短すぎた入院


 一瞬の油断で二ヶ月の入院。車はもっと重症で走行不能。人身事故だったら社会的にも死んでいたところだった。

 職場のコールセンターに休職の申し入れをしたとき、急にわたしがいなくなってみんなさぞ困るだろうと思っていたら、上司の反応はあっさりしたものだった。この世界から急にわたしが消えたとしても、きっと影響は微々たるものだろう。

 こうして鬱々とした気持ちになるのは、足が折れてベッドの上から動けないのもあるけれど、入院から半月も経ったのに誰もお見舞いに来てくれないというのが理由だと思う。

 両親とは電話で話した(めちゃくちゃ怒られた)けどわざわざ田舎から見舞いにやってくるほど暇ではないし、わたしの人間関係といえば職場の人とたまに食事に行くくらいで休職中の人間にわざわざ会いに来るほどの仲でもない。初めてできた恋人とは肉体関係が発生する前に別れてそれっきりだ。

「あははは! それマジで最悪じゃん!」

「いやほんとそれ! 先生にめっちゃ見られてマジ恥ずかしかったし!」

 人がせっかくメランコリックな気持ちになっていたら、向かいのベッドの馬鹿笑いで何もかもが台無しになった。

 とにかくこの入院の最悪なところは大部屋で四六時中他人と一緒に居なければいけないことと、よりによってその他人というのがあの女だったということだ。

 あの波汐なみしおという女のもとにはひっきりなしに男女問わず見舞客がやってきては病室らしからぬ馬鹿騒ぎをしてゆく。漏れ聞こえる会話から推測するにあの女は大学生らしい。ということはわたしと同世代か。

 向かいのベッドを恨めしく見ていたらあの女と目が合った。マズい、と思って目をそらそうとしたら、それより先にニヤッと笑った。ちくしょう、勝ち誇った顔をしやがって。見舞客が波汐の笑みに気づいて訝しんだ。

「んん? なぎちー、どうしたん?」

「別にー?」

 もう一度盗み見たら相変わらずあの女はわたしの方を見ていた。



 わたしが波汐なぎさについて知っていることは少ない。

 大学生であること、とにかく友達が多いこと、病室の中だというのに面会時間はいつも化粧をバッチリ決めて、家が金持ちでバイトもせずに遊び歩ける身分、それから、病院に内緒でこっそりと酒を飲んでいるということ。

 面会時間が終わってナースの巡回もまばらになった時間、波汐は袖の中に隠したウイスキーの小瓶に直接口をつけてちびちびと飲んでいた。

「……明乃さんも、一口どうです?」

 目が合うと、ニヤッといつもの笑み。

 ああ、くそう。どうしてこの女は、こうも人の弱みを見つけるのが上手いのだろう。

 断ることができずに、きっと波汐の予想したとおりにわたしは頷いた。

 わたしは足を怪我しているので波汐の方がトトトとベッドまでやってくる。そのまま我が物顔でわたしのベッドに腰掛ける。

 ナースが見ていないのを確認してわたしの口に小瓶を差し出した。別に口まで運んでくれなくても手渡してくれればいいのに、この女はなぜかわたしに手ずから酒を飲ませたがる。

 波汐が瓶を傾けると口の中にスモークの香りが広がった。喉に流し込むと食道がかあっと熱くなった。

「明乃さんはあと一ヶ月? 二ヶ月くらい?」

「……一ヶ月とちょっと」

「私、あと一週間で退院なんですよねー。そしたら明乃さん、寂しくなっちゃいますよねー?」

「いい。断酒するから」

「えー? できるかなあ。無理だと思うなあ」

 ニヤッと笑って波汐も小瓶を傾けた。わたしの方はナースに見られてやしないかといつもひやひやしているのに、この女はいつも飄々としている。前にカーテンを閉じようとしたら、その方が逆に怪しまれるからと止められた。ルール破りの常習者だ。

 幸いにもこの大部屋の住人は今はわたしと波汐の二人だけだから、とりあえずは廊下の方だけを気にしていればいい。

「あーあー。ずっと入院してたいなー」

「何で?」

 思わず聞いてしまった。あれだけたくさんの友達が会いに来るくらいだから、退院したらさぞ充実した生活が待っているだろう。

「だってー、明乃さんにもっと飲ませてあげたいし」

「うるせえ」

「あー、そんな口きいていいんですかー?」

 ふるふるとわたしの目の前で小瓶を揺らす。わたしが素直に口を開けると波汐は嬉しそうにウイスキーを流し込んだ。

「だから、貸してくれれば自分で飲むって」

「それじゃ私にメリットないじゃないですか」

「ああ?」

「明乃さんに飲ませてあげたいんですぅー」

「ちょっと、酒臭いよ」

「えー、そうですかぁ?」

 波汐はポケットからミントタブレットのケースを出すと、手の上でシャカシャカと振って何粒かを口に放り込んだ。わたしのことをじっと見つめていたかと思うと追加のミントを出してわたしの口にも押し込んだ。

「おすそ分け」

 わたしの鼻にミントの強烈な刺激が通り抜けた。

「私、家に帰りたくないんですよねー」

「両親と喧嘩した?」

「というか、喧嘩して窓から飛び降りたからここにいるわけですが」

 波汐が左手のギプスを見せた。

 そういえば波汐と同世代の友達は何人も見舞いに来ている一方で、彼女の両親や親族の姿は一度も見ていない気がする。

「明乃さんってルームメイト募集してたりしません?」

「家出娘を匿う気はない」

「でも明乃さん貧乏ですよね? 私、お金ならありますよ?」

「それは両親のお金でしょ」

「お小遣いいっぱい貯金してるんで大丈夫です。何なら車売ってお金作るし」

「売るな。むしろ貸してくれ車、わたしのはぶっ壊れて今は足がない」

「あ、乗り気だー」

「冗談だよ」

 ふう、と波汐はため息をついた。

 波汐は面会時間が終わるとさっさとメイクを落としてしまう。波汐の友達のうちノーメイクの彼女を見たことがあるのはどれほどだろうか。

「もっかい落ちたらもう二週間くらい入院が伸びないかな。三回落ちれば明乃さんと一緒に退院できるのに」

「死ぬよ、三階から落ちたら、さすがに」

「それか明乃さんがさっさと足を治せばいい」

「おうやれるものならやってみろ」

「キスしたら治りますかね?」

「だったらここのナースがとっくにやってるでしょ」

 はぁー旅に出てえー、とボヤきながら、波汐はミントをいくつも口の中に放り込んでガリガリと噛み砕いた。

「おすそわけ」

 そう言ってタブレットケースからミントを取り出そうとしたが、さっき自分の口に放り込んだのが最後だった模様。

「あちゃー。しょうがない」

 完全に油断していた。波汐は右手をわたしの頬に当てるといきなり唇を重ねてきた。わたしの口の中にミントの欠片が強引に押し込まれる。

「ブッ! おま――何考えてんだ」

 廊下のナースを気にして、押し殺した声で抗議した。わたしの口の中にはさっきのミントが残っていたから、波汐のキスの香りも、新しいミントの香りも分からなかったけれど……。

「うへへ。既成事実」

「何を既成したんだ」

「私、女の子もいけるクチなんですよ」

「たぶん年上だぞ」

「あ、年上好きです」

「もういいから、自分のベッドに戻れ」

「ああ、もう――」

 波汐は大人しくわたしのベッドから降りた。

「今日はちょっと、飲みすぎちゃったかもしれません」

「反省しろ」

「ひょっとして初めてでした?」

「おい気をつけろわたしの両手は折れてないぞ」

 わたしが両手で拳を作ってみせると波汐は手を合わせて引っ込んだ。

「ごめんなさい。本当に飲みすぎちゃったみたいで……。私も今日から断酒します」

「……いいよ。わたしの入院はまだ長いし。ぎりぎりまで飲ませてよ」

 わたしが波汐の方を見ないようにして答えると、

「……はい」

 まだ酔いが残っているみたいな、妙にしおらしい声が返ってきた。


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