真木永佳は怪盗である


 真木まぎ永佳えいかは怪盗である。

 怪盗というのはつまり、窃盗犯である。

 宝飾品と美術品の窃盗を専門にしている。有価証券には手を出したことがない。これは、美意識によるものではなく、単に有価証券を捌くためのコネクションがないためであった。永佳は芸術を学ぶ専門学校を中退していたが、盗品を換金するコネクションはそのときに作った。また、自分の持ち込んだ品が正真正銘の本物であり、盗んだ者が他ならぬ永佳であることを証明するために、窃盗の現場には犯行声明を残すようにしていた。

 マスコミはこぞって「怪盗」の存在を宣伝した。様々な犯罪心理学者がニュース番組で見当違いのプロファイリングを披露した。今のところ、永佳が警察に捕捉される気配はない。

 彼女の日常は平穏そのものだった。フィクションで描かれる「怪盗」のようなスリリングな場面はない。リスクは事前に排除するか、それが無理なら別の獲物を狙うだけだ。

 永佳はストックしておいた次の「獲物」候補の下見を終わらせて、夕方のうちに帰宅した。住んでいるのは駅から徒歩十五分の1LDKのマンションだ。表向きは、派遣アルバイトで生計を立てていることになっていた。窃盗で大金を稼いではいるが、普段の金遣いは偽装身分に合わせた慎ましやかなものだった。

 冷蔵庫の中を確認して、しばし今夜の献立を考える。

 永佳はマンションで一人暮らしをしているわけではなかった。清川きよかわ白菊しらぎくという女性とルームシェアして二人で生活している。白菊は専門学校時代の同級生だったが、永佳の中退以降も交遊が続いていて、永佳の貧乏生活(もちろん偽装)を見かねた白菊が卒業を機にルームシェアを提案してきたのである。

 最近の白菊は残業続きでいつも帰りが遅い。夕飯は温め直せる汁物をメインにするのがいいだろう。

 自分の夕飯を食べ終えてからは、落書き帳に無意味な絵を書きながら頭の中で次の仕事の段取りを考えていた。永佳はメモを残さないようにしていた。盗品の換金も、まず第一に自分の身元を辿れないようにすることを最優先にしていた。

 シチューが冷えてすっかり固くなったころ、やっと白菊が帰ってきた。

「……ただいま」

「おかえり」

「疲れたー」

「だろうね。シチューとポテトサラダあるよ」

「自作?」

「もち。冷蔵庫で死んでた食材を使い切った。偉い」

「じゃがいもなんかあったっけ?」

「前にポトフ作ったときの余り」

 白菊は鞄を放り出してソファに仰向けに寝そべると、スーツの内ポケットからタバコを取り出して火をつけた。永佳は何も言わずにキッチンの換気扇をつける。永佳の位置から白菊のスカートの中が見えていたけど、シチューを温めながらしばらく黙って眺めていた。

 ややあって白菊が永佳の方を見てニッと笑った。

「……えっち」

「見せたのはそっち」

「でもそんな真剣に見ることないじゃん」

「気づいてたのに黙ってたの?」

「私のパンツに興味津々なえいちゃんが可愛くて」

「意地悪」

「警察を舐めたらいかんぞ。怪しい人間は直感で分かるんだよ」

 仰向けでだらしなく両足を開いたまま、白菊の口からは火山ように煙が吐き出された。

 永佳が温め終わったシチューをテーブルの上に並べていると、白菊は二本目の煙草を灰皿に押し付けて、ソファからのそのそと起き上がった。

「……仕事、大変なの?」

 シチューをすする白菊に尋ねた。

「仕事はいっつも大変なものだよ、君。えいちゃんだって働いてるんだから分かるでしょ?」

「しーちゃんみたく残業してないし」

「でもたまに泊まり込みの徹夜仕事とかやってるじゃん。あれ労働法違反だからね?」

 もちろん、その日は本当に派遣の仕事をしていたわけではない。

 白菊はスプーンを咥えたまま深く息を吐いた。

「あの怪盗……ぜんぜん証拠がなくてね……盗まれた宝石がいくつか裏に流れてるのは見つけたけど、取引を遡っても途中でぷっつん糸が切れちゃって……あとマスコミ対策とか……部長にはめっちゃ叱られるし……女だからって甘く見られるし……上司がマジで最悪……いつか殺す……」

「捕まえられそう?」

「そういう美味しいところは年次が上の人の役割で、私みたいな下っ端は書類仕事と裏取りばっかり」

 白菊は茶碗の白米をシチューの皿に投入した。

「行儀悪いよ」

「えー。構成要素だけ見ればリゾットじゃん」

「シチューという単位で皿に出した料理人の意図を汲んでほしい」

「この時間くらいしかゆっくりできないんだから固いこと言わないでよ」

 白菊は拗ねたように言う。彼女がこういう言い方をするのは相当弱っている証拠だった。

「ねー、お酒ないのー?」

「駄目。飲み始めると深酒するから」

「飲まずにやってられるかー!」

「駄目!」

「じゃあ酒は諦める。代わりにえいちゃんを食べる」

 言うや否や、永佳は白菊に手首を掴まれて引き寄せられた。現役刑事の力には逆らえるはずもなく、永佳の唇は奪われた。食欲の延長線上にあったのか、鼻息荒く永佳のことを求める。

「……シチューの味、する」

「美味しかったよ」

 そう答える白菊の目にはぎらぎらとした輝きが戻っていた。

 白菊の激しい求めに、永佳は抵抗しなかった。少しでも彼女のことを癒せるのならばそれくらいはいくらでも差し出すつもりだった。

「……ごめんね、しーちゃん」

「なんで謝るの?」

 ソファの上で永佳に跨りながら、白菊は額に玉のような汗を浮かべていた。

「とにかく、ごめん」

「もう。辛気臭いことしか言わないなら、塞いじゃうから」

「んっ――」




 真木永佳は怪盗である。

 このことを知っているのは清川白菊だけだ。誰にも知られてはいけない。この秘密を守るために、清川白菊は自分の人生を賭けてきた。

 そのことに気づいたのは、刑事として「怪盗」の捜査情報にアクセスできるようになってからだった。

 盗品と金の流れを逆に追いかければ、どれだけ巧妙に隠してもいずれは辿り着く。ましてや永佳のことならば、自分は誰よりも詳しい自信がある。だって学校で彼女と知り合ってから、白菊はずっと彼女のことを見ていたんだから。

 最初は、まさかと思った。信じたくない、という感情は、しかし自分の理性を押し止めるほどではなかった。その日から「泊まり込みの捜査がある」と嘘をついて家に帰らなかった。三日間、永佳から離れてみて、それでも自分にとっての彼女の大きさが変わらないことを確信してから、白菊は手段を選ばずに永佳を守ることを決断した。

 白菊が永佳と「怪盗」を結びつけることができたのは、盗品が流れたルートの捜査中に専門学校時代の知り合いを見つけたからだった。永佳のことを知らない他の刑事が辿り着ける可能性は低かったが、可能性は1%であっても許容してはならない。

 白菊は証拠を握りつぶし、捜査を間違った方向に誘導した。捜査本部の中で白菊は下っ端の刑事でしかなかったが、「答え」を知っているという大きなアドバンテージがあった。

 仕事を終えてマンションに帰ると、愛する真木永佳が待っていてくれた。

「……ただいま」

「おかえり」

「疲れたー」

「だろうね。シチューとポテトサラダあるよ」

 ソファに寝っ転がって煙草に火をつける。煙で肺の中を満たすと、頭の中がすーっと澄み渡っていく。永佳の視線を広げた足の隙間に感じた。わざとそのままにして自分の胸が高まるのを楽しむ。生きている、という感じがする。

 そうしながら、今日の自分の行動に間違いがなかったかを頭の中で検算する。先々月盗まれたダイヤモンドがマーケットに流れているのを先に見つけられたのは予想外だったが、先手を打って金の流れを、少なくとも書類上からは隠蔽できた。しかしあまり派手に動けば白菊自身が他の刑事から嫌疑をかけられかねない。慎重に、慎重に――。

「……仕事、大変なの?」

 永佳の心配そうな声。危険だが有意義な仕事だ。愚痴をこぼすのを装って、永佳に警察の動きを漏らした。永佳は心配そうな表情を見せていた。それが単純な「心配」ではないことを白菊は知っている。

 夕飯を食べてから、白菊は永佳にキスをして、そのまま彼女の体を押し倒した。

 滑らかで、美しくて、柔らかくて、いい匂いのする彼女を抱きしめながら、自分が守っているものの価値を体で確認する。

 彼女が自由を維持しているのは、自分が守っているからだ。たとえ彼女の気持ちが自分から離れていても、彼女の味方は自分しかいない。そして彼女はそのことを知らない。自分だけが永佳のすべてを知っている。

「……ごめんね、しーちゃん」

 震える永佳の声に、白菊はぞくぞくとした興奮を覚えて、体の芯が熱くなった。


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