第5話 グリーンカーテン

 金森医師は信子の病状について、

「今すぐどうこう、ということはないと思います。見た限りでは何年も前からだんだん大きくなってきたという感じなので」

 と言っていたが、果たして信子は、暑い夏を乗り切って元気に動き回っていた。動けなくなって救急搬送されたのが嘘のようだった。

 街路樹の葉がすっかり黄色くなったころ、昼の休憩時間に事務室を訪ねてきた信子が、例によって、陸を呼びだした。

「あのな、実は悪いねんけど、明日、休ましてほしいねん」

 と言いながら、信子はポケットから小さく折りたたまれた広告を取り出して見せた。それはよく名を聞くクッキング教室の、「無料体験キャンペーン」と書かれた新聞折り込みチラシだった。

「へえ、クッキング教室。どうしたんですか。これに行きはるんですか」

 と陸が尋ねると、信子はその紙を指さして説明し始めた。

「ほら、これ、無料体験って書いてあるやろ。これに行ってこよと思ってんねん」

 漢字の読み書きが苦手な信子だが、「無料」という字には飛びつく。さすがは大阪のおばちゃんである。それを聞いて陸は、

「なるほど。でも花岡さんって料理の腕前抜群ですやん。それ以上腕磨いてどうするんです。大体、無料体験だけやったら大したことできへんのんちゃいますん」

 と突っ込んでみた。信子はやれやれ、という風に続ける。

「陸ちゃん、話はちゃんと最後まで聞かなあかんがな。よう見てみ、これ。無料体験で、ケーキ作らせてもらえるって。ウチ、おかずは作れるけど、ケーキなんかは作ったことないねん。第一、道具もあれへんからな」

「へえ、ケーキですか。これからお菓子作りに挑戦しようと思ってはるんですか。さすが花岡さん、前向きですねえ」

 今度は少々お世辞も含めて持ちあげてみた。我ながら、軽薄な返しだとは思う。すると信子はあっさり、

「そんな辛気臭いこと続けられるかいな。ただでケーキ作らしてくれるっていうから行くだけや。明後日は洋介の誕生日やろ。そやからケーキの一つも食べさしたろ、思てな」

 と言った。

「え、田村君の、誕生日?」

 意外な返答に陸はちょっと面食らった。田村洋介、というのはワークセンターわかばの最年少のメンバーだが、信子が孫の様にかわいがり、何かと世話を焼きたがっている相手である。

「十二月一日やがな。なんや陸ちゃん知らんのんかい」

 と信子は眉をひそめる。

「い、いや、知らんことはないですよ、そら。でもほら、個人情報やし、そこらへんに張り出してあるわけでもないし」

 そういえば田村洋介の生年月日はそのころだったかな、と台帳にある情報を思い出しながら、ふと陸は、信子が「誕生日」と言ったその彼の生まれ日について、自分は「生年月日」という書類上の情報として認識している、ということに気が付いた。

 利用者と共感的に関わり、共に歩むのが支援者のあるべき姿、などと日頃後輩たちにも当たり前のように話してはいるが、いつの間にか管理的、業務的になってしまっている自分に気づかされる。

 二日後のその、田村洋介の誕生日。信子が無料体験で作ってきたというチーズケーキは思った以上にしっかりできていて、ワークセンターわかばの昼休みは、彼の誕生日会として大いに盛り上がった。

 キャンドルがなかったので、若い職員が事務室に置いてあったカメヤマのろうそくを持ち出してきて、横に立てた。なんだかおかしな具合だが、それでも電気を消してハッピーバースデーを歌うと、とりあえずはそれらしくなる。

「やっぱりろうそくがあったら雰囲気出るな。ルミナリエみたいで、きれいや」

 信子がその火を見て、言った。

「ルミナリエって、えらいまた洒落たところ連想しましたね。行ったこと、あるんですか」

 思わず陸は尋ねた。

「そうや。ウチ、ルミナリエは最初の時からずっと毎年行ってるねんで。今年も行こ思ってるよ」

 と信子は澄まして言う。知らなかった。陸自身は、一回行ってみたいなあと思いながら、結局まだ行ったことがないままだったので、その行動力に驚かされる。

「あれってすごい人ごみなんでしょう。大丈夫なんですか。それにここからやと結構遠いし」

「まあな。そやから帰ってくるのん、いつも夜中や。すごい人で一方通行になってるから、見落としたらそれまでやしな。それでもちょっと通りを外れたら、土産なんかも売ってるし、色々買い物もできるで。ほら、これ去年買うたもんや」

 とわざわざロッカーまで行って鍵を取り出してきて見せた。様々なキーホルダーが統一性も何もなくたくさんついていたが、そのうちの一つは小さなドーム型のプラスティックの中に、よく見る光のアーチを金でかたどったルミナリエのグッズのようだった。

「僕もいっぺん行ってみたいと思いながら、結局まだいっぺんも行けてないんですけど、元気ですねえ」

 と陸が感心しながら言うと、

「ウチにはな、来年行けるっていう保障はあらへん。あちこち行くのは、いつもそう思ってるからや。これが最後のチャンスかもしれん、て思たら、じっとしてられへんねん」

 と信子。なるほど。やっぱりこの人は達人だと陸は思った。


 その日、帰宅して夕食を食べながら、陸は妻の智子に言ったものだ。

「あのさ、年末の休みの時、USJに行こうか」

 テレビのコマーシャルを観て、娘がずっと行きたいと言っていた。いつか連れて行ってあげような、と言いながら忙しさにかまけて先延ばしになっているのだが、信子の言葉を聞いて、これじゃいつまで経っても変わらんなと思ったのだ。智子は、

「うん、行こう。よかったねえ、パパがユニバに連れて行ってくれるって」

 と娘に向かって語りかけ、陸に

「パパ、ちょっと変わったねえ。そのおばあちゃんの影響なのかしら」

 と笑って見せた。


 ワークセンターわかばは、大きな川の堤防沿いに建っている。一日の活動を終えてメンバーたちが解散した後、陸は夕暮れ時の堤防の上でぼんやりと光っているように見える桜を見ながら、異動して来てからのここ二年のことを、なんとなく振り返っていた。

 日が傾くと何故か静かさが際立ち、遠くの方で橋を渡る電車の音が聞こえている。ゴロゴロ、ゴロゴロ……。いや、おかしい。電車の音じゃない。この音は……。

「りい~くう~ちゃ~ん……」

 背後から聞こえたかすれ声に振り返ると、小さな人影が大きなキャリーバッグらしきものを引きずっている。髪を振り乱し、ゼイゼイ言いながら歩いてくる姿は、山奥で包丁を研ぐ、あの有名な昔話のキャラクターに見える。思わず出そうになった悲鳴をぐっと呑み込んで、陸はかろうじて言った。

「……花岡さん、どうしたんです」

 今日は活動の予定の日ではなかったので、昼間は姿を見せなかった。こんな時間に、どうしたのだろうと思ってよく見ると、ひきずっているのはいつものキャリーバッグではなく、荷物を運ぶためのキャリーカートで、大きなビニール袋に入った園芸用土が四つほどくくりつけてあった。

「あーしんど。重たかったなあ、さすがに。これな、土や」

「いや、土らしいということは大体分かるんですけど」

「とにかく降すの手伝ってや。ウチこれ以上、無理や」

 そういうと、とりあえず信子は座り込んでしまった。

「あーしんど。死ぬかと思ったわ」

 冗談になっていない、と思いながら陸は丸椅子を持ってきて座らせた。

「無茶せんといて下さいよ」

「どうするんです。どこに降ろすの」

 信子がワークセンターわかばの事務所側の窓の方を指さしながら、

「とりあえず、そのへんに置いて」

 と指示をする。陸はなんだか分からないまま、とりあえず従った。土を降ろして運び終わったのを見届けると、信子はさっさとカートを片づけて、

「それ、そのまま置いといてな。ほんだらまた、明日な」

 と言って帰って行った。

 信子は翌日も謎の運搬をしてきた。ただ翌日の荷物はプランターやらネットやらの軽いものばっかりで、前日ほど大変そうではなかった。そうして余裕を残した信子の指示のもと、陸は並べたプランターに昨日の土を入れる作業を手伝う事になった。

 ワークセンターわかばは南に向けてランチショップの入り口を構えているが、メンバーたちやスタッフたちが出入りする、就労支援事業所としての出入り口は東側に設けてあり、ドアの両側はガラス張りになっている。そのガラスの足下に、プランターは並べられた。そしてさらにその翌日、信子はやはりキャリーカートに積んで持ってきた苗を、植えていった。

「それ、何なんですか」

 陸は何の説明もなく勝手に進められていく作業に少々あきれながら尋ねた。

「これはな、ゴーヤや。ウチの家で採れた種を苗にしたんや。夏には、日よけがでけて涼しいで。実も一杯取れるから、お弁当のおかずにして出してもええしな」

「いやでもこれ、土とかプランターとか」

「ええねん。ウチの趣味やから」

「……」

 言い返す言葉もなく、そうしてワークセンターわかばの入り口はちょっとした花壇のようになった。


 春が過ぎて梅雨に入り、信子の体調は悪くなっていった。わずか二ヶ月くらいの間に肺炎を起こして三回、入院した。三度目の入院は、長引いた。金森医師の言葉通り、いよいよ病気が進んで来たようで、目に見えて弱ってきている。さすがの信子も参ってきているようで、眠っていることが多い。痛みのために夜中も目が覚めてしまうと言っていたから、余計だろう。その姿を見るのはつらかったが、家族のいない信子のことでもあるので、できるだけ、せめて自分が会いに行ってあげよう、と陸は決めていた。

 ある日、面会に行くと、一人の老人が面会に来ていた。陸が短く自己紹介をすると、老人は恐縮したように丁寧にあいさつを返してきた。

「花岡信二、と申します。姉の信子が、お世話になっているそうで」

 記録に存在だけが書かれていた、弟のようである。信子がようやく連絡をとったらしい。苦しげな息をしながら眠っている信子をしばらく一緒に見つめていた。ここのところ、散髪にも行けていない信子の髪は随分伸びていて、ちょっと人相が変わってしまったように見える。やがて信二は、静かな口調で、姉である信子のことを語り始めた。


 姉とは五つ違いでして。私は戦時中に生まれたんですが、生まれてすぐに父親は出征して、そのまま戻りませんでした。ですから、私は父親の顔は知りません。その代わり、姉がよく話をしてくれました。何とか父のイメージを残してやろうと思ってたんでしょうね。

 家は泉南の方で玉ねぎなんかを作ってる農家でしてね。姉は赤ん坊の私を背負って、母の手伝いをしていたんだそうです。わずか五歳ですよ。本当に苦労したんだと思います。姉は多分、学校にはほとんど行ってなかったはずです。

 本当に貧乏をしていましたけど、そんな中でも、私だけはちゃんと小学校に行かせてもらいました。確か私が四年生か五年生くらいのころでしたか、姉は就職して家を出て行きました。ただその後、結婚したけれどもほどなく婚家を飛び出してしまったらしくて。しばらく連絡も途絶えたんです。

 けれども、私が中学校にあがってしばらくした頃、突然連絡が入って、心配かけたな、もう大丈夫や、と言いながら、仕送りをしてくれるようになったんですよ。私はそのおかげで何とか大学まで行かせてもらって、今の生活ができています。実はね、ほんの二、三ヶ月くらいまで、仕送りは続いてたんです。

 

 そのあたりまで話すと、信二は声を詰まらせた。

「……もちろん、何度もやめてくれって言いましたよ。けどもこれで勉強しいや、とか、結婚資金の足しにしいやとか、……子どもできたらできたで何かと物入りやろうから、とか。ほんまにね、姉は……姉ちゃんは、私のために、生きてくれたみたいなもんなんです」

 陸は、エアコンの買い替えを勧めても信子が頑として聞き入れなかったことを思い出した。信子の暮らしは、陸の目から見ても、極めて質素なものだった。実は、弟にずっと仕送りをしていたとは。しかも、それを誰にも言わずに、そんな仕草は一切見せずに、続けてきたのだ。姉ちゃん。そう言って信子を見る信二の目からは涙が止めどなく、流れていた。

 二人してしんみりしていると、信子の目が突然開いた。

「人の枕元で、なに辛気臭い話しとんねん。信二、いらんことは言わんでええ。ごめんやで、陸ちゃん」

 信二も陸も、かなり驚いた。

「ああ、びっくりした。姉ちゃん、脅かさんといてよ。心臓止まるかと思ったわ」

 と信二が言うと、

「あほ、心臓が止まりかけとんのはウチの方や。しっかりせんかい」

 痰が混じってゴロゴロという音はしていたが、苦しそうな寝息をたてていたのが嘘のように、きびきびとそう言って、信子は陸と信二を見た。それから、これまで見たこともなかったほどのやさしい目で、

「ふたりとも、おおきに」

 と言って、再び目を閉じた。


 信子はそれから幾日かして、そのまま病院で息を引き取った。質素な葬儀の後、ワークセンターわかばの皆も涙で顔をくしゃくしゃにしながら、棺の中に眠っている信子に別れを告げる。それぞれに、

「信子さん、長い間ご苦労様でした」

「花やん、ありがとう」

 思い思いの言葉をかけながら、好きだったお菓子や花など、思い思いの品物を手向けていった。

 陸は、以前所長の森田から、

「病気以外の部分をしっかり見るように」

 と言われたことを思い出していた。もちろん理屈ではよく分かっているつもりだったが、専門職であろうとして力むあまり、かえって当たり前の姿が見えなくなってしまっていた。信子の生き様はそんな陸の肩の力を、自然と抜いてくれていた。気が付けば、専門家と利用者というより、仲間、というに近い関係になれていたような気がする。手向けにと、大好きだったたばこをひと箱、胸元近くにそっと置いた。

 その様子を見ながら、弟の信二が陸にそっと包みを差し出した。

「これ、姉がずっと病室で大事に持ってやったんです」

 開けてみると、例の漢字ドリルだった。ほとんどすべてのページが、ミミズののたくったような字で埋め尽くされている。あれから一年をかけて、完成させていたのだろう。新品だったものが、くちゃくちゃになっている。ずっしり、重みさえ感じさせた。ページをめくり、懐かしいその文字を見ながら、陸は最後のページに目がいった。乞われて書いた自分の名の横に、それを真似て大きく書かれた「陸」の字。いつの間にかその下に「ちゃん、ありがとう」という文字が続けて、書き加えられていた。

「陸ちゃん、ありがとう」

 信子からの最期のメッセージだった。見た瞬間、こらえきれなくなった涙が、陸の両目から流れ出した。泣くまい、と決めていたのに。どうしても止めることができなかった。そのまま、ドリルをたばこの横に添えた。

「花岡さんは、僕にとっては、師匠でした。大切なことをたくさん教えてくれて、本当にありがとうございました」

 それ以上はどうしても、言葉にならない。陸は棺の中に眠る信子に向かって、深々とお辞儀をした。


 信子を見送った後、皆で一緒にワークセンターわかばまで歩いて戻った。すっかり、梅雨が明けて、抜けるような青空が光っている。入り口には、春先に植えた信子のゴーヤが、漸く日差しを遮る大きさに育ちつつある。これから、日差しの厳しい季節がやってくることになるが、陸には、その葉の一枚一枚が、自分たちを守ろうと手を広げている、信子の掌のように見えた。

 はたをらくにする。「はたらく」とはそこから来たのだ、と何かで読んだことがある。そういう意味では、信子の生き方は、ただしく「はたをらく」にしていたといえるだろう。

 そういえば、信子のアクティブさに倣って、決意した通りに年末に娘をUSJに連れていくことができた。そのことをふと思い出した陸は、ゴーヤのグリーンカーテンに向かってそっと、「お師匠さん」に報告した。蝉が競うように精一杯、鳴き始めていた。

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花やんの漢字ドリル 十森克彦 @o-kirom

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