第4話 四天王寺さん

 信子は、とにかくあちらこちらに精力的に出かける。ほぼ毎週のように、どこそこの公園に何の花が咲いていたとか、どこそこのスーパーでバーゲンをしていたとか、どこで情報を仕入れるのだろうと思うくらい、何かしら理由を見つけては出かけている。それも、誰かと一緒ではなく、ほぼ単独で行く。肺癌と診断を受けてもそれは一向に変わらない。

 その中でも毎月欠かさずに行くのが四天王寺である。それも決まって二十二日。聖徳太子の命日にちなんで太子会という縁日のようなものが行われているそうで、それこそ何年にもわたって、通い続けているらしい。

 骨董から植木まで、様々な屋台も出ているとのことで、結構色んなものを買ってきては見せてくれる。曜日に関わらずなので、二十二日はワークセンターの活動があっても、必ず休んで出かける。陸も縁日は好きな方だが、毎月となると到底かなわない。

「ほんまに好きなんですねえ。毎月行ってて、あきてきませんか」

と言ってみたことがあるが、信子はにっこり笑って、

「楽しいよ」

 とだけ答える。何故だかそのことだけは、それ以上は話そうとはせず、あまりしつこく聞くと怒り出すので、周りのメンバーたちも触れないようにしていた。

 まだまだ暑さ真っ盛りの、八月の二十二日にもやはり前日に、

「明日な、四天王寺さん行くから休ましてもらうわな」

 と言ってきた。このところ信子は体調もあまり良くなさそうだったので、陸は少し心配で食い下がってみた。

「休みはるのはいいんやけど、この暑い中でどうしても四天王寺さんまで行かなあきませんか。熱中症で倒れたらどうするんです。一回くらいお休みしたかて、ええんちゃいますか」

 すると信子はいつになく真剣な顔で、考え込み、

「ちょっとこっちで話、ええか」

 と例によってすたすたと面接室に入って行った。陸が後をついて入ると、さっさと座って、目を閉じて腕組みをしている。その様子から、陸は信子が話し出すまで、待とうと思った。というより、声をかけられる雰囲気ではない。そのまましばらく沈黙の時間が流れてから、

「そら仕事やもんな。毎月さぼって遊びに行ってる、言うのはまずいわな。……ほんまは誰にも言わんとこと思ってたんやけど、陸ちゃんにはちゃんと理由説明するわ。でも、できたらここだけの話にしてくれるか」

 陸はただ信子の体のことを心配しただけだったが、思いのほか、事情がありそうなところに踏み込んでしまったことに気づき、今更ながら背筋を伸ばさざるを得なかった。面接室の外では、他のメンバー達が口々にあいさつをして帰っていくのが聞こえた。


 遊びに行くのに理由あるんかって? そやからちゃんと説明するて。あのな、ウチが毎月四天王寺さん行くのはな、縁日楽しみにしてるだけとちゃうねん。陸ちゃん、山田先生って知ってるか。そう、精神科のお医者さんやってんけど。ああ、そうか、陸ちゃんが来たときにはもういてはらへんかったか。山田先生ってな、ウチがはじめて精神科に来たときの、主治医やったんや。二十二日いうんは、あの先生の命日やねん。

 あの時のことは、今でもはっきり覚えてる。その頃は安いスナックで働いとってな。毎日お客につきおうて酒浸りや。もともと旦那の暴力から逃げ出してきたもんやから、ちょっと客同士の喧嘩なんかがあるともう、怖くていてられへん。すぐに辞めては店を替えるっていうのを繰り返してた。

 自分自身も酒に逃げてたんやろな。そのうちお化けが見えたり怒鳴り声が聞こえてきたりしてな。大体が旦那の声で、ウチの悪口言いよんねん。そうなるともう恐ろしいからグラスやら灰皿やらを投げつけて。当然、追い出されるわな。何回も店替えて。だんだんそれがひどなって、ウチもう死ぬんやろうなって思った。

 ある時、開店準備中の昼間にも起こってな。たまたまその時の店のママがええ人やって、放り出したりせんと救急車呼んでくれて。ほんで病院に連れてきてもろたんや。

 診察室に入って、怒鳴りたくってるウチの話を、山田先生はそうか、そうかって聞いてくれてな。ほんで最後に言わはったんや。つらかったなあ、こわかったなあって。もう大丈夫やでえ、僕が守ったげるからって。ウチ、思いっきり大声で泣いたんや。小さい子供みたいに。あんな風に泣いたんは、多分初めてやったと思う。


 意外な名前が出てきたので、陸は少々驚いた。山田医師のことは、直接は知らない。精神科医局に飾ってある写真で見たことがあるくらいだ。禿頭でひげ面、といういかつい顔つきだが目だけは二重で可愛らしく、そのアンバランスが結構印象的だった。

「花岡さんが初めてこの病院に来はったのって、いつ頃の話ですか」

「そうやなあ、ウチがまだ四十ぐらいの頃やったから、やっぱり四十年ぐらい前になるかな。柔道やってはったからごっつい体しててな、よっしゃよっしゃ、言いながら、いつもゆっくり話聞いてくれてたなあ。ごんた言うてる患者も、あの先生が来てくれただけで大体が落ち着いて、おとなしゅう話きいてもろてたわ」

 そういえば、森田も若い頃、色々と相談に乗ってもらったと言っていた。じっと目を見ながら話を聞いてくれて、大抵は言葉少なに

「ええんとちゃうかなあ」

 とか

「もうちょっと待ってみたらどうかなあ」

 と簡単に返してくる。理屈はほとんど聞いたことがないが、山田先生に話すと妙に安心できるという風に感じられたものだと、森田が言っていたのを思い出した。

「確か、病気で亡くなりはったんですよね。僕が就職するより前やから、十年くらいにはなるんかな。で、その命日と四天王寺さん、どう関係してるんですか」

 陸は、目の前でしんみりと話している信子のいつにない真剣な表情を見ながら、自分が間抜けな質問をしていることは自覚していたが、どうしようもない。信子はまた目を閉じて少し沈黙してから、再び話し出した。その目は、遠い記憶を手繰り寄せようとしていた。


 ウチは戦争中に生まれてな。お父ちゃんは兵隊にとられたまま帰ってけえへんかった。小学校に上がってすぐのことやった。生まれたばっかりの、五つ下の弟の面倒も見なあかんかったし、お母ちゃん手伝って畑仕事もせなあかんかった。泣いてる余裕なんか、なかったんや。

 中学には入るだけは入ったけど、ほとんど行ってない。それでも卒業証書はもらえたんやで。卒業してすぐ、じゅうたんを作る工場にな、住み込みで働きに出たんや。工場長は亡くなったお父ちゃんの知り合い、言うてた。

 しばらくしてな、その工場長の世話で見合い結婚したんや。甥っ子や、言うてた。はじめのうちだけは良かってんけどな。酒が好きな男で、そのうち昼間から飲むようになってな。飲んだら人が変わりよんねん。ウチいつも怒鳴られて、殴られてた。このままやったら、こいつに殺される思てな。逃げ出したんや。親と工場長の関係もあるから、家にも帰られへんしな。

 住むとこもないし、仕事もない。じゅうたん工場の仕事の他は、畑仕事の手伝いくらいしかやったことないから、雇ってくれるとこもなかなかあれへん。他の仕事しよう思ても、保証人とかなってくれる人もおらんかったし、学校もろくに行ってへんかったしな。それで水商売っちゅうことになったんや。悪いことばっかりやなかったんやろけど、覚えてんのはろくでもなかったことばっかりや。色んなことがあったで、ほんまに。

 さっきも言うたようにそれで病気になって、病院に来たんやけど、山田先生の前で泣くだけ泣いたら、ちょっと安心したなあ。それからも色々あったけど、あの時、山田先生に命助けてもろたんや。はじめは精神科の病気になって入院して、とうとうえらいとこに来てもうたと思ったけど、安心して暮らせるようになったん、ようやくそれからやもんな。普通はつらい経験や思われんねんけど、ウチの場合はそこではじめて、ほっとすることができたんや。

 そやから先生が亡くなったときには悲しかった。お葬式に行きたいと思ったけど、患者さんは遠慮してくださいって言われたんや。まあ、そらそうやな。山田先生の患者が皆お葬式に行ったら、とんでもない人数になってしまうもんな。

 それで、お葬式に出る代わりに四天王寺さんにお参りに行ったんや。山田先生亡くなったのん、聖徳太子と同じ二十二日やろ。ウチも行って初めて知ってんけど。こら何かの巡り合わせやなあって思て。それから月命日に供養のつもりで四天王寺さんに行くことにしたんや。


 話しながら、信子の目は少し潤んでいた。そんな姿は初めて見た。山田医師のことを思い出していたのか、それともつらかった自身の生活のことを思い出していたのか。信子は、自身のそんな過去のことを、これまで一切話さなかった。陸は、信子がそんな事情を背負って十年もの間、毎月の太子会に行っていたのか、と言葉もなかった。

 しかも、そんな深刻さを微塵も見せないで、まるでお楽しみででもあるかのように振舞っていた。陸はその懐の深さに圧倒され、返す言葉を見つけられなくなってしまった。

「言わんでもええことまで言うてしもうたわ。聞き流しとってな。そんなわけで、すまんけど二十二日、休ませてもらうわな」

 陸の側に、否やのあるわけがなかった。


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