黒蛇姫
この国の三人の姫について、「侍女になるならどの姫がいいか」を議論すると、たいていは第一姫と第二姫で真っ二つに分かれる。第三姫を選ぶ子には会ったことがない。わたしも、第一姫と第二姫にはそれぞれ利点もあれば欠点もあり悩ましいところではあるけれど、望んで第三姫に仕えようとは絶対に思わない。
宮廷に勤めるわたしたち女官にとって、姫様の侍女になることは重要なステータスだった。何せ貴人の身の回りの世話を宮廷から任されるということは、その身元を宮廷が保障しているという客観的な証明に他ならないわけで。そういった人材は、侍女の仕事を辞してからも宮廷の内外で引っ張りだこだった。
ただしここで重要になるのは「誰の侍女か」ということだった。第一姫は外交に通じ国王の意を受けて外国を飛び回っている。第二姫は国内の行事に忙しく参加して国民から人気がある。どちらの侍女であったとしても、姫の推薦があれば立身出世は思いのままだろう。
果たして第三姫の顔を見たことがある人はこの国にどれくらいいるだろうか? 下級女官のわたしは宮廷行事のときは下働きで忙殺されているけれど、それでも第一姫と第二姫の顔を見る機会くらいはある。第三姫は行事にはまったく顔を出さないし、第一姫のように外国に行くどころか、宮廷内の自分の屋敷から出たという話も聞かない。
そして私は今日、そんな第三姫の侍女になるという貧乏くじを引かされたのだった。
下級女官として雑用にこき使われる日々にやっとさよならできると思ったら、さよならした先が袋小路の行き止まりときた。わたしはなんて運のない女なのだろう。
三人の姫には宮廷内でそれぞれ専用の館が割り当てられていた。第一姫と第二姫の館に比べて第三姫の館はとても小さい。来客も多い二人の姫に対して第三姫の館には侍女も必要最小限しか詰めていない。まさに宮廷キャリアの袋小路と言えよう。
そんな第三姫に初めてお目通りするということで、わたしは一体どんな変わり者が出てくるのやらと憂いていたら、寝室から出てきたのは姫にはとても見えない、背の小さな痩せた体の少女だった。
「本日より侍女として姫様に仕える者です」
と侍女長が紹介したのを引き継いでわたしは決まりきった挨拶の口上を述べて頭を垂れた。
しばらくそのままの姿勢でいたけど、何も言われないので不安になって顔を上げたら、姫はいつのまにかわたしのすぐ目の前にいて、わたしの顔をじっと見つめていた。
「……あの、わたしの顔が何か?」
「あなた、歳はいくつ?」
「十六になります」
「私と同じね」
そう言って下手くそな笑顔を作った。
「同じ歳の子と会うのはとても久しぶりだから……嬉しいわ」
「恐縮です」
「ふふ。恐縮だって。うふふふ」
姫はこの部屋では一番年上の侍女長を向いて笑っていた。侍女長は笑った気配がない。
初めて会ったときから姫はこの調子で、以降もわたしが仕事をしているところに姫はべったりとくっついて何かとちょっかいをかけてきた。何せ上のふたりと違って第三姫は仕事もないし、館には他に優先してやるべきことも面白いことも何もないのだ……。
「ねえ、あなたの故郷はどんなところ?」
侍女の仕事にも慣れたころ、いつものように姫の相手をしていたら急にそんなことを聞かれた。わたしの故郷なんて特別に面白いところもない。生まれ故郷の場所、気候、家族、両親の仕事、意地悪な兄、生意気な妹の話をした。
「いつか行ってみたいな……」
そして姫は、わたしがどんなに退屈な話をしても、いつだって目を輝かせて聞いてくれるのだ。
「どうせ行くならもっと面白いところの方がよろしいかと」
「あなたの故郷だというだけでどんな絶景よりも面白いわ」
それは褒めているのでしょうか。
「つまらないというのは私の故郷みたいなことを言うのよ」
第三姫は王とは血の繋がりはない。
姫はかつて王が征服した山の国の神職の娘だった。政治的なアレコレの結果として、国王は異国の巫女を養子として迎え入れたのだった。
「故郷では私、ずっと閉じ込められていたから」
「そうなんですか?」
「生まれながらの宿命というやつなの。……まあ、それはここでもあまり変わらないけど。でも色んな人と会えるから退屈はしないわ」
姫はそう言って私に笑顔を向けた。
侍女の仕事を始めてからひと月が経った。
その日は宮廷での行事に人手が足りないということで、第三姫の侍女も多くが手伝いに駆り出されていた。もちろん今回の行事も第三姫は留守番だったけど。
わたしは手伝いには選ばれなかったので、第三姫の館でいつもの仕事となったけど、普段よりも人手が少ないので仕事が長引いた。いつもならもうとっくに自室に戻っている時間だった。
「おつかれさま。今日はもうこれでいいでしょう」
侍女長がそう言うのでわたしはほっとした。
二人で第三姫に声をかけて一緒に館を出たところで、侍女長が奇妙なことを始めた。館の玄関の扉に大きな閂をかけたのだ。
「侍女長、あの……それは?」
「そういうしきたりなのよ」
侍女長の声はいつにもまして冷たい。
「しかし、それでは、姫は外に出られませんが……」
「問題ないわ。姫は外に出ないもの」
そういう問題ではないだろう、とわたしは思ったけど、話を続ける前に侍女長はさっさと立ち去ってしまった。
いつもの館が、今はまるで牢のように見えた。そういえば館の窓には鉄の格子が嵌められていたし、出入口は一つしかない。まるで、最初から第三姫を閉じ込めるために建てられたみたいだとわたしは思った。
そのことに気づいてわたしは腹が立った。
戦争で無理やり連れてきたか弱い姫を、こんなふうに閉じ込めるなんて!
第三姫が人前に姿を現さないというのも、そうなると本人の意思かどうかは怪しい。きっと国王か誰かの命令で、逃げ出さないように閉じ込められているんだ。
その日の夜は、侍女長や彼女に命じた誰かへの怒りと、可哀そうな姫のことを考えてなかなか寝付けなかった。そして心の中で次々に考えが浮かんで、わたしはとうとうひとつの決断に達して部屋を抜け出した。真っ暗な宮廷を歩いて第三姫の館に向かう。
第三姫を閉じ込めている閂は夜の闇を吸い込んでぞっとするほど冷えていた。力いっぱい引っ張ると、ごりごりと金属のこすれる音が響いて、少しずつ閂が動いた。
「姫様……」
扉を開けて、真っ暗な館の中に声をかける。
きっと一人で寂しい思いをしているに違いないと、私は躊躇することなく室内に入った。
そのとき。
闇の奥で何かが二つ、私が背にした夜空の星の、わずかな光を反射した。
それは音もなく近づくと、私がその全貌を見るよりも早く私に巻き付いた。
それは巨大な蛇だった。夜の闇よりもさらに深い漆黒の鱗を纏った大蛇が、館の奥から稲妻のように這い出てきて私の体に巻き付いたのだ。
「ひっ――」
こんなとき、普通の女の子なら悲鳴を上げるのだろうけど。こんな目に遭うなんて想像もしていなかったし、だいいちわたしは悲鳴を上げる練習なんてしたことがない。ぶっつけ本番で上げようとした悲鳴は、間抜けな音程で、まるで何かに感心するみたいなヘンテコな声になった。
ぎゅう、と大蛇の体がわたしのお腹を締め付ける。
大蛇がわたしに顔を近づけてきて、艶めかしい赤色の舌を伸ばしてわたしの頬をチロチロと舐めた。恐怖で身を固くしていると、蛇はいつまでもいつまでもわたしの頬を舐め続けた。
永遠くらいの時間が過ぎたころ、蛇はわたしの体を投げ捨てるように解放すると、出てきたときと同じように、音もなくするりと部屋の奥に消えていった。
わたしは飛び出すように館の外に出ると、慌てて扉の閂を閉めた。
全身の力が抜けて扉にもたれかかった。空はもう明るみ始めていた。
翌日の仕事は寝不足でヘマばかりして侍女長にたくさん怒られた。
もちろん館には蛇なんていない。
あれはわたしの夢だったんだろうか。だけど夢を見たのにこんなに寝不足だというのもおかしな話だ。
館の掃除をしているとき、姫がやってきて二人きりになった。
いつものように軽口を交わしてから、わたしは自分の仕事に専念する。
……姫がわたしのことをじっと見つめているのに気づいた。
気づかないふりをして仕事を続ける。
そうしていたら唐突に、わたしの頬に生暖かい何かが触れた。
「ひやっ!」
いつの間にか姫がわたしのすぐそばに立っていてわたしの頬を舐めたのだった。そして昨夜と違ってそれっぽい声が出せた。
「い、きなり、何をするんですか……」
姫はわたしのことをぼーっと見つめていたが、急に夢から覚めたみたいに表情を取り戻した。
「あら、ごめんなさい。なぜだかあなたの頬を見ていると舐めたくなって……」
そのときわたしは昨夜の大蛇のことを思い出した。館にいたはずの姫様の姿はなく、代わりにいた大蛇。そしてわたしの頬を――。
「私、故郷で修業を始めてから、今まで夢を見たことはなかったんだけど……」姫が唐突に言った。「昨日は久しぶりに夢を見たの。とても楽しい夢。――あなたが出てきたわ。私はあなたに抱き着いて、頬を舐めまわすの。……はしたない夢だから、あなたにしか言えなかったけど。今夜も夢の続きが見られたらいいのに。ねえ、見られると思う?」
「……………………はい。きっと」
「ふふ。あなたが一緒なら、どこに閉じ込められても退屈じゃないわ」そう言って、姫は艶めかしく笑った。「ずっと一緒よ。ずうっと」
まったく、よりによって第三姫の侍女になるなんて、わたしはとんだ貧乏くじを引いてしまったみたい……。
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