Information Paradox–01–
息苦しさを感じるくらいグロテスクなケルト紋様が刻み込まれた鋳鉄の玄関扉が開かれた時、ひんやりと湿った外気が流れ込み、黴臭く澱んでいた古い空気を希釈していった。鼻孔に沁みる仄かに甘い匂いは大気に満ちる
コラプサーは、悠々と外気に身を晒した。常ならば、ただそれだけで
少女は屋敷に面した広い通りを睥睨した。フランス通り、赤地区。その地名が示す通り、あたりには一八世紀風の優美なフランス風建築の屋敷が並び、それを照らす街灯は不気味に赤い。腐臭の染みついた金を転がす街の有力者の住居や、上層に住まう特権階級たちの別邸が並ぶ、下層では有数の高級住宅街。一歩進んで玄関を超え、上を見上げた。陽光はなく、雨雲もなく、空すらない。代わりに見えるものは、街を覆い尽くす防壁と、その表面で明滅する星空じみた誘導灯の瞬きだけ。
「お待たせいたしました」
背後からの声に振り返ると、自律機械の従者――アズールが相変わらずの無機質な表情で佇んでいた。今は、医者が使うような大きな革張りのダレスバッグを襷掛けにしている。その藍銅鉱の瞳は真っすぐにコラプサーを見つめているようで、けれど瞳孔の不在は、視線がほんとうに向いている位置を曖昧にしていた。
「外出時はこちらをお召しになってください」
そう言いながらアズールが差しだしたのは、鼻から口元までを覆うタイプのガスマスク型の防疫マスクだった。以前、所有していたものに似ているけれど、左顎部に刻まれたミレニアム社のロゴマークを見れば、バザーでたたき売りされていた中古品とは桁の違うラグジュアリーモデルだということが解る。
コラプサーが怪訝な表情を浮かべるとアズールは、「ええ、貴方や僕にとって
「敵性存在?」
「例えば解体業者。僕のような完全な
コラプサーはその指図をうざったく思いながらも、従者の手からマスクを取り上げて、自分の口元を隠した。そうするとマスクの
アズールも主に続いて、自分のマスクを装着した。同じようなガスマスク型の防疫マスクでも、ゴーグルが一体化した顔全体を覆い隠すタイプのものだった。少年の無機質な表情がすっかり隠れてしまうと、逆に機械らしい違和感が消えて、身なりのいい唯の子供といった雰囲気になった。
玄関の階段を降りると、そこは小さな庭園のスペースになっていて、通りに面した鉄柵の門までの道には御影石の石畳が敷かれていた。庭園といっても芝も花もなく、ただ荒れた砂利の広場があり、枯れた古木が何本かミイラの腕じみた枝を伸ばしているだけの空間に過ぎない。屋敷の資産状況がどうなっているのかなんてコラプサーは気にも留めていなかったけれど、
硬い石の道を数歩進んで鉄柵の門に至ると、守衛の男が鉄柵の外側に寄りかかって煙草を薫らせていた。アリュエットは、目深に被ったカウボーイハットを少しだけ上向けて、
「ムッシュ・アリュエット。コラプサー様と僕は外出します。戻る時刻については、まだなんとも言えません。留守番をよろしくお願いいたします」
アズールがそう言うと、アリュエットはダスターコートの裾をめくった。腰の革製ホルスターに収められた大型
「こいつは必要ねえのか?」
アリュエットがぶっきらぼうに訊ねると、アズールは「ええ、いまのところは――」と答えた。
「――万が一、貴方の助力が必要であれば連絡します。ベルの音に耳を澄ませておいてください」
「その時、そっちに都合良く公衆電話があればいいけどな」
アリュエットは、それ以上はなにも言わなかった。また帽子を目深に被り直し、煙草の吸殻を真鍮製の携帯灰皿に収めて、新しい一本をシガレットケースから引き抜いて口に咥えた。
「行きましょう、コラプサー様」
マスクに遮られてくぐもったアズールの声が、出発の合図となった。コラプサーは鉄柵の門を跨ぎ越し、常夜街へと踏み出した。
赤い街灯によって照らされた通りは、今では多くの
「どこに行くの?」と、コラプサーは従者に訊ねた。
「
旧世紀の蒸気機関車を思わせる牽引車両の運転席から、運転手がいやに小さなハンドルを握りしめたまま、ノイズまみれの声を発した。
「ドチラマデ行カレマスカ?」
大きすぎるハンチング帽と継ぎはぎだらけのコートに身を包んだ運転手は、明らかにメンテナンス不足の
「ご心配なく、ミスター・チャリングの運転技術は確かです」
アズールはそう言うと、「桜花町の3188ブロックまで」と行き先を運転手に伝えた。
「マイド、ドウモ」
運転手が応えて、ハンドルの両脇に備わった丸形キーボートをいくつかタイプすると、客車のドアが開いた。内部の照明が灯り、鳶色の布が張られた豪華な座席が照らしだされた。
アズールがクレジットチップを運転手に手渡すのを尻目に、コラプサーは客車に乗り込んだ。過去の乗客たちが残したと思しき、いろんな匂いを感じた。安いファンデーションの匂い、ラベンダーの香水の匂い、湿気た葉巻の匂い、
そういえばずいぶん喉が渇いたな、とコラプサーは思った。紅茶は好きだけれど、それより酒が欲しい。ジンを、アブサンを、デス・イン・ジ・アフタヌーンを。違う、それよりも――アルコールじゃなく、ほんとうに欲しいものは――砂糖よりも、カクテルよりも、もっともっと甘いものは――
自らの奥底で悪夢が疼くの感じた時、アズールが乗り込んでドアを閉めた。
赤く染めあげられた景色が流れるにつれ、喧騒が近づいてくるのが判った。牽引車は、街の中心に近づきつつある。恐れながらも火を求める羽虫みたいに、もっと明るくて暖かい場所へ。太陽のないこの街で、けれど消えることのない、人造の光が溢れる領域へ。
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