死者の恋

泉野ジュール(Jules)

第一章 我、君を想う

懇願 1



 それはなんの変哲もないうららかな春の午後だった。

 トウマには少しばかりの超能力があって、それは決して華やかなものではない。


 だから今日もトウマは、森の中にひっそりとたたずむこの工作小屋で、ひとりきりだった。

 小さな銀のかたまりにたがねの先端を打ち込み、静かに、慎重に、模様を削り込んでいく。


 銀は興味深い素材だった。

 柔らかいのに強い。

 打てば打つほど、強度を増す。優美ではあるが派手さはなく、静かだ。


 銀細工師であるトウマは、注文の首飾りに繊細な花模様を彫りつけ、腕が乗ればもしかしたら、日暮れまでに名前を刻むところまで進められるかもしれないと思っていた。


 間違いだった。

 大きな、大きな、間違いだった。

 うららかさとも、平穏さとも、別れを告げなければならない日が、今日だったのだから。


「……ッ、しまった……」

 急に鋭い頭痛に襲われて、トウマは手元を滑らせた。

 鏨の柄を打つ金槌で、間違えて指を打ってしまう。患部からジンと痛みが広がって、顔をしかめる。

「これは……まずいな……。しばらく見ていなかったのに……こんな時に」

 ブツブツと、トウマは独り言をごちた。

 しかし、これはもう独り言ではないのかもしれない。トウマはこの頭痛の正体をよくわかっていた。

 ズキズキと痛む頭を抱えながら、トウマは周囲を見回した。


「誰かここに……いるのかい?」


 この部屋には、大小さまざまな道具が壁と作業棚に並んでいる。トウマの几帳面さを表すように、種類や長さがピタリと揃えられていて、狭い空間に物が溢れているにも関わらず乱雑さはない。


 トウマは長い前髪の隙間から、彼に頭痛を与えるものの正体を探した。

 ──いるはずだ。

 そうでなければ、こんな痛みを感じるはずがない。


 果たして……トウマは部屋の入り口の扉の前にたたずむ、ひとりの黒髪の少女を見つけた。

 トウマと少女の視線が交わる。

 少女は目を見開いて、驚きに息を呑んだ──呼吸など無用の長物のはずなのに、なぜか皆、一様にこれをするのだ。


『あなたには、わたしが見えるのですか?』

 これもまた、ほとんどすべての「彼ら」が最初に口にする。

 トウマの慣れはすでに芸術の域に達していたから、わずかに肩をすくめただけで、コクリとうなずいた。


「ああ……。君だってわざわざこんな場所まで来るってことは、僕の噂を耳にしたからなんだろう? 森の奥に、銀細工師をやっている、死者を見ることのできる変な男がいるって、さ」


 少女は小さく首を傾げたが、じっとトウマを見つめたままだ。

 彼女は素直で、言い訳をするそぶりさえ見せなかった。


『実はそうなんです。町の酒場でそんな噂を耳にして、藁にもすがる思いでやって来ました』

「酒場? 死んでしまっても酒場に行きたがる人もいるんだ? もう呑めないのに」


 ただの皮肉で言ったつもりなのに、少女は傷ついたように足元に視線を落として、口をつぐんだ。

 その時やっと気づいたのだが、少女は思ったよりも大人びていた。多分十九歳くらい……もしかしたら二十歳になっているかもしれない。


 なっていた、と過去形にするのが、正しいのだろうけれど。


 ただ、大きな瞳と小ぶりの鼻と唇という顔の作りが、彼女をとても幼く見せた。いわゆる童顔だが、まるで人形のようだ。体格も華奢で、たいして長身ではないトウマより、さらに頭半分くらい背が低かった。

 ありていに言って、彼女は可愛らしかった。

 美少女と美女の間くらいの、なんとも危うくて、それでいて完璧な美しさだ。


『……お酒を呑みたくて酒場にいたわけじゃないんです』

 言い訳するような口調で、彼女はささやいた。


「いや、別に責めてるわけじゃないよ」

『いいえ、いいんです。でも聞いてください。わたしは……わたしには、ある人にどうしても伝えたいことがあるんです。その彼が酒場にいるんです。だからわたしも彼と一緒に酒場にいました。もちろん誰もわたしには気づきませんでしたけど……彼も含めて』

 

 嫌な予感がして、トウマは天井を仰ぎ見た。

 ああ……これだ。

 いつもこれだ。

 死者は、生者になにかを伝えたがる。


 愛の言葉。憎しみの言葉。別れの言葉。激励の言葉。どれもこれも胸を掻きむしりたくなるほど切なくて、強烈で……無意味だ。


「それで君は、僕に、彼へことづけして欲しいんだ」

『はい……』

「あのさ……君には想像できないかもしれないけど、僕は今まで、そういう願いを山ほど受けてきて、その度に痛い思いをさせられてきたんだ。だからこうして森の中に隠れて、銀細工を相手に商売してるんだ。正直……そういうのは、ちょっと迷惑なんだ」


 彼女は傷ついた顔をした。

 晴れた春空のように薄い水色の瞳が、悲しげに潤んだ。

 その明るい水色と、濡羽色な黒髪との対比が、死してなお鮮やかで美しい。きっと生前は目も眩むような美少女だったのだろう。

 今となっては、すべて意味をなさないことだけれど。


 彼女は黙りこくって、涙を隠すように横を向いた。

 たいてい、こういう時、死者はうるさくまくし立てて、なぜトウマは彼らを助けなければならないのかを力説する。断れば、冷酷だと罵られることもある。


 しかし彼女は、一切そんなことをしなかった。

 ただ、希望が途絶えた悲しみにうちひしがれている。その姿は凛としていて、そこはかとなくたおやかだった。


 トウマはうなり声を上げたい気分になった。

 ──くそ! くそ! またこれか!

 どうして僕はこんなにお人好しなんだ!


「……で、君はその彼に、なにを伝えたいの?」


 水色の目を大きく見開いて、彼女はトウマに視線を戻した。

『え?』

「あ、早とちりしないでくれる? 聞くだけだよ。ただの質問。なにも約束はできないよ」

『本当ですか? 聞いていただけるんですか?』

「だからなにも約束できないってば。そんな期待に満ちた目で僕を見ないでくれる?」

『ありがとうございます! ありがとうございます!』

「だから……」


 美少女/美女は素直に飛び跳ねながら喜び、満面の笑みを浮かべて謝辞を繰り返した。

 珍しいタイプだ。

 多分、生きていた時も明るくて前向きな子だったんだろう。人間とは因果な生き物で、たとえ死者になっても、生前の人間性は変えられなかった。


 ひとしきり喜んでから、彼女はピタリと動きを止めて、トウマに真剣な顔を向けた。


『相手はある男性です。彼はもう何日も酒屋に入り浸って酔っ払っています』


 トウマは顔を両手にうずめてうなった。「それ、最悪のケースだよね」

『そうかもしれません』

 彼女は否定さえしなかった。


『でも、ずっとそんな人だった訳じゃないんです。とても真面目な人でした。まぁ……いわゆる真面目という言葉が正しいかどうかは分かりませんけど、酒屋に入り浸って、あちこちに怒鳴り散らかすような人ではなかったんです』

「じゃあ、今は怒鳴り散らかしてるの?」

『それは……そうですね、時々は』

「…………はぁ」


 トウマが運に恵まれることは稀だった。

 突然目の前に現れた見目麗しい美少女はすでに死者だし、彼女の願いを叶えてあげようかと考えれば、相手は酒場で酔っ払って怒鳴り散らしている無頼漢だという。

 そもそも、こんな難儀な《能力》を持って生まれた時点で、トウマの人生は積んでいたのだ……かなり深刻に。


 トウマの声なき嘆きを、彼女は察したらしかった。


『ごめんなさい……。迷惑なのは、わかっています。《能力》を持って生まれる大変さは知っているつもりです。実はその酒場の彼も《能力》を持っているんです』

「……へえ?」

『今は上手く制御していますけど、昔は本当に大変でした。力が大きすぎて、怪我をしてしまうことも多くて。能力者に偏見を持つ人も多かったし』


 名前も知らない酒場の酔っ払いに、トウマはわずかな親近感を覚えた。

 この世界には稀に《能力》を持って生まれる人間がいる。百人にひとりとも千人にひとりとも言われ、その力の種類も、強さもそれぞれだ。

 トウマは死者を見ることができる《能力》を有する。

 また別の者は……。


『彼は「火」の属性の《能力》を持っています。なんでも燃やしちゃうんです』

「それは……ちょっと」

 芽生えたばかりの親近感は急速にしぼんだ。

 そんな男が酒場で酔っ払って怒鳴り散らしているところに、トウマは話しかけなければならないのか? なんの罰だ?


 少し落ち着きたくて、トウマは机の上にあったコップの水を飲みはじめた。冷たい水が喉を癒し、つかのまの安らぎをトウマに与える。


 水色の瞳の可憐な死者は、その間、なにを言うべきか考えているようだった。

 そして決心したようにおもむろに顔を上げると、真っ直ぐな瞳で、トウマに恐ろしい事実を突きつけた。


『彼の名前はデラールフです。デラールフ・センティーノ。彼をご存知ですか?』


 トウマは、口の中に含んでいた水を派手に吹いた。


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