The Wave Theory of Light–04–

 アリュエットはコートの内ポケットに忍ばせていた銀製のシガレットケースから紙巻煙草と黄燐マッチルシファーを一本ずつ抜き取ると、かさついた唇に煙草を咥え、カウボーイハットの鍔に仕込んだサンドペーパーでマッチを擦って火をつけた。薄紫の煙がゆっくりと立ちのぼりアルカロイドが部屋に溶けて、微かな苦味をじめつく空気に添加した。アリュエットは瀟洒な動作で煙を燻らせてマッチの燃え滓を暖炉に投げ捨てると、コートの裾を翻し、入口へと戻っていった。


「ムッシュ・アリュエット、貴方もこの場に居た方が良いかと」と、アズールが男の背に向けて声をかけた。


「このレコードに記録されているものを知っておくことは、貴方の役目を全うするためにも必要だと思われます」


 アリュエットは首だけで振り返ると、帽子の影から虎眼石の目を光らせて、「興味ねえな」と吐き捨てた。


「相手がなんだろうと、俺には引き金をはじく以上の仕事はできねえんだよ。最初にも、そう言っただろ?」


 アリュエットは言い終えると気怠そうに部屋を出て、ブーツの踵が床を鳴らす音とともに沈黙が満ちる廊下の奥へと去っていった。持ち込んだ荷物と、煙草の匂いだけを後に残して。


「ムッシュ・アリュエットを雇い入れたのは、八六五〇時間前のことです」


 アズールは、開け放たれたままの扉の向こうの薄闇を見つめながら言った。


「彼は詳細な経歴を語りませんが、以前は外郭の閾地いきち開拓事業に従事していたようです。あの機械化義眼は、その時の名残なのでしょう」


 閾地であれ怪異であれ、生身の人間がそれを直視することは致命的な精神汚染を引き起こしますから――と、アズールは扉に近寄りながら言葉を繋いだ。


「彼が常夜街で仕事を求めた理由は知れませんが、盗人や解体業者の類から、幾度となく屋敷を守ったことは事実です。報酬も、五百クレジットの月給以上を求めることはありません」


 少年の手が冷々とした真鍮のドアノブを握り、音もなく扉を閉ざすと、続けて壁に据え付けられた通電パネルをタッチした。すると、部屋のどこかで浄化装置の駆動音が俄かに響き、澱んだ空気が静かに循環を始めた。去った男の足音は、もう遥かに遠かった。


「彼について僕が知り得ているのは、これくらいです。もちろん、貴方が彼をお気に召さないのであれば――」


 コラプサーは憮然とした声で、アズールの言葉を遮った。


「あいつがなんだろうが、どうでもいい。そんなことより――」と、青白い細指が従者の抱える黒い円盤をまっすぐに指した。


「――そんなことより、そのレコードに記録されてるものを確かめるのが先よ」


 アズールは恭しく頷いて、鏡のように磨き上げられたレコードを両手に持ち、テーブルの上に視線を落とした。そこには、アリュエットが持ち込んだもうひとつの荷物――箱型のアナログプレイヤーが置かれている。それは木目の外装にワニスの光沢が眩しい、ホログラフユニット式のアンティークな筐体だった。


 アズールがプレイヤーの上面を覆っていたガラスのカバーを開き、露わになったターンテーブルにレコードを重ねると、弓の弦が弾かれたような低い振動音が鳴ってホログラフ投射装置が起動し、ミニチュアの天体じみた青白く光る球形の音響立体が筐体の上に現像され、浮かび上がった。筐体のラジエーターから放散されたイオンの臭気が空気に入り混じり、また部屋の匂いに不快な彩りを加えていった。


 自動で回転をはじめたレコードの数百層にも重なる渦巻く溝に、アズールは機械らしい精密な動作でレーザーカートリッジの先端を落とした。ホログラフの天体の表面が振動し、波紋が走り、音階と音圧は山脈の隆起や巨大な波として表現され、そして部屋のなかをいつか刻まれた音で満たしていった。


 はじめにノイズが聴こえた。それから、遠くに水音が聴こえた。穏やかなさざなみが、砂浜に打寄せては返っていく音。木々に降り積もった深雪が、じわりじわりと融けてゆき、雫となって地上に滴る音。それは、ふと浮かんだイメージに過ぎなかったけれど、嫌に現実味のある情景として脳裏に広がった。


 いつからか、誰かの話し声がまばらに聴こえ始めていた。擦り切れるような小さな声で、ノイズに掻き消され、なにを話しているのか窺い知ることはできない。かろうじて判るのは、話し手の数がおそらく三人ということだけ。砂を踏みしめるようなぎゅっという足音と共に、話し声はゆっくりと近づいてきた。みっつの声は、次第に明瞭になっていく。女の声がひとつ、男の声がふたつ。


『……ジャック』


 その一言が聴こえた後、ぷつりと話し声が途切れた。水の音も激しくなったノイズに溶けて、浮かぶイメージは灰色の砂嵐に塗り替えられた。音響立体の表面からは波紋が消え、完全に凪いだ青い光が静寂の内に、それを見つめるコラプサーとアズールの瞳のなかに映えている。


 再びホログラフの表面が波打ち始める。ノイズが少しずつ小さくなっていく。そして聴こえたのは、死の記憶と連なるあの声だった。


『……都市中枢部、外郭……、閾地の森の……領域調査、……日目。記録者……の……。我々が発見したのは、広大な地下空間だった。おそらく、崩壊した……の……遺跡だと思われる。外つ神……と、眷属の痕跡。……遠方に、緑色の……が見える。黒い液体は瀝青に……ているが、その組成には……含まれ……これはかつて……現実に存……の変異に用いられ……抽出物は、都市においても……レスをはじめとする……れている。変異体は現在のところ発見……ジャックが調査し……これより、抽出作業に……』

 

 瀝青に塗れた悪夢のなかで聴いた、その声。土砂降りの雨のなかで聴いた、青い目の男の声。相変わらず、音声の大半はノイズで潰れ、全容を掴むことはできない。それでも、あらゆる疑問の解答へと至るための手掛かりは、この声のなかにしかない――少なくとも、今は。


『……ああ、今……。……っているよ。けれど、これは……』


 声の調子が変化した。淡々と読み上げるような真面目くさい声音から、うんざりと嘆息するような声音へと。どこからか、もうひとつの声が混じった。嗄れた、老婆のような女の声だった。男の声は、女の声に応える。


『……今行くよ、ジャック』


 それを最後に、すべての音が消えた。ノイズを含めたあらゆる音が去り、部屋にはレコードが空転する囁きだけが残った。それから数分が過ぎ、レコードが回転を止めるまで、虚しい沈黙が続いた。


 アズールはターンテーブルからレコードを取り上げて、黒光りする表面をじっと見つめた。


「……この声の主が、貴方が探している人物なのかもしれないのですね?」


 コラプサーは頷いて、従者の問いかけに答えた。


「これは、音声ログです。録音環境の為か、なにを記録したものなのかを判別することは難しく思われます。しかし――」


 アズールはレコードをターンテーブルに戻し、レーザーカートリッジの先端を狙いすました位置に落とした。


『……都市中枢部セントラリア、外郭……、閾地の森スレッショルド・フォレストの……領域調査』


 その部分だけを正確無比に再生すると、カートリッジを引き上げて音声を止めた。


「――ターミナルの外側に広がる閾地の森スレッショルド・フォレストの調査――その記録の一部、でしょうか? ……ですがそれだけで、個人を特定できるような情報を聴きとることはできません。都市の外郭に関わりのある業種や人物など、無数に存在しています。せめて日付や具体的な座標が判れば、調査も不可能ではないのですが」


 アズールは回転を続けるレコードから目を上げ、主人に向きなおった。


「どこか気になる点がございますか?」


 コラプサーは椅子に静かに腰を下ろし、長い脚を組んだ。ぼんやりと床の一点を見つめながら、レコードに刻まれた声を何度も反芻した。その繰り返しのなかで、少女の脳髄ウェットに引っかかって離れない、ひとつの短い言葉があった。


「……ジャック」


 コラプサーは薄桃のリップを塗った唇で、ぽつりと呟いた。そして、それを口にした瞬間、酷く懐かしいような、それでいて胸のなかを掻き乱すような形容できない感情が湧きあがった。今やその言葉は鉤のような棘を持ち、離れがたく心に突き刺さった。どうしてかも、わからないままに。


 胸の前で苦し気に片手を握りしめたコラプサーの様子を、アズールは不思議そうに窺っていた。


「確かに、個人名だと思われるジャックという言葉が何度か繰り返されていました。しかし、〝ジャック〟などという名前はありふれたものです。それを頼りに目標を絞り込むことも、やはり現実的ではないでしょう。なにより声の主は、別の誰かに向かってジャックと呼び掛けていたようですが」


 指摘されるまでもなく、そんなことは解っていた。けれど、そうした理解の外側から、ジャックという名前がなにか重大な意味を持っているかのように圧し掛かっていた。とはいえ、それに拘ったところで、男を探し出すことはできないだろう。


 コラプサーは呪文のように絡みつく四文字jackを振り払い、鋭い視線を従者に向けた。


「それで、どうやってこの声の男を探すの? 先は、なにか考えがあるみたいな口ぶりだったけど」


 アズールは頷いた。


「この屋敷の外にも協力者がいます。都市中枢部セントラリアの事情に深く通じた人物です。その者から、情報を得ましょう」、と言いながら、レコードを再び取り上げて、紙のファイルのなかに仕舞い直した。


「常夜街に日は昇りませんが、地上ではネオンが消え始める時間です。差支えがなければ、今からその人物のもとに向かいたいと思いますが」

「誰なの、そいつは」

「探偵です」


 それを聞いて、コラプサーは怪訝に目を細めた。探偵は街の下層ではありふれた職業で、大半は他に働き口の無い人間がやるもので、報酬に見合った結果を得られることを期待すべきじゃない、というのが一般的な認識だった。それでも、警察力が慢性的に不足しているターミナルにとって、無くてはならない業種ではあるのだけれど。

 

「信用できるの?」

「おそらくは――彼も僕と同じく、無名都市ラ・シティ・サン・ノンの女王から、貴方を補佐するように選ばれた人間なのですから」


 コラプサーは憂鬱に嘆息した。「なら信用できない」という言葉は飲みこんだ。今はまだ、気に入らない機械の従者の考えの通りに動くしかない――なにか確かなことが解るまでは。


 コラプサーは立ち上がって窓の外を見た。赤い街灯の彼方から、街の営みが音となって聴こえている。この鬱屈した屋敷の外に出られることが、微かな楽しみだった。たとえ永遠に太陽のない、地下に閉ざされた街であっても。




 The Wave Theory of Light–光の波動説– 終わり、


 Information Paradox–情報逆理– へ 続く。

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