第2話 ワークセンターわかば

「花やんの方が、一枚も二枚も上手やな」

 所長の森田は、病院の面会から戻ってきた陸の報告を聞きながら、愉快そうに笑っている。

「ほんまですよ。まあ、肺癌の疑いっていうところは深刻ですけど。精神科的には今のところ安定しているようで、とりあえずはひと安心ですね」

 森田は陸を見て、老眼鏡を外し、頭を掻きながら諭すように言った。愉快そうな笑いは、苦笑いに変わっている。

「丸山君なあ。まあ、精神保健福祉士としてメンタルヘルスのことを心配するんもええねんけどさ、うちは病院やないからな。花やんは確かに統合失調症やけど、それだけやない。花やんの面白さとかしたたかさとか、なんていうかその、健全な不健康さみたいな、病気以外の部分をむしろここではしっかり見といてほしいな」

 陸は返す言葉を失って、やはり頭を掻く他なかった。


「自由なおばあちゃんやねえ」

 夕食を囲みながら陸の話を聞いてやはり、妻の智子も吹き出した。

「そやけど、なんでパパの勤めてる病院に入院せえへんの。そのおばあちゃんもそこの患者さんやないの、ねえ?」

 ご飯にふりかけをかけてやりながら、娘に向かって話しかけている。娘の方も、母親に応えて

「ねえ?」

 と首を傾げて見せる。彼女が誕生してからというもの、夫婦の会話は大抵こんな感じになっていた。大人の会話に幼子が置き去りにならないようにとの配慮なのだろうけれど、基本的に娘は母に同意するので、三人で会話しているというよりは、妻と娘対自分という構図になっており、陸としては時々おもしろくない。ただ、同意してくれたり、笑ったりするときも二倍になるので、それはそれで楽しいという部分もある。

「うちの内科は循環器専門でね。呼吸器の方は専門外やから。まあ、そうは言うても、今いてはるところも呼吸器の専門というわけやないけどな。救急で、割となんでも対応してるとこやからそのままになってるだけ、みたいな感じやな。その病棟も結構色んな患者さんがいてはるんやろうけど、見たとこ、お年寄りばっかり、ていう感じで」

 陸の方は娘に話しかける形で妻と会話をするというようなテクニックはあまり持ち合わせておらず、構わず妻に向かって話す。

「よう分からんけど、色々あるんやね、病院にも。パパみたいな専門家の人がいないと、選ぶのも難しいんや」

 妻が感心をした様子だったので、陸はとりあえず満足する。一応大学では福祉を専攻したけれども、たまたま合格したところがそれだったというだけで大して勉強はせず、アルバイトとサークル活動に明け暮れた。智子ともそのアルバイト先で出会い、お互いに医療や福祉といった専門の仕事とは無縁に過ごしてきた。

 けれども大学卒業後に一般の企業に就職してから、やっぱりなんとなく専門的な仕事の方がいいと思ったので、わざわざ専門学校に入り直して資格をとった。だから、妻から専門家と言われると単純に嬉しかった。


 ワークセンターわかばのメンバー達は、信子が入院したと聞いて、三人、五人と連れだっては入れ替わりで見舞いに行った。

「入院してたら退屈やし、さみしいもんやからな」

 それは、自分たちも精神科への入退院を繰り返してきた経験を持つメンバーならではの気遣いであり、同時に連れだって出かけていく理由が見つかったということで、それを楽しんでいるという雰囲気も見られた。

 信子の病室はそのために毎日にぎやかで、十日も経つ頃には病棟でもワークセンターわかばの面々は有名になっていた。

「この病室に入院してる人らはな、見ててもほとんど誰も面会に来えへん。そやけど、ウチのとこには毎日色んな連中が来る。やかましゅうて疲れるっちゅうとこもあるけど、ありがたい話やな」

 と信子は言う。

 ある時などは、外出したい、という信子の希望に応えて、病棟で借りた車椅子に乗せて、皆で近くのショッピングモールに連れ出した。しかし、車椅子の操作に慣れていないので、途中で前輪が溝にはまり、信子はつんのめって車椅子の前に放り出された格好になった。顔面からもろに倒れ込んだために、鼻のあたまやらおでこやらを擦り傷だらけにして戻ったということがあった。入院中に擦り傷をこしらえて戻るなど言語道断だが、日ごろの雰囲気を見ていてよく分かっているからか、病棟の看護師たちも、

「ほんまにもう、しょうがないねえ」

 と小言を言いながらも笑い転げていたという。

 そうして、本来気が重いはずの検査入院の期間はにぎやかに過ぎた。


 しかし、検査の結果はやはり肺癌だった。陸は結果が出たという連絡を受けて再び病院を訪れ、最初に話を聞いた診察室で、今度は信子と並んで金森医師の説明を聞いた。予想されていた通り、病巣はかなり奥の方にあり、手術は信子の体力からして耐えられないと思われるので、そのままで経過を見るしかない、というものだった。

 緊張で、ともすれば歯の根が合わない陸の隣で、当の信子の方は平然としていて、

「ふーん、そうですか」

 と他人事のように反応していた。金森医師の後に立っていた林田看護師長は、信子が理解できなかったのではないかと心配して、相変わらず濃い頬紅の張り付いた顔で信子のことをのぞき込んでいたが、恐らく信子は、ちゃんと分かった上で受けとめたのだろう、となんとなくだが、陸は思った。

 ワークセンターわかばの記録には、信子には弟がいる、という情報だけが記載されていた。自分が一緒に聞いたところでどうすることもできないため、弟に連絡だけはを取っておいた方がいいのでは、と陸は言ったが、

「そのうち、ウチから言うとくわ。連絡はとれるから」

 とそっけなく返された。


 一月ほどして退院してきた信子は、すぐに陸たちの待つ、ワークセンターわかばに復帰した。ワークセンターは、手作り弁当の製造販売が主な活動になっているが、最高齢とはいえ、調理に関しては熟練している信子は、厨房の主力選手でもあった。陸などは、役に立たないということで、厨房作業には加えてももらえないでいる。

「休み過ぎたから、体がなまったわ」

 などと言いながら、手際の良さについては衰えも見せずに作業をしていた信子だが、さすがに

「ちょっと一息入れさして」

 と小休止を入れることが増えた。体力の衰えた原因が、決して体のなまりや年齢のためではないということは皆が知っていたので、全然そのことへの抵抗はなく、

「ああ、行っといでや。なんやったらそのまま休んでてエエで。うるさいのがおらんかったら静かでよろしい」

 と皆から明るく返され、

「やかましいわ。一息ついたらすぐ帰ってくるからな」

 という具合に、目をむいて言い返したりしていた。


 陸は信子のことを、ワークセンターわかばに異動になるよりずっと以前から知っていた。精神科に定期的な通院をしている信子は、色々な手続きのことを相談するために、しばしば陸のいた医療福祉相談室を訪れていたのだ。はじめは先輩の精神保健福祉士のところに来ていたのだが、その先輩が不在の時に代理で対応してからは、なぜか陸のことを気に入ったようで、何かと言うと陸を訪ねてくるようになっていた。

「……この字、なんて読むんや」

 初めて対応した時、陸が首からかけていた名札には、「精神保健福祉士 丸山陸」とフルネームが書いてあり、それを指さして尋ねられた。陸が読み方を答えると、

「りくちゃん、か。ええ名前やな」

 とにっこり笑い、それ以来、信子は陸の事を陸ちゃん呼ばわりしている。陸としては、丸山さんとか丸山君とか、普通に姓で呼んでほしかったところだが、何度か訂正しても一向に改まる気配がないので根負けし、そのままになっていた。

 四年ほど前のことだったろうか。その信子が、陸のところに、

「あんな、わあくせんたわかばて、あるやろ。弁当作ってるところ。ウチもあそこで、働きたいねん」

 と相談にやって来た。確か信子は、病院の近所にある、やはり惣菜などを作っている作業所に長い間通っていて、数年前に七十になったのを機に辞めたと聞いた覚えがある。

「働きたい……ですか、なるほど。でも花岡さん、作業所は引退しはったんと違いましたっけ」

「あれはあれ、これはこれ、や。今やから言うねんけどな、前のとこはあんまり面白なくなかったから辞めたんや。ずうっと一緒やっためんばも、ほとんど入れ替わってしもうたしな。わかばは、この病院が作ったんやろ。ここには世話になってるからな。ウチも手伝うたろ、思てんや。ウチもまだまだ、しぼみたないねん」

 手伝う、か。就労支援というからには、手伝うのはむしろ事業所の側である。なんとなく誤解している気もしなくもなかったが、ニコニコと利用希望を明言されると、言い返せない。それにしても、まだまだしぼみたくない、とはまたどこから持ってきた台詞だろうか。ただ、信子は確かにまだまだ元気そうな上、そもそも以前彼女が通っていた作業所でも、主力選手だったとも聞いている。

「なるほど、分かりました。ほんだら、利用の手続きしましょか。役所にはまだ言うてないんでしょ」

「当たり前やんか。なんで役所にいちいち言わんなんねん。あ、でも福祉には言わんとアカンか」

 信子は生活保護を受けている。ワークセンターわかばでの「仕事」は給料を支払えるようなものではないが、それでも毎日通ってきたら一か月に一万円前後の、工賃と呼ばれる配分金をもらえる。それは一応収入ということになるので、生活保護受給者は福祉事務所に申告する必要があるのだ。

「福祉の方もそうなんですけどね。受給者証って言うて、なんていうか、ここに通うための許可証みたいなんをもらわんとあかんのですわ」

 障害福祉サービスを利用するには、市が費用を出すために、利用申請の手続きをしなければならない。実際に書き込むところは少ないのだが、字がぎっしり詰まっている申請書類を、あまり読み書きが得意ではない信子に説明したり、持っていくように伝えたりしただけでは結構難しそうだ。陸は説明しながら、これは自分が同行しないことには、と思った。


 信子と待ち合わせて市の障害福祉課に行った陸は、窓口でまず、信子の年齢で利用するサービスとして、就労支援事業が適切と言えるのか、というやりとりから始めなければならなかった。

「花岡さんは七十五才になられますよね。就労支援というのは本当に花岡さんにとって必要で適切なサービスなんですか」

 窓口の職員は陸に事務的な顔で確認してから、信子の方に向かって、

「花岡さん、就労支援っていうのはね、仕事をするところなんです。花岡さんはこれまで頑張ってきはったんやから、もうゆったり過ごしはったらいいんとちがいますか」

 とゆっくり、噛んで含めるように言った。信子の方は、昔から役所に来ると何故か戦闘モードに入ってしまう傾向があり、この時も上目遣いに職員をにらみながら、黙って聞いていた。信子が反応しないので、職員は続けた。

「日ごろはどんなことして過ごしてはるんですか。なんなら、高齢の方が集まって趣味の活動とかできるところ、紹介しますよ。老人福祉センターって言うてね……」

 途中まで聞いた信子は、もう我慢できない、という風に机をたたき、

「人を年寄扱いすんな!」

 と怒鳴った。

「いや、そんなつもりやないんですけど……。気を悪くされたんだったら、ごめんなさい」

 信子の反応が意外だったのか、動揺している。ちらっと信子を見ると、信子は陸に向かってこっそりウインクして見せた。なるほど、ここで出番や、てか。陸は少し身を乗り出して言った。

「あの、就労移行なら六十五才、と書かれてますけど、継続Bには年齢制限ないですよね。それにこの人は、もともと通ってらした作業所でも、調理の作業、中心的に担っておられたって聞いてますけど」

 陸のセリフに、信子が重ねる。

「挑戦しようという人間を止める権利が、だれにあるっちゅうねん」

 あかん。完全にハリウッド映画の見過ぎや。そして眉を吊り上げた信子の目は、ロッキーバルボアのそれになりきっていた。言い終わった後は、得意げに腕を組み、あごを上げてふんぞり返っている。どうやら、単にその台詞が言いたかっただけのようである。

 動揺しつつあった窓口職員はその様子にややあきれたのか、逆にすっかり落ち着きをとりもどして、冷めた目に戻りながら、

「分かりました。ではこれが申請書類です」

 と事務的な手続きの説明を淡々と始めた。

 まあ、いいか。陸はなんとなく、ちょっと愉快な気分になっていた。仕事の中で色々な手続きについて説明したり手伝ったりすることは日常的にあったが、悩みごとや心の病気についての相談を受ける業務に比べると事務的で、右から左に処理しているだけという感覚が強かった。しかし、この時は全然違っていて、手ごたえを感じた。生活の一部に触れたとでもいうか、簡単に言えば、楽しかった。帰路、信子は言ったものだ。

「陸ちゃん、ウチかっこよかったやろ。ろっきーみたいやったやろ」

 ニコニコ顔で、上機嫌だった。信子の方も、ただ紙切れ一枚だけの話ではなく、陸と一緒に動いたことが楽しかったのだろうか。


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