幸せじゃなくても手を繋ぐ関係

 高校生になったというのにわたしたちは未だに手をつないで一緒に下校していた。

 わたしと角近伊千佳かどちかいちかのこの習慣は小学二年生になったときに始まった。伊千佳はわたしより学年がひとつ下、家は隣でわたしたちの母親も仲が良かった。何よりも伊千佳はどこかぼんやりとしたところがあって、小学校への登下校を心配した伊千佳のお母さんはわたしに彼女のことを念押しして頼んだ。末っ子のわたしは大人から頼られたのが嬉しくて、お姉さん風を吹かせながら伊千佳の手をしっかりと握りしめて学校へ通ったのを覚えている。

 わたしたちは一緒に同じ中学へと進学し、高校受験でも、わたしたちの学力は同じようなレベルだったので、深く考えることなく近所の高校へと一緒に進学した。

 そうやって生活環境や人間関係に変化のないまま歳を重ねて、気がつけばこの習慣をやめるきっかけを完全に失っていた。昔から内気だった伊千佳はわたし以外に仲の良い友だちはいない様子だったし、わたしも伊千佳を優先しているうちに友だちは彼女だけになっていた。

 今にして思えばわたしが一年先に小学校を卒業したときが辞め時だったのかもしれない。しかし卒業式の日に伊千佳から「明日からって……別々なんだよね」と不安そうに言われたときにわたしの中にある「お姉さんスイッチ」がパチンと入ってしまった。

 「お姉さんスイッチ」というのは主に伊千佳が不安そうな顔をしているときに入るスイッチで、これがオンに切り替わると根拠のない自信過剰と無限の責任感が芽生えてしまうのである。それはともかく。

 かつてぼんやりした内気な少女だった伊千佳は、今はぼんやりした内気な美少女に進化していた。化粧やおしゃれにはわたしも一家言あるつもりでいるけれど伊千佳にはかなわない、そもそも素材からして違う。しかしながら伊千佳には社交性というものが欠けていた。そのせいで高校生になるまで男子とは無縁の学生生活を送っていた。

 高校に進学してからは別のクラスになってしまったので、下校するときは先に教室を出た方が玄関でもう一方を待つのが習わしになっていた。わたしたちはどちらも部活には入っていなかったので、待つことになってもすぐに揃うのが常だった。

 ところがその日に限っては待てど暮らせど伊千佳の姿が見えなかった。

 一体何をのんびりやっているんだ、いっそ教室に迎えに行こうかと気をもんでいると、いつもの呑気な無表情で伊千佳が玄関にやってきた。

「遅い!」

「ごめん、時間かかって」

 伊千佳は一人じゃなかった。男子生徒を連れていた。背の高い爽やかなイケメンだった。

「それじゃ、角近さん……」

「はい、部活頑張ってください、先輩」

 先輩ひとりだけ校舎の中に戻っていった。一体何しに来たのだろう、わざわざ伊千佳を見送りに来たのか。

「あの人、何?」

 靴を履き替えている伊千佳に質問した。

「三年生の先輩。サッカー部。同じクラスの人のお兄さん」

 伊千佳は簡潔に答えた。

 わたしがいつものように片手を差し出すと、伊千佳は目も落とさずに握った。

「気をつけなよ、伊千佳に気があるみたいだし」

 わたしは警告した。別れ際の先輩の緩んだ顔を見れば一目瞭然だ。

 しかしわたしの警告を聞いても伊千佳は驚いた素振りも見せない。

「知ってる」

「へー、珍しい。そういうの鈍感なのに」

「だって、好きって言われたから」

「はあっ!?」

 思わず大きな声を出すと、驚いた伊千佳が一瞬肩を縮こませた。

「え、え、なんで? どうして?」

「委員会が同じ。あまり話したことなかったけど、告白された」

 伊千佳は美化委員だったはず。本当に、あの先輩が美化委員なんてやるか? うちのクラスのカースト上位の男子は、そういう面倒くさい仕事は誰かに押し付けていたけど。ひょっとして、最初から伊千佳狙いなんじゃないのか?

 などと、さらに警戒を強めながらわたしたちは校門を出た。

「気をつけなよー。二人っきりになったら危ないよ」

「なんで?」

「だって、襲われたりするかもしれないじゃん。それに伊千佳は流されやすいから雰囲気で色々されちゃうかも」

「そういうことはしない人だと思う」

「分かんないじゃん!」

「それに」

 伊千佳の言葉が途切れて、続いて出てきたものにわたしは驚愕した。

「私も、先輩のこと、好きだし……」

 思わず立ち止まっていたら、気づかずにそのまま歩き続けていた伊千佳にぐいっと手を引っ張られた。

「大丈夫?」

「だ、だだだだ――」

 大丈夫と答えようとしたのか大丈夫じゃないと答えようとしたのか、自分でも分からない。

「ななななななんで」

「……先輩、優しいし、一緒にいると……楽しいし……」

 はあああああ!?

「えっと、つまり二人は付き合ってるってこと?」

 伊千佳がこくんと頷く。

「はあああああ!?」

「……怖い」

「なんでわたしに言わなかったの!?」

「言ったほうが良かった……?」

「良かったよ!」

みやこ、なんで怒ってるの……?」

「怒ってない!」

 わたしは怒っていないのだろうか。自分でもよく分からない。良く分からないうちに謎の焦りと不安に襲われていた。伊千佳がわたしに対して大切なことを教えてくれなかったことと、わたしよりも先に彼氏を作ったことと、何よりも――何よりも、何だろう。

「……デートとかしたの?」

 何とか平静を装って質問した。最悪なことに伊千佳はコクリと頷いて肯定した。

「休みの日に」

「何回?」

「三回」

「キスした?」

 伊千佳は顔を赤くして首を横に振った。

「したかったけど……」

 そして付け加える。

 最悪だ! 最悪だ!

「でも先輩ってめっちゃモテるじゃん。うちのクラスにも格好いいって言ってる人いたし」

「うん……」

「ほんとに伊千佳のこと本気なの? 遊ばれてるだけじゃなくて? よく知らないのに告白してきたんでしょ? そんなの顔と体が目当てに決まってるじゃん」」

「そんなことする人じゃない」

 珍しく伊千佳が強い言葉で反論した。わたしはちょっとうろたえて、

「別にいじわるで言ってるんじゃなくて、伊千佳のことを思って確認しただけだから」

「都、先輩のこと嫌いなの?」

 嫌いだった。いや、今日までのよく知らなかったけど。今は嫌いだ。

 どうしてわたしはこんなにおかしくなっているのか。そして伊千佳の恋人のことを悪く言うたびに自分のこともどんどん嫌いになっていく。

 わたしは何も言うことがなくて黙った。伊千佳は普段よりも口数が少ない。わたしには、伊千佳が不機嫌になっているのが分かった。

 これが習慣だから、わたしたちは手をつないだまま帰る。胸が苦しくなる。長い帰り道だった。

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