第三章 あなたがいるから
淡き想い 1
──デラールフ24歳、ローサシア16歳──
デラールフ・センティーノ。
デラールフ。
デラ。
どんな呼び方をしようとも、ローサシア・サリアンにとってなにものにも代えがたい大切な存在が、彼だった。『大切』などというありふれた言葉が、ローサシアにとってのデラに当てはまるかどうかはわからない。
ローサシアにとって、デラールフは己の魂そのものだった。自分の片割れ。
夢であり、現実であり、過去であり、未来だった。
「大好きよ、デラ。デラのことが、大好き」
幼い頃から、何度、そうデラールフにささやいただろう。子供の頃はデラールフもそれに答えてくれた。彼もローサシアが好きだと、素直に口にしてくれた。
しかし、ローサシアが十歳になった頃から、デラールフは困った顔をするようになった。どこか悲しげに表情を曇らせ、曖昧な笑みを浮かべて「そうか」とか「わかってるよ」と、彼独特のけぶった低い声でつぶやく。
それでも……彼はいつも、ローサシアの告白を喜んでくれていた。
ローサシアにはそれがわかった。いつだってそうだ。デラールフは口数の多い男ではなかったけれど、ローサシアには彼の心の声が聞こえた。
時には痛いほど赤裸々にはっきりと、時には思わず微笑んでしまうほど秘めやかに。
でも……最近、ローサシアは時々、彼の心がわからなくなっている。
それは地図を失った旅に似ていた。
舵をなくした航海。北極星のない夜空。
もちろん、だからといってローサシアは、デラールフを愛することをやめられなかった。その想いを口にするのも、はばからなかった。
ひとは呼吸をせずには生きていけない。
ローサシアにとってデラールフを愛することは、呼吸や鼓動に等しい行為だったから。
* * * *
十六歳の誕生日を迎えたその日の午後、ローサシアは授業が終了すると同時に教室から駆け出し、校門に向かって走った。
今日は朝からソワソワと落ち着かず、授業中もずっと上の空だったのだが、それには理由がある。
今日はローサシアの誕生日なのだ──いつだってこの日、デラールフは格別にローサシアに甘く、優しかった。物心ついてからずっと、デラールフは毎年この日を特別なものとして扱ってくれていた。
極寒の季節に生まれたローサシアの誕生日に、できることは少ない。
両親は限られた食材でできる限りのご馳走を用意してくれる。そのささやかなお祝いの夕食の席には、必ずデラールフの姿もあった。
一家とデラールフはローサシアの誕生の奇跡を祝い、抱擁や頰への口づけが交わされて、父とデラールフはいつもより上等の蒸留酒を呑み交わしたりする。両親とデラールフからつつましやかなプレゼントが与えられ、ローサシアはお礼に歌や踊りを披露して、祝いの夜は更けていった。
それが、表向きのローサシアの誕生日だ。
でもふたりには秘密がある。ふたりしか知らない、誕生日の儀式が。
「そんなに急いでどこへ行くんだい、ローサシア」
もうすぐ校門というところで声を掛けられ、同時にグッと肩をつかまれて、ローサシアは振り返った。
すぐ隣の学校に通っている同い年の少年が、頰を赤らめて息を切らしていた。
ローサシアの通う女学校は、地元の教会により運営されていて、男子が通う通常の学校と同じ敷地内に併設されている。女児に教育は必要ないと考える両親は多く、女子生徒の数は男子生徒の半数以下だ。
だから、女子生徒はよく男子生徒に声を掛けられた。
女が生意気だと目をつけられることもあれば、性的な興味を持たれることもある。特にここ数年、ローサシアは後者に悩まされていた。
「その、さ、急に飛び出してきたから驚いたよ。なにか問題でもあるのかい? えっと……なにか僕にできることはある?」
なにげない偶然のふりをしたいようだが、少年の息は上がっていて、ローサシアに追いつくために走ってきたのは明らかだった。
「なんでもないの。今日は……その、少しお腹が痛くて、早く家に帰りたいと思っただけよ」
「本当? 大変だ。じゃあ送っていくよ」
「だめ!」
ローサシアは思わず声をうわずらせた。
少年が驚いて目を見開く。そのくらい大げさに叫んでしまったらしい。ローサシアは慌てて周囲を見渡し、他の人影がないかどうかを探した。
誰もいない……ように見える。
でも。
通常の学校と女学校の敷地を隔てているのは丸太の柵だけで、校門は繋がっている。すぐ隣に教会があり、校門を抜けると雑木林が広がっていて、一本の砂利道が町に向かって伸びている。
春から夏にかけては、豊かに茂る葉の木陰で語らいながら、皆がこの砂利道を通る。
冬は、誰もが背を丸めて、足早に通り抜ける。
多分、なんの変哲もない田舎道だ。
でも時々、この砂利道はローサシアにとって特別なものになる。今日も……もしかしたらと、思っていたのに。
深い落胆のため息を漏らしたローサシアは、あらためて少年に向き直った。
短い茶色の髪と、同色の大きな瞳が印象的なお坊ちゃん風の少年で、おそらくそれなりに魅力的なのだろう。この少年には何度か声を掛けられた気がする。
でも。
「『だめ』……? どうしてだい?」
少年は、ローサシアをのぞき込むように顔を近づけてきた。
その時だった。
校門に一番近い木の皮の一部が、チリッと乾いた音を立てて光り、一瞬だけ焼けた。一瞬だけだ。火はすぐに消え、わずかに焦げた臭いだけを残して、滅する。
でも。
ああ──でも。
ローサシアは少年を背後に追いやり、冬枯れの雑木林に視線を向けた。葉を落とした木々は寒々しく、簡素で、あまり多くのものを隠せない。
特に、彼のように大柄なひとを隠蔽するのは、難しかった。
「やめて。必要ないわ。ちゃんと……迎えに来てくれたひとがいるから」
花がほころぶように、ローサシアの口元に笑みが咲きこぼれる。温かいもので胸が満たされていく。ローサシアの視線の先で、太い幹の影に隠れた人影が音もなく姿を表した。
ぽかんとしている少年を残して、ローサシアはその人影に向かって駆けだした。
ローサシアが首元に結んでいたマフラーが風になびき、宙に舞う。
砂利道を外れ、数日前の雨にぬかるんだ地面を走った。この季節にしては薄い生地の、象牙色の外套を身につけた人影は、そんなローサシアを抱きとめた。
はらりとフードが頭から外れ、見事な白髪が現れる。
「来てくれたのね、デラ。嬉しい」
ローサシアがささやく。
「約束したからな」
デラールフは言い訳のようにつぶやいた。
ふたりが言葉を交わしたのは数日ぶりだった。数日前、誕生日に欲しいものはなにかと問われて、素直に答えたローサシアの前から、デラールフは姿を消した。
表向きは泊まり込みの仕事があるから……とのことだったが、それが方便なのは明らかだった。
ローサシアは首をのけぞらせて幼なじみの顔を見上げる。
ここ数年のデラールフはまがいもない『男』だった。
少年の影は完全に消え、元々大人っぽかった彫りの深い顔立ちはさらに渋みを増している。日々の労働が与えるたくましい体つきに加えて、《能力》を制御するため時々森で訓練を積んでいる彼は、大工というより戦士と呼んだ方がしっくりくる体躯をしていた。
ひとつだけ変わらないもの……。
それは、ローサシアを見つめる時の、彼の優しすぎる眼差しだった。
「ありがとう」
ローサシアは心からの感謝を込めて口にした。「……ね、プレゼントは、もらえるの?」
デラールフの返答は喉から漏れる不穏なうなり声だった。
「……なにかほかのものは欲しくないのか? 今からでも間に合う。言ってくれ、なんでも」
「だめよ。だめ。ほかのものは欲しくないの」
「ローサ」
「デラ」
「くそ」
期待を込めた瞳でデラールフを見つめる。
彼は本当に苦悩していた……。そこまで嫌がられる理由がわからなくて、ローサシアの心は沈む。決心を変えて、あれは冗談だったのだと言ってしまえば、お互いに楽になるのかもしれない。
でもローサシアは今日、十六歳になる。
少女が大人の入り口に立つ年齢だ。結婚をする娘もちらほらとでてくる歳だった。この門出を……ローサシアはどうしても『あること』で祝いたかった。
「ひと前じゃなくていいの」
言い訳がましく、すでに数日前に伝えたことを繰り返した。
デラールフの顎がさらに固く結ばれるのがわかる。彼の頰にはうっすらと無精髭が影を作っていた。
そこに触りたいのを我慢して、ローサシアは彼の胸にすがった。
「いつもの、お祝いのあとに森でふたりきりで……キスをして。はじめてのキスは、デラールフがいいの」
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