。


 ハルヒコは怒鳴り散らしてこの異邦人を店から叩き出そうかと考えた。しかしそれでは、なにも変わらない気がした。彼は結局、その紳士の手をとることにした。この決断が、ほかの誰にもできないものだったというのを知っているのは、この客だけだった。ほかの誰であろうと、別の魂がハルヒコと同じ人生をたどっていたとして、同じ状況に置かれたら、握手はできない。それはハルヒコだからできたことだった。ハルヒコの魂だけが、その運命を選ぶことを許可されていたのだ。


 すべてを知っているのはその悪魔だけだった。白い悪魔は握手のあと、小さく笑って、満足そうにサカモト商店を後にした。しばらくして、店主は変わった客が商品を持って帰るのを忘れているの気が付いた。そのときにはもうすべてが遅かった。


 次の日、ハルヒコが錆びだらけのシャッターをがらりと開けたときから、サカモト商店にはがおかれるようになった。ハルヒコが知らないものまで、店の倉庫には存在していた。無限の商品をタダで仕入れることができた店主は、それらを販売した。彼に販売する権利がないものもあったが、国家や企業はそれに介入しようとはしなかった。国家でさえ、サカモト商店から購入したいと考えるものがあったからだった。


 ハルヒコ・サカモトは、そのようにして億万長者に成り上がった。その金を使って、超大型のスーパーマーケットを運営した。その名前が、サカモト・ゼネラル・ハイパマケット。現代建築の粋を集めて建てられたS.G.Hは機能的で美しい。そしてその奥には、古くからのサカモト商店が存在する。S.G.Hにいけば、ほとんどの物が手に入る。資本主義を生きる人間にとって必要なものはすべてそこでそろえることができた。学歴や家柄さえあがなううことができた。


 S.G.Hでは手に入らないものを求めるとき、人々はサカモト商店にやってくる。資本主義の枠組みを超えた欲望を店主に見せることができたとき、彼はサカモト商店のシャッターをあげる。「なるほど。事情はわかりました。あなたにお売りします。どうぞ店の中へ」そう言ったときに客の見せる表情が、ハルヒコ・サカモトの何よりの生きがいだった。


 ハルヒコははじめ、無限の倉庫から現れる商品を売り出すことで生まれる利益に心を奪われていたが、ある日やってきた二人の男女によって、欲望のかたちはすっかり変えられてしまった。少年がラジオから流れる音楽によって、目を覚ますときのように。そして初めてのギターを手にしたときのように。

 



「この店には、なんでもおいてるんですよね?」


 やってきた男は言った。女はその傍に立っていた。二人はハルヒコよりもずいぶん若く、高校生くらいに見えた。


「はぁ。置いてますとも。なんでもね。本当になんでも。コンビニなんか目じゃないよ……」


 ハルヒコは、この子供たちがクスリでも買いに来たのだろうと踏んでいた。実際そういうものを求める者はたくさんいたし、彼らの想像力がその程度に収まるにすぎないのだということも、これまでの顧客の様子から、もう十分に分かっていた。


 男が言った。


「僕たち、ほんとうの愛がほしいんです」


「はい? なんですって?」


「ほんとうの愛。僕らの愛を証明するものがほしいんです」


 店主は呆れて二人の顔を見た。少年たちは至極真面目といった様子で、自分を見つめていた。


「なんでもあるんですよね? そう聞いてます。だったら、何かそういうものもあるんじゃないですか? 僕たちの愛情がほんとうのものだと判断してくれるなにかが。そういう、機械みたいなものないんですか? うそ発見器のもっとすごいものみたいな……」


「そんなものあるわけ……」言いかけてハルヒコは口をつぐんだ。


 無限の倉庫を手に入れてからこれまで、彼が顧客を満足させずに帰らせたことは一度もない。それはもはや彼の誇りであった。ここでこの子供たちを帰らせたとしたら、いったい何が起こることだろうか。噂はたちまちに広がっていくだろう。「なんでもおいている」のが強みらしいが、やはり、あそこにはないものがあるのだそうだ。なぁんだ。やはりそんなところだったか。そのように市中の人間が彼の店をけなすことが、彼にはまったく我慢ならなかった。


 何かを感じ取ったのか、二人の若い恋人たちは、つなぎあった手を固く握った。


「いいでしょう。そこで待っていなさい」


 たばこを口にくわえて、ハルヒコは無限の倉庫に入った。倉庫は日に日に大きくなっている。客の要請に応じて倉庫は必要なものを仕入れるので、それに見合った巨大さを獲得していくのだ。このあいだ某国の政府が新型の原子力兵器を買い求めたので、その保管に必要な設備を求めて倉庫は莫大な空間を作り出した。倉庫の大きさは、すでにハルヒコの知る程度を超越している。


「愛、愛だって? そんなものどこにあるってんだ……。いや、愛はもうあるのか、あのガキどもはもう持ってる。奴らはそれを試したい、そのはずだ……」


 倉庫に語りかけるように、ハルヒコはそう呟いた。倉庫はハルヒコの言葉にしか応じない。客がハルヒコに注文をよこし、ハルヒコがその契約に乗り出さなければ、倉庫は商品を用意しない。


 ハルヒコは数分で恋人たちのもとに戻ってきた。ハルヒコの手に握られている紙袋は、近所のドーナツショップのものだった。少年はそれを見て、自分がこれまでになんども聞いてきたようなどうでもいい説教を聞かされて、それとあと、熱いコーヒーと甘ったるいドーナツですべてを片付けられるのではないかという不安に襲われた。


 サカモト商店の古いカウンタの上にひっくり返された紙袋から、ごとりと鈍い音がして、その鉄の塊が現れた。


「これはニューナンブM60と呼ばれる拳銃です。新中央工業という会社で作られていました。一度に装てんできる弾は全部で五発。聞いたことがあるかもしれないけど、これは私どもの住む国の警官が持っているものと同じ型です。もちろん、私がこれを持っていることは、法律に違反することになります」ハルヒコの口から、すらすらと商品の解説が流れ出た。いつもながらびっくりする。おれのくたびれた脳みそのどこにこんな知識が隠れていたのだろうか。


 店主はそれを客の少年に渡した。少年は戸惑いながらその重さを確かめるように、じっと拳銃を見つめた。


「愛とは実に主観的なものです。どんなに美しいかたちをしていても、あるいはどんなに醜い姿をしていても、愛を知るものにとってそれが愛であれば、愛と呼ぶことができるでしょう。逆に言えば、愛を証明することは、証明をすることはできません。愛に関することはすべて、主観的であるからです。だから私は、あなたの愛を試そうと思います。あなたがあなたのなかでその愛をほんものだと証明するためのお手伝いをさせていただきます」


 ハルヒコはカウンタの下から、もう一丁、同じ拳銃を取り出した。そしてその銃で、女のほうを撃った。渇いた音とともに飛び出した銃弾は女の左の太ももをを貫いたあと、コンクリートの地面に埋まってその運動を止めた。次にハルヒコは、男に狙いを定めた。


「なにをするんだ」男が叫んだ。女はうずくまって、豚のようなうめき声をあげた。


 豚の声のなかで、静かにハルヒコは続ける。


「出血がひどいようです。あと数分で、あなたの恋人は致命的な状態に陥ります。すぐにでも救急車を呼ぶ必要があります。あなたはそれをするでしょう。しかしわたしは、あなたの注文によってそれを阻害します」


「おまえ、なにを言ってるんだ」


「ですから、あなたは私を殺さなければなりません。その拳銃で。しかし私はすでにあなたに次の銃弾を向けています。ここであなたは選択することができます。愛のための選択ができるかどうか。それが私の商品です」


「あなたが私を撃って殺せば、あなたは助けを呼んで彼女を助けることができます。しかしあなたが、私に拳銃を向けた瞬間に、私はこの銃を発射します。携帯電話を取り出したり、彼女を助けて逃げ去ろうとしたときも同様です。私の不慣れな技術でもこの距離であれば、確実にあなたを殺すことができます。あなたは間違いなく死にますが、もしかしたら私を殺すことができるかもしれません。そしてあなたが死亡し、かつ、私が即死しない限り、私は彼女のために全力で助けを呼ぶことを約束します」


「まってくれ。意味が分からない」


「意味が分からなくとも、あなたの恋人は刻々と血を失っています。時間が過ぎれば過ぎるほど、死の可能性が高まるでしょう。あなたは私を殺すしかない。で。それともルールがわからない? 簡単に言いましょう。彼女の命を賭けて、あなたと私で早撃ち勝負をするんです」

 

 それはごく短い時間だったはずだ。なぜなら男に時間は与えられていなかったからだ。


「あなたが死なない限り、あなたは彼女を助けることに全力を尽くしてくれるんですね? この言葉に偽りはありませんね?」


「お約束します。それも商品の、契約の一部です。私は商売人ですから」


 男は銃口を咥えると、素早く引き鉄を引いた。後頭部から天井に向けて突き抜けた銃弾とともに、いくつかの肉片と骨片、そして血のかたまりがあふれ出して、女の身体を濡らした。


「ああ……。なるほど。そうか。確かに約束通りだ。おれは娘を助けなくてはならない」ハルヒコは呟いた。


 ハルヒコは血の流れ続ける女の足を、その場しのぎの手ぬぐいとガムテープぐるぐる巻きにして、一応の止血とした。それから携帯電話で救急車を呼んだ。


「いかがでしたか。彼の愛はどうやらほんもののようでしたが」


 女は毒づくように言った。


「いかれてる。あんたもあいつも、いかれてる。あんたたちきちがいなら、きちがい同士で勝手にやっててよ。私を巻き込まないでよ」

 

 おやおや。これでは男が浮かばれないな。と思って、ハルヒコは自殺した男を見た。一方で男はとても満足したような表情で死んでいた。


「お気に召していただけたようで。お代はけっこうです。私もいいものを見さしてもらいましたから」ハルヒコはそう顧客に言った。



 女と男が救急車で運ばれていくのを見送って、ハルヒコはサカモト商店のカウンターに座って、コーヒーを飲んだ。床には男の血痕がべったり残っていた。簡単な掃除はしたが、古いコンクリートの床は血をいくぶん、自らに染みこませていたようで、とても手元の掃除道具では汚れを落とせそうになかった。


 床の染みを見ていると、男の満足そうな顔が思い出された。あんな顔はこれまでの商いのなかで一度も見たことがなかった。あれがほんものの顔なのだろう。ハルヒコは思う。あの表情が人間のほんとうの顔なのだ。求めていたものが手に入る瞬間の顔。それはどのような経済活動においても充足されることはない。本当に欲しいものは、彼らのこころの奥から、自ずとして現れる。


 これをもっとみたい。彼はそう思った。



 ハルヒコの母が死んだのは彼が倉庫を手に入れてから三年が経った頃だった。毎朝彼よりも二時間早く起きる彼女が、その日はまだリヴィングに現れていないことを不思議に思った彼が母の寝室に向かうと、彼女は布団の中で静かに眠っていた。


 一目で死んでいると思って、彼女の手に触れてやはり死んでいると確信した。腕には、彼がプレゼントした金のロレックスが鈍く光っていた。三億円で建てた屋敷の庭先で、彼女の死体にガソリンをかけて燃やした。形が残らなくなるまでに6時間がかかった。腕時計ごと燃やした。そのようにして彼は天涯孤独になったが、特に思うところはなかった。母は自分がいて幸せだったのだろうかと考えたが、つらくなったので考えることをやめた。


 母親が死んだところでハルヒコの経済活動に支障が出ることはなかった。むしろ母親がいなくなったことで彼の思考の容量はさらに彼自身のための活動に割かれることになり、彼は倉庫の存在を無視しても相当のビジネスを実現することができるようになっていた。少なくとも彼には、並み以上の商才があったのだ。あるいはそれは、どこかの段階で誰かに与えられたものなのかもしれないが、それはハルヒコ本人にはどうにもわからない。


 多くの貧乏人たちがしばしば想像する、天文学的な財産を手にしたものが絶望的退屈に陥るという妄想だが、これは正しいとは言えない。


 実際のところハルヒコは莫大な資産を獲得することになったがそれが彼を逆説的な虚無へ誘いはしなかった。ハルヒコは決して、ほとんど無限のように感じられる資産の増長に麻薬のような快感を得ていたわけではない。豊かな森がゆっくり確実にその範囲を広げていくように膨れていく数字にうっとりする時間がなかったと言えばそれは嘘になるが、次第にその現実感を失い、もともと散財癖もないので、数字はただのインクの染み、あるいはディスプレイの発光だと割り切るようになった。


 退屈極まりない数字を眺めながめていても、彼はわくわくする気持ちを抑えるのに精いっぱいだった。彼は待っていた。それはさらなる事業の拡大を目論む同業者たちからのメッセージではない。それは経済を含めた世界全体が革命されるような新たな技術の誕生の知らせではない。それは彼の倉庫を求めてやってくる大国からの使者ではない。彼は数年前にやってきたあの恋人たちを待っていた。もう死んでしまった世界の勝利者にまた会いたいと思っていた。アレキサンダー大王でさえ勝てなかったものに勝つ人間を待っていた。もちろん死者の復活を望んでいるわけではない。欲望の勝利者に会いたいのだ。


 彼がやってきたとき、ハルヒコはすぐに彼がそうだと気づいた。ずいぶん長い時間待っていたので、そうであるものとそうでないものの区別がはっきりとつくようになっていた。話し方、息遣い、視線の取り方、歩き方、手の動き方……。話す内容ではない。彼がまだあいさつ程度の一言二言を話しだした途端、彼こそが次の挑戦者であるとわかった。彼はもちろん、ハルヒコに挑戦するのではない。ハルヒコにも彼にも、そんなつもりは毛頭ない。彼は、その老人は、自分のこれまでの人生と、そしてそれをいつもそばで支え続けてくれた欲望、これらと対決をするのである。ハルヒコにはそのことがよくわかっていた。


「はじめまして。私は小此木善一と申します。この度はサカモト氏にお目通りさせていただくことができて、たいへん光栄でございます」


 小此木はそう言った。彼の老いた目もとはもうすっかり皺だらけで瞼はだらりと垂れていたが、その奥にある意志が、どんな冒険者たちよりも力強く輝いているのがハルヒコにはわかった。


「しばらく禅寺の住職をしておりましたが、後継に譲り、今はくたびれた隠居であります。本日はサカモト氏に願い申し上げたいことがあり、参りました」


 小此木の言葉の端に焦りを感じた。いい。ハルヒコは自分の魂が舌なめずりをしたのが分かった。


 やせっぽちの老人は、貧しさこそ感じさせはしなかったが、物質的欲望からはかけ離れた風体をしていた。きちんとアイロンはかけてあるものの、生地そのものの劣化が隠せないシャツ。あちこちのほつれを修繕した跡が残るスラックス。丁寧に油を塗ってあるが、踏みつけられてくたくたになった革靴。そして彼自身の身体は、衣服と同じかそれ以上に、酷使されたあとがあちこちに見受けられた。


 ハルヒコは個人的思想から宗教者というものをバカにしていたが、なるほどこれは、その意味は置いておくとして確かに過酷な世界で生きてきたのであろうと思われた。禁欲的な生活と神性の関わりなど、一笑に付す程度のむなしさがふさわしいが、それでも、その無意味な懸命さだけは認められるだろう、そうハルヒコは思った。


 二人はサカモト商店の軒をくぐり、薄暗い雑貨屋の空気を吸い込んだ。二年前にそこで人が死んでいることを知る者は少ない。ハルヒコにとって大切な思い出の一つである床の血の染みは、鮮やかさをとうの昔に失っており、黒い汚れの塊にしか見えなかったが、それでも、彼の心を温かくさせる大切なしるしのままだった。


「なんでもおいている……というのはつまり、どういう意味なのでしょう?」

 小此木が尋ねた。すべての顧客に対して答えるその言葉を、ハルヒコは言う。


 ――文字通り、なんでもおいています。あなたの望むものすべてが、こちらでお買い求めできるでしょう。


「それは、その、つまり、抽象的なものでも」老人は言いよどむ。


 ハルヒコは性的興奮にも似た感覚に浸る。腹の底が熱くなる。あぁ、こいつだ。このじじいだ。こいつが敬虔けいけんな坊主だなんてとんでもない。こいつはえげつないほどの欲深だ。


「もちろん。わたくしどもは、あなただけの欲望にさえ、お応えするでしょう」


 小此木の目の奥に隠されていた欲望の光が、あふれ出して彼の目をだくだくに濡らした。冷静を保とうとしていた彼のたがが外れる。息があがり、昂ぶりが目に見える。死にかけていた肉体に血が巡り、グロテスクな紅潮を浮かべて老人は店主に詰め寄った。


「サカモトさん。私は、私は、欲望を切り捨てたいのです。わかりますか? この願いのほんとうの難しさが。私が仏門にり、おおよそ80年が経とうとしています。この世のすべてが、欲望によってできています。私も、あなたも、欲望の化身なのです。私たちは、人間は、あまりにも欲深でありすぎました。その歴史が長すぎたのです。もう私にはわからない。なにもできない。仏陀の教えは私を救いはしない。仏門はすでに形式によって雁字搦めになっています。そのすべてに欲望のにおいを感じざるを得ないのです」


「それは、死ねばいいということではないのですか? 例えばつまり、自死を選ぶというような……」


「自死さえも欲望なのです。死んだあと確かに私は無かもしれませんが、それまでの私は確実に死を欲望してしまっているのです。私は充足を求めているのではありません。私は、この世界にないものが欲しいのです。それが無欲望なのです。欲望しないということが欲しい。矛盾しています。承知しております。欲望しないことを欲望しているのです。それでも、この欲望だけは捨てられない。だからこそこの欲望を捨てたいのです」


 欲望を否定する欲望、その尾喰いの蛇のような堂々巡りの言葉を小此木は何度も繰り返した。言いたいことを全部言い終えた彼は、商店の壁に掛けてあった埃まみれのパイプ椅子に腰かけた。はぁ――っ、はぁ――っ、と長く辛そうな息を吐き出して、椅子の上で崩れている。ハルヒコはただ短く、よろしい、と言うと、倉庫へ姿を消した。


 しばらくして、ハルヒコは商店に戻ってきた。そして、小此木を手招いた。


「どうぞこちらへ。おそらくあなたの欲望を満たすものの準備が、できました」


 二人は巨大な倉庫の中を歩いた。小此木が見る限り、倉庫はよくある巨大量販店のそれにそっくりで、学校の体育館のような広い空間に十数メートルの高さの棚がいくつもそびえたっている。そこには、大小さまざまな段ボール箱が収められている。


「これが例の倉庫ですか……? 想像していたよりも、ずっと小さいようですな」


「これですか? これはただの倉庫ですよ。うちS.G.Hの本店舗の倉庫です。あなたがどこから倉庫の話を聞いたのかわかりませんが、私の倉庫は私以外ものには扉を開きません。商品は倉庫から出して初めて、商品として機能します」


「……? そういうものなのですか」「ええ」

 

 二人が辿り着いたのは平凡なアルミドアの前だった。その奥には、小綺麗なビジネスホテルの一室、のような空間が待っていた。十畳ほどの広さの中には、一般的なホテルの備品として申し分ない設備が整えられている。ただし窓はない。そして、ベッドの上には、明らかにホテルには異質な革のバッグが置かれていた。


「これは……」


「欲望というのが、人間の欲望というものが、物理的にどこからきていると思いますか? 私は脳科学の類には明るくないのですが、シンプルに脳髄からやってくるものだと思います。あなたは欲望を消し去りたいと言う。自殺によって到達する無ではなく、まったく別の形で、無欲望の状態になりたいと。なので、脳髄をすることであなたの欲望を排除することができるだろうと考えました」


「脳髄を編集する?」


「そうです。その鞄を開けてください」


 小此木は鞄を開けた。中には、彼の見たことのない本が鞄にぴったり詰め込められていた。


「その本は、この場所を除いて世界のどこにもないものです。古今東西津々浦々、すでに失われてしまったものから、まだこの世界に登場していないものまであります」


「私にこれらを読めと?そういう哲学的思索は、もうずっとやってきているんですが」


「それらは、いまここにはどこにもないものなのです。あなたが読んだことのある本は一つもないでしょう。それらを読めば、あなたはそこに書かれている以上のものを理解し、血肉とするでしょう。そしてそのとき、あなたは、本当に欲望を理解し、それを自分から切り離して捉えることができるようになるはずです」


「理解する? 自分から切り離して?」


「あなたは欲望を知っているかのように振舞う。もうほかのどんな人々よりも長い時間、欲望と寄り添ってきたのだと自負して、そしてあなたは欲望を否定する。その否定さえも欲望であると嘆く。しかしその実、あなたは欲望を理解しているとはとても言えない。あなたが理解しているのは、シッダールタが記した言葉のあなたなりの解釈に過ぎない。それを真理だと思い込んで、丁寧に磨き上げて大事に抱え込むのはあなたの勝手ですが」


「……よろしい」


 読書は始まった。小此木が本を開くと、そこには異様な没頭が現れた。文字に目を移してすぐに、呼吸の音が変わった。静かで深い呼吸だった。息をしていることを忘れている人間の呼吸の音だった。小此木にとって、世界にはその文章しか存在しないとでも言うようだった。ほかには何もない。だからそれだけを彼は見つめていた。


 小此木さん。ハルヒコが声をかけても、小此木は反応しない。ハルヒコは部屋から出て、ドアそばの壁にもたれて煙草に火をつけた。――欲望。この世界のすべてが欲望であるという小此木の言葉が、ハルヒコにはよくわかる。ハルヒコもまた世界にはびこる強欲の一つである。その自覚さえある。それは経営者としてそう思うのではない。あるいは無限の倉庫から抽象の欲望を引き出す魔人としての立場からそう思うのでもない。一人の息する人間として、自分がどれほどの欲望によって突き動かされているのかを、実感せずにはいられないのだ。ものを食うのにも、ひとと話をするのにも、ただ生きるのにも、我々は欲望をしるべにしている。


 そのことを思うと、小此木の願いなど、馬鹿馬鹿しいことこの上ない。まだ無欲を気取っている愚者のほうが可愛げがある。しかし、どれだけ彼を見下していようと、ハルヒコには彼の欲望に応える必要があった。それこそが彼の欲望だから。


 ハルヒコは顧客を部屋に置き去りにして、昼食をとりにいった。自分だけ食べるのもどうかと思い、カップラーメンを差し入れておいた。小此木は相変わらず、本にかじりついているままだった。これほどの集中力があるのなら、ほかのことに活かしていっぱしのものにもなれただろうに。ハルヒコはこの老人の惨めな運命のことを不憫に思った。


 小此木が部屋に入って三日が経った夜。部屋から耳をつんざく悲鳴が聞こえて、ハルヒコはそこに向かった。間違いなく小此木の声だった。本を読み終わったのだろうか。そして彼は何かを見つけてしまったのだろうか。


 ドアを開けると、床の上で小此木がのたうち回っていた。最初にあったときに比べると、恐ろしいほどにやつれているが、その激しい動きと何かを呪うような忌々しい声は、不思議なエネルギーを感じさせる。ただし、そのどれもが、生には程遠く、近く死に隣接している。


 ――ぐふっ、うぅ。ああ。ンぐ~っ。はぁ、はぁ、ぎぃいぃいいぃっ。


「小此木さん、小此木さん。どうされました」


「ないっ。ないっ。欲望がないっ。どこにもないっ。欲しいっ。生きるための欲望がほしいいいいぃ」


「欲望を切り捨てたんですか? ? それをなくすことがあなたの願いだったのでは?」


「違う! おれは欲望を全部すてたかったんだあっ。でも、でもっ、捨てても捨ててもやってくる! 欲望を全部捨てたら、おれは欲望が欲しくてたまらなくなった!! こんなに、こんなにも! 息をするのにも、いや、この世界に存在するのにも欲望がいるだなんて! お前にはわからない! を実行し続けなければいけないこの地獄が分からない! 頼む! 戻してくれ! 俺を元に戻してくれぇぇぇッ」


 ハルヒコはベッドの上に転がる本を見た。鞄に詰めていたほとんどがブランケットの上に放り出されているが、一冊だけが鞄の中に残っている。どうやら小此木は、与えられた知識をすべて理解しないまま、途中までの理解で欲望を自分から切り離してしまったらしい。


「もう無理ですよ。あなたは自分で理解した気になって、勝手に全部放り投げたんですから。ちゃんと最後まで読まないでやるから、こういうことになるんです。生半可な精神で欲望に挑もうとするから後悔するんですよ」


「頼むっ。もういい。殺してくれ! 俺を殺してくれ! ここは地獄だ! 全部どうでもいい! 俺を殺せ!」


「S.G.H.ではお客様のあらゆるご要望にお応えしております。人的サービスをお求めの方は41番カウンタまでお越し願います……と言いたいところですが、殺人依頼は大変高額なサービスになっております。とても小此木さんでは贖えないかと……。それに……」


「それに? なんだ? 金なら借金してでも払う!」


 あまりの滑稽さにハルヒコは笑みをこぼした。


「それにね、あんたさ、もうすぐ死にますよ。だってもう、なんとも思ってないんでしょう。生きたいとも、死にたいとも、何をしたいとも、どこに生きたいとも、誰に会いたいとも……。ただ欲望が欲しいだけ。そう。欲望ってのは、ないものを求めるなんです。欠如がわたしたちをそうさせるんです。そんな大事なものをなくしたあんたが、生きていけるわけないじゃないですか」


 老人からとめどなくあふれ出ていた負の力が、急激に衰えていった。やがて彼は呼吸をするのをやめて、何かを見たりするのもやめた。それでも、酸素が欠乏して生まれる苦痛が、命が溶け出して消えていく苦痛がなくなることはないようで、絶望の表情が無に帰していくことはなかった。苦痛はあっても、苦痛を取り除きたいという欲望はないらしい。ただ彼は鮮明に、空っぽになった自分への後悔をかみしめている。肉体は生理的な反応としての痙攣を始めた。


 ドアが開いた。それは部屋と商店をつないでいたアルミのドアではない。倉庫が用意した小此木のための部屋の、何もなかったはずの壁に、突如として木造の古めいたドアが現れ、それが開いた。なんとも魔法のような光景だった。ハルヒコはそれをただ見つめていた。開いたドアの先には、真っ黒でフェルト地のカーテンがかかっていて、ドアの奥の様子がうかがえないようになっている。


 カーテンからするりと現れたのは長身の男だった。痩せていて、肌が病的に白い。上物のコートを羽織っていて立ち振る舞いはどこか古い国の貴族かなにかを思わせたが、彼はどこか焦りを覚えているようでもあった。


を作り出すとは。あまりにも悪趣味だ。無欲望だなんて。あなたは私が思っていたよりもはるかに狂っていた。……近いうちに、お迎え申し上げる」


 男はそれだけ言うと、空っぽの男の肉体を背負って、ドアから出て行った。ドアは役目を終えると、すぐに霧散して消えた。後に残ったのは、乱れた部屋と幾冊かの書籍、そしてハルヒコだけだった。しばらくして、ハルヒコは現れた男があの時の白い悪魔であったことに気づいた。




 夜が明けてから、ハルヒコの下にはありとあらゆる誘惑が訪れるようになった。それはハルヒコが一定の資産を手にするようになったころに訪れだした有象無象とは、くらべものにもならないほどの誘惑だった。


 ある朝起きると、ハルヒコの性的選好にもっとも合致した若い男がベッドのそばで座っていた。全裸だった。手足は長く、身体には程よい筋肉がついていて、全体的に薄いにくをまとっていた。柔らかな黒髪は粗雑なようでいて、襟元はきれいに刈り込まれていた。今様の流行を抑えながらも、過剰を感じさせない髪型。切れ長たれ目の中には、薄いブラウンの瞳が静かに揺れていた。豊かな黒を保ってはいるが、丁寧に整えられた陰毛の下には、共にやや大きめのペニスと陰嚢が横たわっていた。の亀頭は、薄い紅色だった。


「ハルヒコさん」男は目覚めたばかりのハルヒコにそう呼びかけた。


 ハルヒコは困惑していなかった。S.G.Hが軌道に乗り始めたころから、このようにして彼の財産を目的に性的な誘惑を仕掛けてくるものが多くあった。ハルヒコはその多くを冷たくあしらっていた。やってくる者どもが女だったから。


「ハルヒコさん。僕と契約してください。これからあなたが死ぬまで、僕は心の底からの愛をあなたに誓います。本当の愛です。すべてをあなたに捧げます。女どもがあなたに囁くうその言葉ではなく、人生の本統ほんとうの意味になりえるようなほんものの愛をあなたにあげます」


 ぼんやりする頭で、ハルヒコは尋ねた。「その対価に君は何を求めるんだい」


「あなたが死んだあと、その魂をぼくにください」


 ハルヒコはせき込んだ。渇いた音が寝室に響かず、すぐに消えた。男は心配して、ハルヒコの肩に手を置いた。その震えを直接肌に感じて、男は気づいた。ハルヒコは咳をしているのではない。彼は笑っているのだ。


「本当の愛に対価があるんだね。それはずいぶんと面白い哲学だ。人間の利己性を実によく表していると思う。もしそれが分かっていて君が私の魂を求めるというのなら、君は悪魔だな」


 男はにやりと笑った。その凍てつくような笑顔を見て、おや、どうやらこれはほんとうに悪魔か何か、人間ではないものだぞ。とハルヒコは背筋を冷たくした。


 男は静かに立ち上がると、裸のままで寝室から出て行った。小さい尻が揺れていた。男を見送ったあと、ハルヒコはこれは何か夢だろうと思うことにして、もう一度眠りについた。彼は夢の中で、悪魔的な美少年を意のままにもてあそんでいた。彼が最も求める反応で少年は呻き、悦楽の声を上げた。一通り少年の身体を愉しんだが、ハルヒコは気づく。彼のペニスは、その間ただの一度も熱くならなかった。




「君の魂が欲しいんです。ハルヒコ君」

 男が言った。その白い男は真夏の日曜日だというのに、真っ黒でぴかぴかになめされた革のコートを着ていた。首筋や額には汗一つない。数年前と同じ格好だった。ハルヒコは彼のことをよく覚えていた。


 S.G.H.本店の存在によって、かつては田んぼと森しかなかった村は県内有数の市街地となり、今ではスターバックスコーヒーがその狭い地域の中に二つ存在するようになっている。そのうちの一つはS.G.H.本店の中のフードコートに位置しており、ハルヒコと彼はそのテラス席に座っている。ハルヒコは冷たいミルクのみを注文し、悪魔はブラックを頼んでいた。悪魔は一度だけそれに口をつけると、しぶい顔をして、それからは二度とカップには触れなかった。


「魂? 魂をとってどうするんです? 食べるんですか?」ハルヒコはおどけて言った。


「その通り。君の魂は、人間の欲望にてられ続けて、たいへん上質なものになっています。私ども悪魔は、珍しい命を生きた魂に目がないのです」


 ハルヒコは考える。悪魔とはなんだろう。あの時から自分に与えられた無限の倉庫のことを思えば、なるほどそのような摩訶不思議まかふしぎがあってもおかしくないのかもしれない。しかし、今この男が魂を求めてにやってくるとはいったいどういうことなのだろうか。おれはついに倉庫の代償を求められるのだろうか。それが魂? おれの魂とやらはこの男にぱっくりおいしく召し上がられてしまうのだろうか。


「いえ、倉庫は私があなたに無償で与えたものです。その代償をいただくということは決してありません。いわば私は、上質の肉をじっくりと寝かしていたのです。。私があなたから魂をいただくというのは、つまり、ほかの形であなたの求めるものをこちらが提示して、あなたがそれを認めれば、契約しての交換が成り立つということによります。それが古き良き悪魔の契約というものなのです」


 ハルヒコはミルクを一口飲んで、鼻の下の髭についた白い泡をナプキンで拭った。


「しかしですね。魂というのはそれ、簡単にあげられるものではないでしょうに」


「ええ、もちろんです。この世界おける人間たちにとって、もっとも価値があるものは彼自分自身の魂ということになるでしょうね。一般的に」


「では私があなたに魂を食べさせてあげるというようなことはないと思いますが」


「そこが我々悪魔の手腕の見せ所なのです。我々悪魔は、獲物の欲望をしっかりと見定めた後、それを満たすような条件を顧客に提示するのです。自分の命を、と思えるような、美しく純粋な欲望を引き出すのです」


 ハルヒコは口の端からこぼれそうになる唾液を手で隠した。表情を読まれないように、考え事をしている風を装って、口元を覆う。


「はぁ……。そういうことですか……。で、あなたは私の魂が欲しいと。では、あなたは私に何をくれるんです? こないだの若い男のようなものはもう結構です。恋愛や性を愉しむのには、私は歳をとりすぎたので」


「そうですね、そういうのなら……若返りというのはいかがですか? 精神や人生の記憶をそのままに、肉体だけを全盛期に戻して差し上げることができます」


「結構。必要以上に長く生きたいとは思わないですな。若さを失った人間ではありますが、若さへの執着を失った人間でもありますので」


「なるほど。ではお母さまを生き返らせるというのはいかがですか? もう一度寿命を与えるというのではなく、一日だけ、もういちど家族と過ごすための時間を作り出すことができます。あなたにとって、お母さまの死はあまりにも突然だったはずだ」


「それも結構。実際私は、母との関係に辟易していたのです。彼女をどのように扱うべきなのか、私には最後まで分からなかったのだから」


「ほう。ではさらなる富はいかがでしょう。あなたの経済的層位はもはや人間界の頂点に達したと言えます。ここから先は、新しい市場、あるいは新しい概念によるブレイクスルーが必要なのでは? あなたにそれを差し上げましょう。あなたはそうして、次のステップへと進めるのです。人類の進化の貢献できると言ってもよろしい」


「面白い発想だが、それも結構です。今の状態はたまたま私の懐に転がり込んできた僥倖としか言いようがない。私はそもそも一介の雑貨屋にすぎんのです。もうこれ以上のカネはいらんです。人類の進化とかいうのにも、まったく興味がない」


 悪魔はテーブルを指先でコツコツと叩いた。それが苛立ちの顕れであると、ハルヒコは受け取った。彼はミルクをぐいとあおると、また白くなった髭を拭いた。


「あなたは?」ハルヒコが訊いた。


「はい?」悪魔が訊き返した。


「あなたの欲望ですよ。あなたは一体何が欲しいんです」


 悪魔は乾いた笑いを押しとどめた。くつくつ、と喉から音が鳴る。

 

「それは先ほども申した通りです。私はあなたの魂が欲しいんです。あなたの、数々の人間の欲望に漬け込まれた最上の魂を舌の上で転がして、その香りを鼻腔に満たして、柔らかくも確かな歯ごたえを歯神経に伝わせて、かつてない喉越しの感覚に浸りたいのです」


「なるほど、あなたはグルメというわけだ」


「悪魔はみなグルメですよ。こと食欲にかけて、悪魔ほどそれの強いものはないでしょう」


「魂は欲望に触れると美味になるのですか?」


「ええ。魂の味は人生の苦痛と快楽によって深みを増します。この国は豊かである分、苦痛と快楽のヴァリエーションに富んでいる。悪魔にとっては絶好の牧場であると言えるでしょう」


「ほほう。さすがは悪魔というところでしょうか。言葉の扱いがお上手だ。詩的でさえある。なんだか私もその魂というものを賞味したくなってきましたよ」


 ふふ、と悪魔は笑った。


「人間が魂を食べるなどという話は、さすがの私も聞いたことがありませんね」


「ではそれを求めます」


 悪魔の笑みが消えた。目の奥の光が怪しく輝き始めた。ハルヒコにはわかる。精神が持つ欲望の向きが分かる。悪魔が、交渉の余地を見つけたのだ。そして彼の心に、ハルヒコの魂への欲望がむき出しになって、その淫らな液体をどろどろと分泌し始めているのだ。その輝きが、ハルヒコには手に取るように分かった。


「私も食べてみたい。その素晴らしく美味というらしい魂というものを、私も食べてみたいんです。この上なく美味な魂を提供してくださったなら、私がそれを食したあと、私の魂をあなたに差し上げます」


「おっしゃいましたね? 言っておきますが、悪魔に嘘や冗談は通用しません。もちろん、法律や倫理もです。あなたが文書であれ口頭であれ、具体的な意思表示をし、私が認めたならば、契約は成立し履行されます」


「承知のうえです。私は美味なる魂を所望します。ただし私が求めるのは、


 悪魔は呆れたように顔を覆った。それから、爆発的なまでの高笑いをした。


「いやいや、参りましたよ。まさかこんなトンチを返してくるとは。なるほど。私が私の魂を差し出し、それをあなたが食べれば、あなたはあなたの魂を奪われずに済むわけだ。素晴らしい。確かに気が利いている。私はそんな契約を認めるわけにかいかない。だれも傷つかないとでも言うのでしょうか。実に人間的だ! やれやれです」


「そんなに余裕でいられることなのでしょうか。私があなたの魂を食してみたいと思うのは、ただの酔狂ではないのですが……。だからつまり、あなたとの契約に限らず、私はあなたの魂が手に入るのなら、自分の魂を差し出してもいいと言っているんですよ」


「はい?」


「だから、なにも私は自分の欲望を満たすのに、あなたと契約する必要はないんです。あなたの魂を私に提供できるほかのものと契約したっていいんですよ」


 悪魔は黙った。まるで今にもハルヒコを噛み殺そうと言わんばかりの目つきで、彼を睨む。そこにはまた別の欲望の色が浮かんでいる。


「ハルヒコ君。君はこの●●●●●●●●●を担ぎ上げて、いったい何がしたいんだね? 他の悪魔と契約だと? そんなことをしてみろ。死後の君の魂は地獄に行くよりも、ひどい目にあうことになるぞ。生まれてきたことと死んだことを後悔するほどに辛い思いをさせてやる」


「契約を越えた範囲で起こることが、いったいどんなものなのか私には想像もできませんな。それに私の使命は、なにもあなたと敵対することではありません。私は欲望の化身です。欲望するものがあるのなら、それに応えるのが私なのです」


「何を言っている……?」


「欲望に漬かった魂が大変な美味であることは、すでにお聞きしました。なるほど私の魂もまた、美味であることは確かでしょう。さぞうまいことだと思われます。

 ただ、欲望に多く触れたという意味では、私ごとき五十数年の魂がそれほどに深い熟れ具合だとは思えないのです。もっと長い間、しっかりと欲望に向き合ってきた魂があるのでは? それも、とても近いところに」


「待て、お前、頭がおかしくなったのか」


「違うんです。私はあなたに、あなたの欲望と向き合ってほしいんですよ。本当にあなたがしたいこと、欲しいものをあなたに見つけてほしいんです。それこそが私の欲望なんです。きっかけはあなたがくれた。私はあなたに大変感謝をしている。あなたがあの日私を選んでくれたから、私は自分の命のあるあいだに、本当に自分が一番好きなものを見つけることができたんです」


「さぁ。●●●●●●●●●さん。自分の魂を、少しだけ、齧ってみませんか」




 稀代の経営者であったハルヒコ・サカモトはS.G.Hを後継に譲り、サカモト商店から遠く離れたとある山寺に隠居を始めた。山寺は交通の便が非常に悪く、数時間を高難度のトレッキングに費やすことでようやく到達できる場所にあった。それにも関わらず、寺には連日多くの人々が訪れた。彼らは口々に願いを唱える。自分の欲望を恥ずかしげもなく、吐き出す。ハルヒコはそれをうんうんと適当に聞き流して、客にお茶を飲ませて帰らせた。


 老人はいまも待ち続けている。巷では彼を悪魔のような男だと評するものもいる。



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サカモト商店の週末 @isako

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