第3話 花やんの漢字ドリル

「陸ちゃん、ちょっとええか」

 復帰からしばらくして、弁当販売のランチショップの閉店後に、信子が陸を訪ねて事務室にやってきた。何事だろうと思いながら出ていくと、すたすたと歩いて、さっさと面接室に入っていく。いつも持ち歩いている、コマ付きのショッピングカートをごろごろと引いているので、帰る準備は整っている感じだ。

 どっちが職員なのだか、分からない。堂々と歩く信子について行く自分のことを客観的に見て、なんだか、陸の方が信子にお呼び出しをくらったような恰好になっているな、と思い、やや面白くない。いつも信子のペースに引きずられている自分にもどかしさも感じるのだが、どうしようもない。なにしろ相手は、この道三十年という所長の森田が就職したころには、すでに病院にいたというベテランである。

「あんな、ちょっと見てほしいもんがあるねん」

 面接室に入るなり、信子がショッピングカートから取り出したのは、駅前の書店の紙袋だった。

「なんですか、それ」

 陸がのぞき込むと、少々意外なことに、あの信子が照れ臭そうに躊躇している。まさか、十八歳未満お断りの関係か、と勝手に想像して陸まで恥ずかしくなる。ところが、信子がそっと取り出して見せたのは、小学校一、二年生用の、漢字ドリルだった。色んな例文やイラストもあって、結構分厚い立派なものである。ペースに引きずられるだけではなく、信子の言い出すことそのものが基本的に陸の想像を超えていることが多い。少なくとも、精神保健福祉の教科書には載っていない。

「漢字ドリル、ですよね。……お孫さんにでもあげるんですか」

 と聞いてから、信子は確か独り身ではなかったかと思い直した。信子はそのドリルをじっと見ながら、

「こないだ、ミーティングでな、ウチが司会の当番やったさかいに、決まったことを黒板に書こと思たんや。その時、若いめんばの子がな、花やん、漢字書かれへんやろ、代わりに書いたるわ、って言いやったんや」

 その場面は陸も覚えている。

「いやあ悪いなあ、おおきに」

 そう言いながら、信子はその若いメンバーに、にこにこしながらチョークを渡していた。助け合う姿に、一同ほのぼのとした気分になったものだ。

「あの時な、ウチほんまは悔しかったんや。料理の仕事している時は同じめんばとしてやってるのに、ごまめ扱いされたて思てな。まあ、今にはじまったことやないねんけど、あんな若い子に言われたらな」

「そ、そんな風に思ってはったんですか」

 陸は、頭から水をぶっかけられた気持ちになった。そんな風には少しも見えなかった。

「いやあのな、被害妄想ちゃうで。あの子に意地悪な気持ちがあったとも思ってへん。ウチ学校ほとんど行かれへんかったやろ。そやから、漢字ほとんど読み書きできへんねん。まあそれでもしゃあないわ、思てたんやけど、やっぱりそれはウチにとっては大きいねん。陸ちゃんら、ちょっと分からんと思うけどな」

 一言一言をかみしめるように、うなずきながら話す信子の表情は真剣そのもので、やや八の字の形になった眉が、少し悲し気に見えた。悔しかったんだ。そんな気持ち、考えたことも想像したこともなかった。陸は、またしても自分の未熟さを思い知らさて、信子には分からないようにそっと自分の太ももをつねった。

 かけるべき言葉を見つけられないでいると、少しの沈黙の後、信子は顔を上げて陸の顔を見上げた。

「ウチ、今からでも漢字の勉強しよ、思てん。どれがええんかも分からんから、本屋の姉ちゃんに一応相談して選んでもろてんけどな。陸ちゃんはこの本、どう思う」

 そういう信子の顔には先ほどの悲し気な様子は消えていて、頑固で気丈ないつもの、つり上がり気味の眉に戻っていた。

「ということはこれ、花岡さんが使うんですね。勉強するんですか」

 陸は信子の台詞を反芻しながらぱらぱらとページをめくり、鉛筆をなめなめ漢字の勉強をする信子の姿を想像した。

「そうや、ウチが勉強するんや。どうや、この本。これ見て勉強したら、漢字書けるようになるか」

 信子の表情は真剣そのものである。ミーティングの司会はメンバーたちの持ち回りになるが、ひらがなしか書けない信子は、これまでも黒板に書く必要がある時には他のメンバーに交替してもらっていた。そのことで誰も、信子を咎めたり、馬鹿にしたりすることはないと思うのだが、信子自身は気持ちの中でわだかまりを感じ続けていたということか。来年は八十にも届こうかという年齢で、小学校で習う漢字を一から覚えていこうというのである。専門職のくせに勉強が好きではない陸は、そのエネルギーに舌をまきながら答えた。

「これはきちんとしたドリルですね。説明や例文もしっかり書かれているから、ゆっくり読みながらやっていったら、いい勉強になると思いますよ」

 と陸が答えると、信子の顔がパッと明るくなった。

「ほんまか。陸ちゃん、ありがとう、おおきに」

 信子は珍しく、頭を下げた。

「分からへんこととかあったら、聞いてくれたらいいですよ。ちょっとくらいやったら、お手伝いできることもあるかも、です」

 思わず、陸は言ってしまっていた。すぐに、ニコッと笑った信子の表情を見て、もしかすると、陸にそう言わせることが狙いだったのではないだろうかと気づいた。思うつぼにはまったのかもしれない、と考えたが、後の祭りである。一枚どころか、何枚も役者が上というところだろうか。

「陸ちゃんの陸、言うのはどんな字書くんや。どこに出てくるん」

 と問われたが、確か三年世か四年生くらいに習った記憶がある。多分、このドリルには載っていないと思う、と答えると、信子は、

「ちょっとここに書いてみて。」

 と一番最後のページの余白を指して言った。陸が応じると、

「うーん、難しい字やなあ。どないなってんねん」

 と言いながら、信子も見よう見まねで隣に「陸」と書いた。細かいところがうまく書けないのでどんどん大きくなって、バランスはなかなかすさまじいが、一応字としては合っている。

「これでええか。まちごうてないか」

 不安げに陸を見る信子に、

「大丈夫、しっかり陸、って書けてますよ。大きいから、大陸、ていう感じやね」

 陸としては精いっぱいのジョークのつもりだったが、信子には通じず、無視。

「ところでな、この本、どうやって使うもんなんや。眺めてるだけではちっとも分らん。陸ちゃん、悪いけど、最初の方、おせてくれへんか」

 やっぱりそう来たか。どうもこの人には敵わない。それから陸は、学生時代以来数年ぶりに、一時間ほど家庭教師をすることになったのだった。


 夏になっていた。退院してきてから、出席予定の日には欠かさずに来ていた信子が、ある日、姿を見せなかった。どうしたんだろう、と皆が心配していると、昼前になってようやく本人から電話が入った。

「ちょっと風邪ひいたみたいやねん。悪いけど、休ましてもらうわ」

 とか細い声の上に、言葉の合間でひどくせきこんでいるのが聞こえる。金森医師の説明では、信子の病気は、肺炎を繰り返して徐々に体力が失われていく、とのことだった。だから、お大事に、とは伝えたものの、心配になった。食べ物や飲み物は、どうしているのだろうか。翌日になってもやっぱり姿を見せなかったので、陸が様子を見に行ってみることになった。

 地図を頼りに登録された住所を訪ねてみると、結構細い路地が入り組んだ先で、不意にちょっと広くなったところがあり、四軒ほどつながった長屋が向かい合って建っていた。住所の地番はその、都合八軒全部を指しているらしく、部屋番号のようなものはなかった。

 表札を頼りに探すしかなかったがそれらしいものもほとんどなく、中ほどに一軒だけ、なにやら文字が書いてある板状のものが玄関の上に掲げてあった。よく見ると、恐らくかまぼこ板か何かで、マジックで「はなおか」とだけ書かれてあった。

 そしてその家の前にだけ、植木鉢やプランターが並べられていて、どれもしっかり手入れされているのか、青々と茂っていた。とりわけそのうちの三つほどの、連ねて置いてあるプランターには支柱が何本も立っていてその上から網がかぶせてあり、玄関の横に突き出した窓の格子につながっていた。そしてその網一面に、見事に茂った葉の間には、見覚えのあるずんぐりむっくりの緑色の実がたくさん生っていた。

「こんにちは、花岡さん。丸山です、具合はどうですか」

 玄関の引き戸を少しだけ開け、隙間から声をかけると、少し間を置いて奥の方から、ゴホゴホと咳の音が聞こえてきた。結構痰が混じっているようで、苦しそうである。

「……ああ、陸ちゃんか……悪いなあ、来てくれたんか……」

 と先日よりもさらにか細い声が答えている。

「ちょっとお邪魔しますね」

 と言って引き戸をがらりと開けると、二間続きになっている奥の方の部屋に寝ているらしく、布団から起き上がろうとしている姿が見えた。

「起きなくていいですよ、そのままで」

 陸は言いながら靴を脱いで、もう一度、

「お邪魔しますね」

 と言って部屋に上がった。閉め切ってあった室内はかなり、暑い。

「夏風邪こじらせてしもてな、ごめんやで。迷惑かけるなあ」

 と気弱そうに信子は言った。少し距離をおいて腰を下ろしながら、

「具合はどうですか。食事なんか、どうしてはるの」

 と陸は尋ねた。

「昨日はな、昼におかゆさん作って食べてんけど、あんまり食欲ないからなあ。それから食べてへん」

 切れ切れに答えると、信子はしばらく目を閉じた。食べていない、というのはまだ大丈夫としても、水分をとっていないと脱水にもなる危険がある。陸はそのあたりも心配になった。

「熱はあるんですか。お医者さんに行かないと……。それに食べる物も何とかせんとあきませんね」

「いや、熱はもうほとんどないねん。もうちょっと寝てたら大丈夫や。食べ物も、今は食欲ないだけやから……そやなあ、アイス、食べたいなあ」

「アイスですか、買ってこようか?」

「ばにらがええな」

 待っていたかのように、間髪を入れずに信子が言う。例によって、思うつぼなのかなとも思ったが、ちょっとでも何かを口に入れたい、というのはいい傾向だ。陸は早速近くのコンビニに走ることにした。

 来た道を逆にたどって、路地を抜け、大通りに出てコンビニに向かう。そのあたりまで来ると人の往来はそれなりにあったが、信子の家の周辺では人影は見られず、代わりに蝉がかしましく鳴いていた。


「おおきに、ありがとうな。ああおいしい。陸ちゃんも一口食べるか? いらんか?」

 嬉しそうにアイスをほおばりながら、信子は少し元気を取り戻したように見えた。相変わらず咳はしているが、声がしっかり出ている。場合によっては救急車を呼んで病院に連れていくことも考えていたが、この分なら大丈夫そうだ。会話もしっかりできているので、陸も少し安心した。

「このあたりは静かなもんですね」

「この長屋、住んでんのはウチと端っこのおっちゃんだけになってしもたからな」

 それにしても、暑い。陸はすでに汗でびしょ濡れである。

「暑くないですか」

「まあ、暑いなあ。クーラーはあんねんけど、見ての通り古いからなあ。ウチがこの家借りたときに元からついてたやつやから。つけても音がうるさいだけで涼しなれへんさかい、扇風機だけや」

 確かに、相当に年代物らしきエアコンが壁についているが、ほこりまみれでその上に煙草のやにがついて、元が何色だったのかもよく分からない。

「エアコン、買い換えたらええのに。あんまり暑かったら体に悪いですよ。最近は小さいやつやったらだいぶん安くなってますよ」

「いや、ええねん。そんな金ないしな」

 元からついていたということは、信子は自分でエアコンを買ったことはないのかもしれない。今の相場を知らない可能性もあると思って、陸は

「花岡さん、エアコンいくらくらいなのか、知ってはります? 最近のんは花岡さんが思ってはるより多分一桁安いですよ。なんやったら一緒に買いに行こうか」

 と続けてみたが、

「ウチら、そんな贅沢いらんねん。扇風機かて結構涼しいで」

 と頑なな様子を見て、陸はまた後日に話すことにした。これ以上ねばると怒り出しそうな雰囲気である。

「ところで表の野菜、花岡さんが育ててはるんですか」

 と話題を変えてみた。

「そうや。なかなか立派やろう。ナスにキュウリにピーマン、それからゴーヤ。夏場はあれでゴーヤチャンプルばっかりや」

「上手にやってはるんですね」

 と向けると、信子は少しあごを上げ、得意げに、

「ウチは農家の娘やからな。土いじりは生まれた時から仕込まれとる」

 と言った。

「ああ、そうや。陸ちゃん、悪いけど、帰りにその植木鉢に水やっといてくれへんか。それとそろそろ収穫せんと熟れ過ぎてしまうから、ええ感じになってるゴーヤ、獲ってきてくれへんか」

 と付け加えられると、やっぱりうまく使われているなあと思ってしまう。仕方がないので玄関に出て、立派に膨らんだ実を五つほど摘んで部屋に持って入った。すると今度は

「台所の冷蔵庫の上にな、スーパーの袋があんねんけど」

 と言う。完全に信子のペースだが、陸としては従うしかない。言われた通りに手前の引き戸を開けて台所を見ると、確かにきちんと折りたたまれたスーパーの袋が置かれてある。収穫したゴーヤを指示通りその袋に詰めると、

「ほんだら、それ、持って帰り。奥さんに言うて、ゴーヤチャンプルでも作ってもらいや」

 と言われた。あわてて

「あきませんよ、僕らそんなんもらえません。知ってはるでしょう」

 と固辞する。すると信子はふてくされたような顔になり、そのまま寝返りをうって背中を見せてしまった。

「ああそうかい、そうかい。ほんだらええよ。腐るだけさかいな、ごみ箱に捨てといて。ウチが丹精込めて作ったゴーヤやけどな。誰にも見向きもされんまま、捨てられていくんや。ウチの人生みたいに。かわいそうに」

 と聞えよがしにぼやく。声もすっかり低くなり、いじけたようになっている。陸は追い詰められ、

「い、いやそんなつもりやないですよ……そうですね、捨てて腐らせるのも勿体ないですもんね、ほんだらいただいて帰ります」

 思わず言ってしまった。途端に信子は再び寝返りをうち、満面の笑顔を見せた。

「最初からそうやって素直になればええんや。遠慮せんと持って帰り。ウチの自慢の作物やからな」

 あかん、この人にはどうしてもかなわん。陸は苦笑いをしながら、ゴーヤでいっぱいになったレジ袋を持って、花岡家を後にした。

 帰宅すると妻はまた吹き出しながら、大きなタッパーに二つ分のゴーヤチャンプルを作ってくれたので、その日の夕食だけではなく、翌日ワークセンターわかばの昼休みにも、皆で分け合っておいしくいただくことになった。


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