花やんの漢字ドリル

十森克彦

第1話 救急病棟

 どうやら入り口を間違えたらしい。節電のためか、天井の蛍光灯も消灯してあり、薄暗く、狭い廊下に小さな窓口がひとつ、ぽつんと開いている。仏頂面の守衛が座っていて、来意を告げると無言で廊下の奥を指さされた。その先を見ると突き当りの壁に、右向きの矢印とエレベーターという文字が書かれた表示があり、それで上の階に、ということだろうと思われた。

 電話では四階だと聞いていたので、そちらに向かう。表示に従って突き当たって右の方を向くと、確かにエレベーターがあり、その向こうには外来の待合室らしきロビーが続いていて、ちゃんと蛍光灯も点灯していた。あちらが正面だとすると、入ってきたところは裏口の、救急窓口か何かだったのだろうということが分かった。

 丸山陸は、大きな紙袋を抱えて見舞客用の小さなエレベーターに乗った。目当ての四階で降りると、すぐ正面がナースステーションになっている。カウンターの向こう側には看護師が何名かいたが、プラスチックグローブをはめて点滴のパックを用意していたり、バインダーを片手に、メモをとりながら医師らしき人物と話していたりと、それぞれの仕事に集中していた。病棟の様子はどこも同じだが、ここでは全くの部外者である陸には当然ながら知った顔もない。若干気後れをしながらカウンターをのぞき込んで、

「あのお、すみません。先ほどお電話をいただいた、ワークセンターわかばの丸山って言いますけど、花岡信子さんの病室はどちらでしょう」

と声をかけた。黒縁眼鏡の、小玉スイカのような顔をした看護師が、ぬっと顔を見せる。

「丸山さん、ですか。ああ、花岡さんの。ちょっとお待ちくださいねえ」

 そう言って、すぐに奥に引っ込んだ。エレベーターホールが申し訳程度なのに比べ、ナースステーションは妙に広い。救急の受け入れ病棟らしく、いくつも並んでいるモニターの奥で、小玉スイカが別の看護師に声をかけているのが見える。こちらの方をちらちらと見ながらやりとりしているが、何か怪しいと思われているのだろうか。呼び出しておいてそれはないんじゃないか。そんな風に思いながら待っていると、小玉スイカと話していた小柄な看護師が替わって出てきた。ざっと見たところ、その場にいる看護師の中では年長のようだが、少々頬紅が濃いんじゃないだろうか、と思った。

「丸山さん、ご苦労様です。お電話をさせていただいた、看護師長の林田と申します。こちらへどうぞ」

 とカウンターの中に案内される。ナースステーションの中ということは、ICUか何かに入っているということなのだろうか。病棟というところには独特の緊張感がある。陸自身も元は病院で勤務していたくせに、患者側としてやってくるとどうにも落ち着かない。心持ち口をすぼめながら、

「失礼します」

 と言って案内に従って、中に入る。カルテやらなにやらが積まれた机の横を通り抜けて、ナースステーションの片隅に通された。

「こちらで、少々お待ちください」

 陸が入ると、頬紅の濃い林田看護師長は、そう言ってカーテンを閉めた。病室かと思ったが、ベッドは置かれていない。代わりに白い事務用のデスクと椅子があり、その横には丸椅子もある。診察室ということらしかった。

 待つほどもなく、カーテンの向こうに人影が映ったと思うと、初老の男性医師が入って来た。

「ああどうも、医師の金森です。花岡さんの息子さんですか」

「いやあの、家族ではないんですけども」

 陸が応えると、

「えっ、違うの。あれ、どうすんの、これ」

 と戸惑ったようにきょろきょろし、後に控えるようについてきていた林田看護師長に、助けを求めるような目線を送った。何だろう。その態度に陸は何となく嫌な予感がしたが、あえて気づかないように、気持ちにふたをした。看護師長は、

「ああ、あの患者さん、身寄りがいらっしゃらないそうなんです。それでこの方は患者さんが通っている作業所の職員さん。ご本人にお聞きしたらこの方に連絡してくれっていうことでしたので」

「作業所っていうか、就労支援事業所です。花岡さんは就労継続支援B型と言いまして、障害をお持ちで、すぐには就職は難しいけれどもやはり仕事をしたい、という方のために仕事の機会を提供しています」

 別にそこまで言わなくてもいいのだけれど、作業所と言われてしまうとなんとなく黙っておられなかった。我ながら堅苦しい表現だと思ったが、案の定軽く聞き流される。

「まあそういうことなので先生、ムンテラはこの方にしたらいいんじゃないでしょうか」

 看護師長はそんな具合に、ぽかんと口を開けて座っている医師に説明してから、陸の方に向き直って、

「あ、ムンテラっていうのは、病状や治療についての説明のことなんですけど」

 と解説してくれた。陸は当然知っていたが、

「はあ、分かりました。僕でよければお聞きします」

 と答え、金森医師を見る。

「ああどうも、そうですか。そしたらねえ、ちょっと説明しますね」

 気を取り直したらしい金森医師はそう言って、手元にあるノートパソコンを開いた。少し前までこういうシーンでは、大きなフィルムを白いディスプレイ台にセットして、背後から照らし出して見せるものだった。あのディスプレイ台は確か、シャーカッセンとかと言ったと思うが、詳しくは忘れた。最近ではすっかりパソコンがその役割も代替するようになっている。表示されているのは胸部の画像のようだ。

「これね、花岡さんの、胸の写真。これ、肺ね。この右の、上のところ、分かりますか。白くなってるでしょう。ちゃんと検査しないとだめですけど、おそらく、癌ですね。ずいぶん奥の方にあって、お年もお年ですし、体力的なことも考えたら手術も難しいと思います」

 病院で勤務をしていた時には、スタッフとして幾度となく見てきた場面だが、患者の、いわば身内の側としてこういう説明を受けたのは、初めての経験であった。訳もなく、陸は動揺した。気持ちのどういう部分で受け止めたらいいのか、分からなかった。


 ワークセンターわかばは、陸の勤める医療法人が運営する障害者のための就労支援事業所で、精神保健福祉士として病院の医療福祉相談室に勤務していた陸は、就職して五年目になる昨年の春に、人事異動で配属されていた。

 花岡信子は、統合失調症があってそのワークセンターわかばに通所する、最年長のメンバーだが、深夜に駅前で動けなくなってうずくまっているところを発見され、救急搬送されてきたのだという。

 病院から事業所に連絡が入った時、陸はよほど状況が深刻なのだろうかと思った。病院の相談室に勤務していた経験上、通常こういう連絡は家族にしかしないだろうと思う。医療費の問題なら、信子は生活保護の受給者なので、福祉事務所との連絡がとれれば済むことだろう。家族が分からないなら誰か関係者に連絡を、というからには何か本人とのやりとりだけでは済ませづらい事情があると考えるのが自然だ。

 信子には確か、家族もいたはずだが、病院では言わなかったのだろう。どなたか連絡のつく方はおられませんかと問われ、陸のことを名指しにしたという。そう聞いて、陸は嬉しいような、少し照れ臭いような気持ちになったものだ。

 そんなわけで、ただでさえ少ない人員で切り盛りしている事業所だが、面会に行ってもいいだろうか、と相談してみると、所長の森田は老眼鏡をずり下げて陸の顔を見上げながら、

「まあ、ええんちゃう。行ってあげたら」

 とあっさり許可を出してくれた。


 そうして病院を訪ねて来てみると案の定、病状に関する気の重い説明を聞かされることになってしまった。日頃、元気に活動をしている信子の様子を見てきたためか、医師の言葉がにわかに現実とは思い難く、けれども見せられたレントゲンの画像に薄っすら映っていた乳房が妙に生々しく感じられ、息苦しさを覚えた。

 自分も医療法人に勤めている専門職のはしくれなのだから、という根拠のあるようなないようなプライドのため、できるだけそうした気持ちの動揺を外に出さないようにと苦労しながら、陸は、

「分かりました。このことはご本人には……」

 と尋ねた。それによって、この後の信子との接し方を考える必要がある。

「検査をきちんとした上で、説明しようと思っています。とりあえず今はまだ、疑いの段階ですしね。ただ、少し入院は続けてもらわないといけないんで」

 最初の、少しおどおどした印象とは変わり、病状の説明を始めた金森医師はさすがにきびきびとしていて、いかにもベテランらしい貫禄があった。続けて検査のことや今後の治療のことなどについての詳しい説明が続けられたが、冷静さを装っていただけで本当は結構混乱していた陸には、正直なところあまり頭に入って来ず、とりあえずこれから色々大変だな、という漠然とした印象だけが残った。それでも、事業所を代表して来ているのだからと気を取り直し、

「身寄りがない、という訳ではなくて、一応ご家族はおられると聞いています。ちょっとこちらの方から連絡がとれるかどうか、調べてみます」

 と陸が答えて、金森医師との面談は終了した。


 陸が抱えている大きな紙袋の中身は、スリッパやらタオルやら歯ブラシといった入院生活に必要な日用品の類で、これは陸が気を効かせて用意してきたわけではなく、信子本人のリクエストによるものだった。

 看護師長からの連絡が入った直後、実は信子本人からも電話があった。

「陸ちゃんか、ごめんやで。動かれへんようになってもうてな。もう大丈夫やねんけど、お医者さんがちょっと検査しとかなあかんって言うから、しばらく休ましてもらうことになるねん。忙しいのにごめんやで」

 病院からの突然の連絡には驚いたが、本人は思ったよりも元気そうな声だったので、少し安心する。とにかくこれから面会に行くから、と言うと、

「来んでええよ、忙しいのに。大したことないから、すぐ退院するし」

 と、とりあえず固辞。陸はそれを聞きながら、自分でこちらの名前を出しておいてよく言うよ、と密かに思った。

「大丈夫ですよ、所長も行けって言っていますから」

「え、そうなんか。ほんだら、悪いけどついでに頼まれてくれるかなあ。持ってきてほしいもんあんねんけど」

 信子は、遠慮しながらスリッパを持ってきてくれへんかな、と言った。早速病棟の中をウロウロするつもりだろう。陸が快諾すると、今度は、ほんだらついでに、といくつかの日用品が追加された。なんだか、使い走りみたいだなと思ったが、このあたり、したたかというか甘え上手というか、信子の生きる力なのだろう。そう考えると、まあ、いいか、と思えてくる。いずれにせよ、単身で暮らす信子には、それらを用意してくれる家族もいなさそうだから、仕方がない部分もある。陸はむしろ、信子にあれこれ頼まれて、メモをしながら結構ウキウキしている自分に苦笑したものだ。


 頬紅の看護師長が案内してくれた信子の病室は、ナースステーションの前の四人部屋で、信子は一番手前のベッドに寝かせられていた。動揺していることを信子に悟らせてはならない。陸は病室に入る前に、何度か深呼吸をした。

「ああ、陸ちゃんか。来てくれたんやな、ほんまにごめんやで。ありがとうな」

 ベッドサイドのカーテンを開けて顔をのぞかせると、いつもと変わらない信子がいた。ショートヘアの、右のこめかみのあたりだけ、くせ毛が「くるん」と巻いてはねている。もともと小柄な信子だが、入れ歯をはずしているからか、顔はさらにぎゅっと小さく、四角くなったように見える。小さくなったな、と思いながら、いつも通りの目尻の笑い皺を見て、陸は少し安心した。

「いや、ほんまにびっくりしたで。急に胸のあたりがきりきりって痛なってな。痛うて動かれへんし、息もでけへんようになってな。通りかかったお兄ちゃんが、おばちゃん、大丈夫かって走って来てくれたんや。それから後のことはよう覚えてへんねん。気イついたらここにおったんや。もう大丈夫やけどな。イタタ、どないなったんかしらんけど、筋肉痛のひどいみたいな痛みが時々な。実は前からあってんけど」

「前からあったって……」

「そやなあ、二年とか三年とか、もうちょっと前かなあ。そやけどまあ時々やし、こんなに痛いこともなかったから、もう慣れてしもててんけど」

「……恐ろしい話やがな。せっかくの機会やから、ちゃんと診てもろうて下さいよ」

 信子は

「ちぇっ」

 と舌打ちをして、

「つまらんなあ。はよ退院したいわ」

 と言った。陸は紙袋の中のものを渡しながら、気になっていた倒れたいきさつについて尋ねてみた。

「それはそうと花岡さん、夜中に駅前で倒れてたって聞いたけど、そんな時間に何してはったんですか」

 そもそも、通りかかったお兄ちゃんが声をかけてくれたと信子は言ったが、救急搬送されたのは終電がとっくに終わっている時間だったと聞いていたので、人が通りかかってくれたことは幸運だったとしか言いようがない。

「腹減ったからな、まくろなるろに行こ思うてたんや」

「まくろ……ああ、マクドナルドね。腹減ったからって、大学生やあるまいし。確かに駅前のとこは二十四時間営業やけどね。そんな時間に行って、マクドナルドで何食べはるんですか」

 信子は人差し指を立て、ウインクしながら、

「びっくまっく、やがな」

 と答えた。

「真夜中に、ですか。……感性も食欲も、若いですねえ。僕ちょっと無理かも」

 想像しただけでちょっと胃がもたれる気分になり、陸は軽く眉をひそめてみせた。夜中にファーストフードを食べに行く信子の奔放さとタフさに、なかばあきれながらも感心させられる。

 不眠なんだろうかとか、生活のリズムが崩れつつあるのかとか、いやもしかして徘徊の始まりなのだろうかなど、色々と考えて気になったのだが、どうも陸の心配していたところとは全く様子が異なっている。

「ウチ、よう行くねん。夜中にな。おもろいで。結構色んな兄ちゃん姉ちゃんが来るから、観てるだけでわくわくするやんか。時々やんちゃな子らが集まって怖い思いすることもあるけどな」

「たいした度胸すね。体力もやけど。そやけど夜中にうろうろしてて、ちゃんと寝てるんですか」

 幻覚や妄想といった、いわゆる陽性症状は消失しているとはいえ、信子も精神科の疾患を持って通院しながら生活をしているわけだから、一応精神保健福祉士としては睡眠のリズムは気になるところだ。

「大丈夫や。夜更かしするんは、次の日に仕事ない時だけやで。それにな、年寄りはそんなに寝やんでも大丈夫になってくるんや。どっちか言うたら、うろうろしとる兄ちゃん姉ちゃんらの方が心配なくらいや」

 と、あっけらかんとしたものである。こういうとき、陸は教科書通りに考えてしまっている自分の未熟さを感じてしまう。

「ふうん。まあ、いいか」

 頭の後ろで手を組み、軽くため息を吐いて照れ隠しをする。その時、信子は急に小声になって陸を招き寄せ、耳元でささやいた。

「あんな、タバコ吸いたいねんけど。ここでは絶対あかんって言われてて」

「絶対にあきません!」

 思わず陸は大声で返してしまい、慌てて周りを見回して口をおさえた。

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