決意
トウマは逃げた。
言い訳をする必要があるだろうか? いや、ない!
悪魔の大群をまるで小魚のように燃やし尽くしたと言い伝えられる男が、トウマに向けて火を放ったのだ。まともな精神を持った人間なら、誰だって逃走するはずだ。
トウマは引き篭もりだが、自殺願望があるわけではない。
逆だ。
生きたいからこそ、森に籠もって暮らす道を選んだだけで。
とにかくトウマは背後をかえりみず、ひたすらに走った。狂気をふくんだデラールフの冷えた瞳は恐怖だった。もちろん、情け容赦ない炎も、とてもではないが立ち向かえるものではなかった。
走って、走って、ついに町の外れ、森の入り口までたどり着いてやっと、トウマは息を切らしながら後ろを振り返った。
誰もいなかった。
デラールフは追ってこなかったのだ。もちろん、ローサシアも。約束通り。
玄関先をホウキで清めている老婆がひとり、うさんくさそうにトウマをねめつけていた。犬が数匹、追いかけっこだと勘違いしてトウマに近寄ってくる。
猫や鳥はトウマなど気にもかけず、いつも通りに、目抜き通りに軒を連ねている建物の屋根でくつろいでいた。
トウマは胸をなで下ろした。
が、同時に、拍子抜けしたような……落胆している自分がいるのに気がついた。
思わず深いため息を吐き、走ってきた目抜き通りの先を見すえる。ピートルの酒場は町の外れの治安の怪しい区画にあり、たとえ納品などで町へやって来る時にも、足を運ぶことはなかった。
これからもないだろう。
ない……はずだ。
それでも、トウマはしばらく立ち止まって、「なにか」を待った。結局なにも起こらず、件の老婆の目つきがいよいよ険悪になってきたので、トウマはその場を去った。
森へ……帰る。
デラールフはどうなるのだろう。あの美しい死者は、どうするのだろう。
* * * *
それから二日、トウマは工作小屋で黙々と銀細工に向き合っていた。
理由はふたつある。
ひとつに、デラールフとローサシアのことを頭から追い出したかったからだ。
まっさらな銀の板を型に入れて固め、実用に適した形に成形し、美しい模様を彫り込んでいく。この過程に、トウマは昔から取り憑かれていた。
自分の手が、なにもないところから、何年も何十年も……もしかしたら何百年も、人々に愛される品を形作っていく。その神秘に魅せられていた。
そして、この作業をしているとき、トウマは他のすべてを忘れることができた。
ふたつ目の理由は……まるでデラールフの炎がトウマの手に宿ったように、ひどく熱い情熱に突き動かされたからだ。
作りたい。
表現したい。
残したい。
そんな熱がみなぎって、制作せずにはいられなかった。寝食さえ忘れ、狂ったようにトウマは作り続けた。なにを作っているのか自分でもわからず、ひたすらに手を動かしていた。
二日後、出来上がっていたのは、掌に収まる大きさのペンダントヘッドだった。
緩やかな楕円形のそれは、レリーフがエンボス加工で陰影づけされており、ひとりの美しい女性の横顔が浮き彫りになっていた。
(おいおい……嘘だろう……)
完成品を窓から差し込む光にかざして確認しながら、トウマは声なくうなった。
制作中は夢中で、気がつかなかった。
レリーフとなった横顔の女性が、ローサシアにそっくりなのだ。
(確かに……作品のモデルにしたくなるくらい綺麗な子だったけどな……こんなのは、ちょっと)
ローサシア達のことを忘れたくて銀細工に熱中したのに、出来上がったペンダントはローサシアそっくりだとは。彼女の周囲には睡蓮の花葉を形取った模様が散りばめられている。
可憐で、優雅で、凛としていて。
見れば見るほど、トウマの最高傑作だった。
(くそ……)
力なくだらんと腕を下ろして、天井を仰ぐ。
必死で彼らを忘れようとしたここ数日の自分が、馬鹿らしく思えた。どんなに逃げようとしても、不遇の恋人たちがトウマの心を離さない。根っこのところで、彼らの影を振り切れないでいるのは、トウマの意志なのかもしれない。
やはり結局、トウマはお人好しすぎるということだ。
ペンダントヘッドを銀の鎖のネックレスに通して完成させると、トウマはそれをズボンのポケットに突っ込んだ。
窓から外を確認すると、時刻はまだ昼前のようだった。
春にしては肌寒い日だったので薄い外套を羽織ったトウマは、戸締りをすると足早に工作小屋を後にした。
* * * *
会話をする相手もいなかったので、町までの道程は数日前ローサシアと歩いた時よりもずっと短かった。もしくはトウマの足が無意識に急いたせいかもしれない。
早く。
手遅れになる前に、と。
ピートルの酒場にたどり着いた時、トウマは例の頭痛を感じなくてわずかにあせった。
物心ついた頃から、死者が近づいてくるとトウマはひどい頭痛に悩まされていた。ずっとそれが悩みだったが、今は──今だけは──あの鋭い痛みを切望した。
「ローサシア? いるのかい? 僕だ、トウマだよ」
小声でささやきながら、寂れた酒場の周囲をうろつく。
足元に火をつけられた記憶は真新しく鮮明で、さすがにすぐに中に入っていく勇気はなかったのだ。しかし、いつまで経ってもローサシアは現れないし、頭痛もまったく感じないに至って、扉をくぐる覚悟をした……その時だった。
『トウマ……さん?』
儚い、ともすれば消え入ってしまいそうな、かすかな声が聞こえた。
同時にキリキリとした苦痛がトウマの頭を襲い、多分生まれてはじめて、トウマはその痛みを歓迎した。
ローサシアは天から降りてくる天使のように、淡い光をまとってトウマの前に姿を現した。
数日前より確実に姿が薄くなっている。
「まだいたんだ」
そっけなく言ったつもりだったのに、声が震える。
『ええ……まだここにいます。今のところは』
切なく微笑むローサシアは相変わらず美しかったが、数日前にはまだあった希望が消えかけていて、生気がなかった。──死者に生気がないというのも、おかしな話ではあるが。
酒場の周囲にはまだ人影はない。前回来た時もそうだったが、ここはどうやら夕方になるまでひとが寄りつかないようだ。
もしかしたらデラールフがここに篭っているのは、ひとりでいられるからかもしれない。もしくは、デラールフのせいで誰も近寄ってこないのか。
「……『今のところは』ってことは、ちゃんと感じてるんだ」
トウマはポケットに手を入れた。
指の先がペンダントに触れて、わずかに胸が重くなる。
『ええ、なんとなくですけど、わかります。多分……わたしがここにいられるのは、あと数日だけです』
「多分ね……。みんなそうなんだよ」
『例外はないんですか?』
「僕は見たことないな。そもそも、死者としてこの世にうろつく奴の方が稀なんだよ。たいていは皆、すぐにいなくなっちゃうから」
『そうなんですか。色々と勉強になります……。といっても、いくら知恵を増やしても、もう役に立たなくなるでしょうけど』
こんな状況でもユーモアの片鱗を失わないローサシアが、いじらしく思えた。
こんな女性を失ったデラールフの慟哭は、いかほどのものか。
想像するだけでも胸がつぶれそうだった。
「どうだろう……もしかしたら天国で役に立つかもしれないよ。そういう場所があれば、だけど」
ローサシアは『やっぱり戻ってきてくれたんですね』とか、『もう一度デラールフを説得してください』とか、そういったトウマを刺激するような台詞は一切口にしなかった。
ただ、彼女らしいおっとりとした口調で、トウマとの再会を喜んでくれている。
トウマの決心はいよいよ本物になった。
「……もう一度……もう一度だけ、デラールフに話をしてみようと思う。あれほどの能力者で、僕たちを救ってくれた英雄が、このまま酒で身を持ち崩すのはもったいないから」
ローサシアはしばらく、呆然とトウマを見つめていた。
そして小さくて綺麗な涙を水色の瞳からひと粒こぼすと、微笑んだ。
『ありがとうございます』
「まあ……話を聞いてくれればいいけどね。なんだか前回は、君を殺した連中の一味だと思われたみたいだし」
『あれは、あなたに対して怒る理由が欲しくて言っただけだと思います。本当にそう信じていたなら、あなたを燃やしてしまったはずですから』
「いや、普通に火をつけられたし。あの時のズボンは焦げてたから破棄したよ」
『トウマさん、ひとつ教えてあげます』
ローサシアはクスクスと笑いながら言った。
『デラールフが本気になったら、トウマさんなんか一瞬にして灰になっちゃうんですよ。誇張じゃなくて、本当に一瞬です。デラールフはそのくらい強いんです』
その報告について……トウマは震え上がってもよかったはずなのに、逆に、またしてもデラールフに親近感を抱いてしまった。
そんなに強大な《能力》を持って生まれて、どんな困難があっただろう。
どれだけひとを傷つけ、それによって彼自身も傷つき、心を失っていったのだろう。
ただ少し死者が見えるだけのトウマでさえこれだけ苦しんでいるのだから、デラールフの半生は生半可なものではなかったはずだ。
そこに……。
「君はデラールフの恋人になる前は、幼なじみだったって言ったっけ?」
デラールフにとって、ローサシアの存在はなんだったんだろう。
年はひと回り近く離れているように見える。
外見も性格も正反対だ。少なくともトウマの知っている限りでは。
でも……。
『はい』
ローサシアの返答は短かったが、力強かった。まるでその事実をなによりも誇っているかのようだった。
「デラールフと話をする前に……。教えて欲しい。デラールフと、君の話を。どうやって知り合って、どうやって愛し合うようになったのか。彼を説得するのに役立つかもしれないから」
最後の一句は、おそらく欺瞞だ。
トウマはただ知りたいだけなのだ。
なぜか、ふたりの物語に、トウマ自身への救いもあるような気がして。
ローサシアはしばらく口をつぐんだ後、小さくうなずいて、背後の酒場に目を向けた。デラールフはまだ中にいるのだろう。数日前と同じか、もっとひどい有様で。
『わかりました、お話しします。少し、長くなりますけど……聞いてください』
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