Information Paradox–01–

 息苦しさを感じるくらいグロテスクなケルト紋様が刻み込まれた鋳鉄の玄関扉が開かれた時、ひんやりと湿った外気が流れ込み、黴臭く澱んでいた古い空気を希釈していった。鼻孔に沁みる仄かに甘い匂いは大気に満ちる骸煙がいえんがもたらす刺激で、それは扉の外に広がる街が、違えようなく世界最後の都市――〝ターミナル〟だという事の証左に他ならない。防疫マスクなしでは呼吸することもままならないほどに穢れ切ったこの空気の匂いこそ、いまや地上に残った全ての人間にとって忌々しいノスタルジーのみなもとだった。憂鬱と、疲弊と、老衰を喚起する、あまりに暗い郷愁。


 コラプサーは、悠々と外気に身を晒した。常ならば、ただそれだけではらわたを腐敗させていく骸煙を呼吸して、けれど少女は僅かな苦痛も感じることはない。おぞましい致命の毒性も、死にながらに生きる身には霞くらいに無害なものでしかなかった。


 少女は屋敷に面した広い通りを睥睨した。フランス通り、赤地区。その地名が示す通り、あたりには一八世紀風の優美なフランス風建築の屋敷が並び、それを照らす街灯は不気味に赤い。腐臭の染みついた金を転がす街の有力者の住居や、上層に住まう特権階級たちの別邸が並ぶ、下層では有数の高級住宅街。一歩進んで玄関を超え、上を見上げた。陽光はなく、雨雲もなく、空すらない。代わりに見えるものは、街を覆い尽くす防壁と、その表面で明滅する星空じみた誘導灯の瞬きだけ。常夜街とこよまち。どうやって形成されたのかもわからない巨大な地下空間に築かれた、日の訪れない街。あらゆる汚穢が最後に流れ着き、浄化されることもなく澱んでいくだけの奈落の入り口。


「お待たせいたしました」


 背後からの声に振り返ると、自律機械の従者――アズールが相変わらずの無機質な表情で佇んでいた。今は、医者が使うような大きな革張りのダレスバッグを襷掛けにしている。その藍銅鉱の瞳は真っすぐにコラプサーを見つめているようで、けれど瞳孔の不在は、視線がほんとうに向いている位置を曖昧にしていた。


「外出時はこちらをお召しになってください」


 そう言いながらアズールが差しだしたのは、鼻から口元までを覆うタイプのガスマスク型の防疫マスクだった。以前、所有していたものに似ているけれど、左顎部に刻まれたミレニアム社のロゴマークを見れば、バザーでたたき売りされていた中古品とは桁の違うラグジュアリーモデルだということが解る。


 コラプサーが怪訝な表情を浮かべるとアズールは、「ええ、貴方や僕にとって骸煙がいえんの毒性は問題となりません。しかし、普通の人間でないことを主張しながら出歩くのは、敵性存在の注意をいたずらに引くことになる可能性も無いとは言えませんので」

「敵性存在?」

「例えば解体業者。僕のような完全な擬人型自律機械エゴイック・オートマタは、彼らにとって格好の標的ですし、貴方のような怪異を追い立てる勢力も常夜街では珍しくありません。上層企業の悪夢調査員ナイトゲイザーや、賞金狙いの怪異狩りハンターと衝突することは、望ましくないことです。もちろん、貴方の力を過小に見ているわけではありませんが、極力、面倒事は避けるべきかと」


 コラプサーはその指図をうざったく思いながらも、従者の手からマスクを取り上げて、自分の口元を隠した。そうするとマスクの調整装置アジャスターが起動して、可塑素材で作られたフレームが展開し、変形し、皮膚を軽く圧迫し、下顎の骨格に沿って固定された。違和感も痛みもほとんどない。流石の高級品、とコラプサーは感心した。


 アズールも主に続いて、自分のマスクを装着した。同じようなガスマスク型の防疫マスクでも、ゴーグルが一体化した顔全体を覆い隠すタイプのものだった。少年の無機質な表情がすっかり隠れてしまうと、逆に機械らしい違和感が消えて、身なりのいい唯の子供といった雰囲気になった。


 玄関の階段を降りると、そこは小さな庭園のスペースになっていて、通りに面した鉄柵の門までの道には御影石の石畳が敷かれていた。庭園といっても芝も花もなく、ただ荒れた砂利の広場があり、枯れた古木が何本かミイラの腕じみた枝を伸ばしているだけの空間に過ぎない。屋敷の資産状況がどうなっているのかなんてコラプサーは気にも留めていなかったけれど、骸煙がいえんの汚染下でも育つような遺伝子設計ゲノムデザイン種の草花を賄うだけの余裕はないのかもしれない。或いはアズールが、庭を煌びやかに飾ることに興味がないだけなのかもしれない。


 硬い石の道を数歩進んで鉄柵の門に至ると、守衛の男が鉄柵の外側に寄りかかって煙草を薫らせていた。アリュエットは、目深に被ったカウボーイハットを少しだけ上向けて、虎眼石タイガーズアイの機械化義眼で門を過ぎようとするふたりを見下ろした。アリュエットの防疫マスクも顔全体を覆うタイプのものだったけれど、そのままの状態で水分補給や喫煙を行うための展開機構が備わっていた。開口部を開いてストローで飲み物を啜れば骸煙を吸うことはないし、紙巻煙草ならフィルターが毒を濾してくれる。呼吸は鼻だけですればいい。長時間、外気の下で作業するような場合に使うものだった。


「ムッシュ・アリュエット。コラプサー様と僕は外出します。戻る時刻については、まだなんとも言えません。留守番をよろしくお願いいたします」


 アズールがそう言うと、アリュエットはダスターコートの裾をめくった。腰の革製ホルスターに収められた大型回転式拳銃リボルバーの黒い銃把が、鈍く光を放った。


「こいつは必要ねえのか?」


 アリュエットがぶっきらぼうに訊ねると、アズールは「ええ、いまのところは――」と答えた。


「――万が一、貴方の助力が必要であれば連絡します。ベルの音に耳を澄ませておいてください」

「その時、そっちに都合良く公衆電話があればいいけどな」


 アリュエットは、それ以上はなにも言わなかった。また帽子を目深に被り直し、煙草の吸殻を真鍮製の携帯灰皿に収めて、新しい一本をシガレットケースから引き抜いて口に咥えた。


「行きましょう、コラプサー様」


 マスクに遮られてくぐもったアズールの声が、出発の合図となった。コラプサーは鉄柵の門を跨ぎ越し、常夜街へと踏み出した。


 赤い街灯によって照らされた通りは、今では多くの自動牽引車オート・キャリッジが行き交っていた。箱形の客車に吊り下げられた飾りランタンと、それを引く四輪の牽引車両の眼光じみたヘッドライトが、赤一色だった往来に、別の色彩を加えていた。建ち並ぶ豪奢な屋敷の赤い威容が、時には青と混ざり合って紫となり、緑と混ざり合って橙となった。象徴主義じみた陰鬱な街並みと、野獣派のような原色のコントラストが、常夜街がフランス通りの暗い夕暮れの姿だった。


「どこに行くの?」と、コラプサーは従者に訊ねた。


桜花町おうかちょうです」と、アズールは応えると、くたびれたエンジン音を響かせながら通りを過ぎようとした一台の旅客牽引車ハックニーに向けて手を振るった。牽引車は甲高い悲鳴のようなブレーキ音を叫びながら、ゆるゆるとふたりの前に停車した。随分と古びてはいるけれど、煤けた客車キャビンはかなり凝った作りで、飾りランタンは金細工の一級品で青色に燃え上がる骸油がいゆの火を灯し、ドアには黒いバイコーンのエンブレムとおそらくは会社名と思われる〝英國辻屋〟という漢字が彫り込まれていた。


 旧世紀の蒸気機関車を思わせる牽引車両の運転席から、運転手がいやに小さなハンドルを握りしめたまま、ノイズまみれの声を発した。


「ドチラマデ行カレマスカ?」


 大きすぎるハンチング帽と継ぎはぎだらけのコートに身を包んだ運転手は、明らかにメンテナンス不足の自律機械オートマタだった。バケツみたいな頭部はところどころ塗装が剥げているし、右手には外装がなく関節を動作させるピストンやワイヤーがむき出しになっている。発声装置も明らかにおかしくなっていて、ノイズだけならまだしも、下手な歌劇のバリトンっぽい声が聞こえたかと思うと、次の瞬間には幼い童女の猫撫で声になっている。同じ自律機械でも、すべてが完璧に整った擬人化自律機械エゴイック・オートマタのアズールを見た後ではあまりに見窄らしい姿だけれど、ターミナルに古くからいる老いた自律機械オートマタたちは、多少の差はあってもこのようなものだという事を、コラプサーは思いだした。血もなく、肉もなく、まだ自我エゴすらない年古りた人形たち。


「ご心配なく、ミスター・チャリングの運転技術は確かです」


 アズールはそう言うと、「桜花町の3188ブロックまで」と行き先を運転手に伝えた。


「マイド、ドウモ」


 運転手が応えて、ハンドルの両脇に備わった丸形キーボートをいくつかタイプすると、客車のドアが開いた。内部の照明が灯り、鳶色の布が張られた豪華な座席が照らしだされた。


 アズールがクレジットチップを運転手に手渡すのを尻目に、コラプサーは客車に乗り込んだ。過去の乗客たちが残したと思しき、いろんな匂いを感じた。安いファンデーションの匂い、ラベンダーの香水の匂い、湿気た葉巻の匂い、阿片丁幾ローダナムの残香、アブサンの薫香。窓から見える赤い街灯は、どこか懐かしい気分を思い起こさせた。


 そういえばずいぶん喉が渇いたな、とコラプサーは思った。紅茶は好きだけれど、それより酒が欲しい。ジンを、アブサンを、デス・イン・ジ・アフタヌーンを。違う、それよりも――アルコールじゃなく、ほんとうに欲しいものは――砂糖よりも、カクテルよりも、もっともっと甘いものは――


 自らの奥底で悪夢が疼くの感じた時、アズールが乗り込んでドアを閉めた。脳髄ウェットで渦巻きかけた赤い欲動は、何処か暗い領域へ戻っていった。ふたりは向かい合って座った。主人は行く先を向いて、従者は行く先を背にして。運転手と同じように老いたエンジンが力を振り絞るように唸る音が聞こえ、旅客牽引車ハックニーが出発した。幸い、スプリングは傷んでいないようで乗り心地は快適だった。


 赤く染めあげられた景色が流れるにつれ、喧騒が近づいてくるのが判った。牽引車は、街の中心に近づきつつある。恐れながらも火を求める羽虫みたいに、もっと明るくて暖かい場所へ。太陽のないこの街で、けれど消えることのない、人造の光が溢れる領域へ。

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