Information Paradox–02–

 客車のドアの内側に備えられたホログラフオーディオが響かせる音楽は、現代のアーティストたちによる作品だった。暗くて、不明瞭で、うらぶれて――古い信仰や、テクノロジーがもたらした災い、そしてターミナルの悪夢を幻視的なイメージとして訴えかけるピアノとチェロの二重奏。いまはもう失われてしまったスコアを継ぎはぎした不完全な再現音楽と、どちらがこの街らしいと言えるだろう。そんな意味のない命題が、コラプサーの思考を乱していた。


 かつて世界は失われ、拡散し、悪夢のなかに沈んだ。それは誰もが知る歴史で、けれど誰もが忘れた過去だった。世界が終わったのはいつなのか、この呪わしい巨大都市が建てられたのはいつなのか、夜ごとに現れる怪異と恐怖がどこからやってきたのか、それに答えられる者は? この街では、誰もが喪失を抱えながら生きている――記憶だろうと、心だろうと。


 旅客牽引車ハックニーが、少しずつ速度を落としていった。客車の外から聞こえる街の音が、とても騒がしい。多くのエンジンが駆動する音、通りを行き来する雑踏の音。フランス通りと比べれば、ここは空気の質がまるで違った。


 コラプサーは、向かいの座席に行儀よく座っているアズールに目を向けた。褐色の人工皮膚を覆う防疫マスクのゴーグルに、外からの光が反射している。妖しくも美しい、ピンクの電光が。


 従者の視線を辿るように、コラプサーは窓の外を見た。溺れるほどの光の氾濫が、痛いほど目に障った。スクロールしていく街の景色は、鉛色の雲が太陽を遮る地上より、ずっと明るい。


桜花町おうかちょうです、コラプサー様」


 辿り着いたのは、明けることがない夜に閉ざされた地下にあって、決して光の途絶えない場所だった。常軌を逸したテクノロジーが人間の最も根幹的な欲求と結びつき生まれた、享楽の落とし子。バスタブ一杯のアルコールが毎秒ごとに流れ、快感と幻惑をもたらす香り高い霧に満ち、恐るべき怪異すら見世物として消費されていく、奈落の淵にそびえる遊技場。それが常夜街とこよまちが大歓楽街――桜花町おうかちょう


 この街では、誰もが望むものを手に入れることができると言われている。もs

十分なクレジットを用意して、明日の破滅を厭うことがないならば。テイラーメイドのスーツを着たお忍びの上流階級も、よれたスーツを翻す下層のビジネスマンも、なにかと引き換えに短い夢に酔っていく。テーブル一杯に並べられた芳醇なご馳走を貪り、柔らかいベッドに横たわる魅惑的な身体を貪り、薬物と電脳が見せるこの世ならざる幻を貪って、刹那でも現実を忘れようとする。道路の両側に並ぶアール・ヌーヴォー様式のビルは獣性の檻で、その内側は昼夜を問わず、あらゆる肉の欲望で満たされている。


 コラプサーは過去を思い、きつく奥歯を噛み締めた。同時に沸いた怒りは、自らへ向いたものなのか、この町へ向けられたものなのか。行われていることは同じでも、桜花町の労働者たちは、その道のエリートと言えた。彼・彼女たちはミドルグレードの市民権を持ち、得られる報酬も莫大で、食うにも遊ぶにも困ることはない。汚れた古着を纏い、毒々しい酵母食を口にして、冷たい雨に晒されることはない。かつてこの町で仕事を得ようとして、けれど叶わず罵声に晒された記憶――それだったなら、忘れてもよかった。


 たくさんの自動牽引車オートキャリッジとディーゼル自動車が行き来する往来を、コラプサーは虚ろに眺めた。陰鬱な常夜街にあって、光と音であふれたこの町。骸煙に晒されて黒ずんだ、アール・ヌーヴォー様式のビル群。退廃的な美しさを演出する、眩いピンクの街灯。通りを埋め尽くす、ネオンのサインボード。高層建築によって切り取られた空なき空に浮かぶ、劣情を煽るホログラフの広告と、大気を淫ら泳ぐホログラフの幻像。通りを行き交う人々は仮面を外す瞬間を待ちわびて早足になり、自律機械のボーイやガードマンが上擦った声で客を招き、虚しい夢への扉を開いている。誰ものが自ら望み、破滅に向かって歩いていく。どれだけ明るく煌びやかでも、結局はターミナルの一端でしかない。積もり澱んだ罪と死が、美しく着飾り徘徊している。


 憂鬱に街を眺める間も、アズールの声は聞こえ続けていた。それは風に乗った遠い響きのようで、身を入れて聴く価値があるとは思えなかった。コラプサーは視線すら向けず、けれどそれでも、従者の声は途切れることなく客車を満たしていた。


「現在、貴方はこの桜花町にいくつかの物件を所有しています。その収入の一部を屋敷の保全に当て、多くは備蓄に回していますが――」


「――自律機械である僕自身は市民権を得られません。よって……勝手ながら、貴方を所有者として、資産を管理して――」


「――その際に取得した貴方の市民権は、架空の名義と遺伝子情報で登録したもので、当然、闇業者ダークワーカーを介した違法なものですが、常夜街ではその真偽など、些末な問題で――」


「――つまり、今後の資金は十全と言えます。僕を含めた屋敷のあらゆる資産を活用し、目的を果たしてください、コラプサー様」


 アズールの話のほとんどは、コラプサーにとってどうでもいいことだった。財産、棲家、権利――それはかつて欲して止まず、けれど最後まで手に入れられなかったものだった。たった一夜の雨から逃れるのに、どれだけの対価を支払っただろう。泡のようなクレジットを手放すたび、どれほどの不安を覚えただろう。けれど、眠りのうちにそれを与えられていた事を知り、今、少女には喜びも安堵もない。それは、理不尽な死という絶対的な恐怖の前に、そんなものは慰めにもならないことを、あの日、知ってしまったからかもしれない。或いは、ほんとうに欲しかったものが――巨大な力が――今や手中にあるからかもしれない。だから、少女にとって重要だったのは、機械の従者の愚かしい忠誠を確かめられたことだけだった。たとえ、誰かに造られ、仕組まれたものであったとしても、その献身には利用価値があった。


 コラプサーはコルセットベストのポケットから懐中時計を取りだして針を読んだ。長針と短針は、十二の位置で重なりつつあった。客車の外側では、車両の往来は少なくなり、人通りもまばらになっていた。大通りから横道へと進み、蜘蛛の巣じみて複雑に入り組んだ路地へと至った。宙をを満たしていたホログラフの密度も低くなり、ピンクの街灯の間隙には再び地下の闇が満ちつつあった。それでも、コラプサーが知る湾港地帯の裏路地と比べれば、この場所はずっと小綺麗だった。ゴミ山もなければ、浮浪者もいない。迷い人を狙う、残虐な解体業者の視線もない。代わりにあるものは、歩道に並ぶ裸婦の塑像と、建物の軒下に吊り下げられた飾りランタン。通りの片側には低い柵で仕切られた大きな水路があり、その彼岸にも同じような光景が広がっていた。


 桜花町の〝忘れな地区〟――河畔のしじまに並ぶ高級娼館街。その奥まった一角、隘路の入口で、主従を載せた旅客牽引車は止まった。


 客車から降りると、水路から立ちのぼる霧が足元を流れていた。目的の場所は隘路の奥で、これ以上は徒歩でしか進めそうになかった。


 アズールが御者に待機しているように告げる間に、コラプサーは隘路の暗がりにひとりで踏み入った。両側は娼館の壁面で、そこには蔦じみた通信ケーブルが無数に這い、奥へ奥へと続いている。それを追って進んでいくと、間もなく道は階段となって下方へと降り、先には大きな構造物が見えた。


 階段が終わると、空間が開けた。方尖柱オベリスクのような大きな時計塔を配した広場で、四方をテラスハウスと雑居ビルに囲まれて、道はどこにも続いていない。人の気配はなく、家屋に灯る光は朧で、時計塔から投射されるホログラフの文字盤が周囲を淡く照らしている。


「あの建物に、件の探偵の事務所があります」


 追いついたアズールが横に並び、その場所を指で指し示した。時計塔を挟んだ広場の反対側――アール・ヌーヴォー様式の低層ビルで、いつ建てられたものなのかも判らないくらいに老朽化しているた。入り口の左右の台座にはかつて塑像があったとらしいけれど、全体のほとんどが失われ足元までしか残っていない。壁の彫刻と塗装は剥がれ落ち、コンクリ―トの地肌を露わにしている。ターミナルに深く根付いた、老衰の悪疫がここにすら及んでいた


 コラプサーは歩を進め、時計台の隣を過ぎ、そこで止まった。どこからか、匂いを感じた。


 その瞬間、抑えがたい疼きが脳髄ウェットに湧きあがった。コラプサーは防疫マスクの奥で小さく呻き、胸を押さえた。マスク越しにも感じる、強烈なその匂い。どこまでも甘く、どこまでも切なく、欲して止まぬ、貴き薫香――人の、血の、匂い。


「コラプサー様?」


 異変を察したアズールの声に構わず、コラプサーは薔薇色の瞳で景色を拭った。目指す建物の入り口が、僅かに開いている。匂いはそこから漏れでて来ている。視線を上に向けると、二階の窓には微かな電光が見えるのみで、動くものはなにもなかった。けれど、その視線が三階の窓を捉えた時、明らかに異様なものが目に留まった。


 光の灯らない三階の窓辺。その暗がりのなかから、こちらを見下ろす姿があった。子供ほどの小さな体躯、たくさんのフリルをあしらったエプロンドレス、鮮やかな薔薇尖晶石ピンクスピネルの髪――顔はゴーグル付きの防疫マスクに覆われて、定かでない。メイドのような恰好で、まるでマネキンのように身じろぎしない。あれは、誰?


「コラプサー様!」


 アズールの叫び声が、血の誘惑と謎の人影に向けられていたコラプサーの意識を引き戻した。振り返り、従者に何事かを訊ねる間もなく異常に気付いた。脳髄を震わすその感覚は、もう忘れようなく記憶に染みついていた。


 周囲の空間のあちこちが歪み、影を吸い寄せ、夜を織り集めた。それは瞬く間に全き闇となり、宙に空いた虚穴ホロウとして現実を穿った。水音が聴こえる、断末魔が轟く。その向こうに広がるのは、世界を飲み込む悪夢。


閾地いきちです」


 虚穴が膨張し、破裂し、闇が飛沫として広場を濡らした。そうして出来上がった黒い水溜まり――黒玉ジェットを溶かしたような悪夢のおりのなかから、それが這い上り、現れた。


 濡れそぼった犬の身体、腹を貫く奇形の肋骨、能面じみてつるりとした人の顔。一匹、二匹、三匹、四匹――異形の獣はふたりを囲み、白い切歯を覗かせておぞましく笑った。

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血の赤、星の黒。 二都 @nito_ren

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