The Wave Theory of Light–03–

 赤い街灯の光に誘われた蛾の、散る葉みたいな頼りない羽ばたきをガラス越しに眺めながら、コラプサーはあの夜の出来事を語った。永い雨が降りしきり、青ざめた街灯が地を照らし、灰色の雑踏が行き来する湾港地帯で出会った、まぼろしのように現実味がなく、けれど生々しい痛みと結びついた、あの日の記憶を。


 それを思い出すたび、コラプサーは首元に残る刀傷をなぞり、熱病じみた情動が掻きたてる暗い感情の疼きを抑え込んだ。あの恐怖と、あの痛みと、あの絶望を、いまなおまざまざと手繰ることができる。汚れた空気に晒した白い美貌ときらめくようなシアンの髪と瞳は網膜に焼きついて、幾百もの唇が詠う声は消えない残響として脳髄を震わせた。あれは――あの男は、常軌を逸したテクノロジーとこの世ならざる怪異があふれるターミナルにおいてさえ、あまりに異常な存在だった。


 コラプサーは窓から視線を外し、腕を組んで石造りの壁に背中を持たせかけた。瞬きすらせず主の話に耳を傾けていたアズールが、何事か思案するような素振りを見せて「なるほど」と呟いた。


「――目が覚めた時、わたしは人間じゃなくなってた。その場にいた解体業者を殺して……また耐えられないくらい眠くなって……次に目覚めたのが、この屋敷だった」


 アズールの話が正しいなら、おおよそ六年もの間、眠り続けていたことになる。だのに、コラプサーの姿は、あの時と変わらず少女のままだった。それもまた、ライフレスへの変異による影響なのか――もっとも、金さえあれば寿命も若さも買うことができるターミナルにおいて、それは取るに足らない疑問で、いま考える必要があることでもなかった。


 コラプサーは、ランプの明かりの揺らぎによって色合いを変えていく藍銅鉱アズライトの髪を見ながら言った。


「白いスリーピーススーツ、黒いポークパイハット、青い髪と青い目、汚染大気のなかでも防疫マスクを着けてなくて――なにか、わけのわからない力を持ってる。そういった怪異のことを、なにか知ってる?」


 アズールは首を横に振って応えた。


「いいえ、それだけではなんとも。しかし――」

「しかし?」

「――いまのお話から、その男は、無作為に貴方を害したのではなく、なにか定まった意図を持って、貴方を狙ったことが推論できます。貴方のことを以前から知っているかのような言動をしていた、と。コラプサー様は、ほんとうにご自身がお命を狙われた理由について、思い当たることはないのでしょうか?」


 次はコラプサーが首を横に振る番だった。


「その男には初めて会ったし、誰かに殺されなきゃいけないような理由もなかったと思う――多分ね」

「多分、と申されますのは?」

「……わたしには、昔の記憶がほとんどないから」


 それだけ言って、コラプサーは言葉を切った。暗澹とした路地裏に身を潜めながら雨をやり過ごした日々の記憶、麻酔の匂いが漂う小部屋で脳髄を弄り回された記憶――どの場面を切り取っても、欲する手掛かりは得られなかった。けれど、喪失した過去のなかにならば? その問いに答えられる者がいるとすれば、青い目の男か、無名都市の女王と呼ばれる存在のどちらかだろう。いまは、それを求めることも叶わない。


 アズールは、なにも見解を述べなかった。気を遣って触れなかったのかもしれないし、記憶の欠損なんてターミナルでは珍しくもない疾病だからなのかもしれない。どちらにしても、その沈黙から自律機械の意図を読み取ることはできなかった。


 時刻を告げる鐘の音が、遠く外から響いてきた。〝夕暮れ〟の鐘が鳴ってから、一時間が過ぎたことになる。けれど、膨大な時間をだらだらと惰性で過ごしているような感覚が、少女にはあった。それは、この街が永遠の夜のなかに在るからなのか、無為かも知れない会話に時を費やしているからなのか。


 アズールは腕時計に目を落とし文字盤を読み取ると、藍銅鉱の目を上げて言った。


「もうひとつ、お教えいただきたいことがあります、コラプサー様。その男を見つけだしたとして、貴方はなにをお求めになるのでしょう。復讐ですか? それとも、真相の詰問ですか?」

「当然よ。全部を訊きだしてから、殺してやる。でも、その前に――」


 暗い感情が喚起する赤い悪夢が、光として薔薇色の瞳で閃いた。静かに、けれど揺るぎのない声で、コラプサーは言った。


「――盗られたものを、盗り返す」


 陶器じみたアズールの表情に、微かな好奇が宿ったように見えた。


「盗られたもの、とは?」

「わたしの、名前」


 そう告げて、コラプサーは自らの冷たい白髪を撫で、その下の頭蓋に残る切開痕の手触りを確かめた。失われた過去のどこかで、電脳が埋設された時に残ったと思しい古傷を。


「わたしが、人間だった時の名前。目が覚めてから、それだけを思い出すことができない――まるで、切り取られたみたいに。あの男が、わたしの頭のなかから盗んだのよ」


 コラプサーは強く奥歯を噛み締めた。錆っぽい味が口のなかに広がって、焦がれるような渇きを覚えた。怒りに震える主の声を聴き、アズールの言葉は怪訝だった。


「名前? それだけを?」


 無言で頷く。


「ですが、なんの為に?」

「わたしが知りたいわ。だから、あいつから訊きだす」


 アズールは片手の親指を顎に当て、しばし考える動作をした。その様は、ほんとうの人間であるようにしか思えない――皮膚がまくれた頬に覗く、黒い人工筋肉さえ見えなければ。


脳髄ウェットであれ、電脳ドライであれ、脳から情報を抜き取るのは盗掘業者の手口です。その男は、或いはその手の闇稼業ダークワーカーと関係しているのかもしれませんが――」


 そこまで言って、従者は口を噤んだ。推論を積み上げるには、まだ論拠が少なすぎると考えたのかもしれない。もしくは、少女の言葉に滲む、偏執の色を感じ取ったからかもしれない。死んでいる間に脳を弄られたなんてことが、どうしてほんとうだと判る?


 それを証明する手立てはなかった。けれど、証明する必要もなかった。少女はそう確信していたし、少年も疑念を口にすることは終になかったから。


 アズールは腕時計の文字盤に、また一瞬だけ目を落とした。すぐに主に向き直り、「――他に、その男に関する手掛かりは?」と訊ねた。


 コラプサーは壁から背を離し、火のない暖炉に向かって歩いた。焦げた鋳鉄の枠には唐草の彫刻が施され、マントルピースは贅沢な大理石で組み上げられている。脇のフックに吊るされた火掻き棒は真鍮製で、尖った先端は溶けた灰が混ざり、マーブル模様を浮かべている。コラプサーはそれを手に取り、ゆっくり振り回してもてあそんだ。


「さっきの部屋にあったレコード。閾地のなかで、あのレコードから聞こえてきた声が、探してる男の声に似ていた」と、コラプサーは火掻き棒の槍のような先端を少年に向けて突きつけた。


「あれは何だったの?」

「〝欠片シャード〟のことですね。僕が起動した時、あれは屋敷の倉庫に埋蔵されていました」


 藍銅鉱の瞳が、真っすぐに火掻き棒の先端に焦点を合わせた。


「あれを貴方の寝室に設置したのは、コードとは別に、僕に最初から設定されていた指示の為でした」

「それも無名都市の女王ってやつの命令?」

「はい。強制力のあるコードとは違い、僕はそれを無視することもできましたが、従うことを決めました。命令者の思惑がなんであったのかを、確かめたかったからです」


 コラプサーは火掻き棒をステッキのように回転させて肩に乗せると、落ち着きなくその場をうろつき歩いた。古ぼけた床を踏みしめるたび、きいきいと小鳥が喘ぐような音が鳴った。


「〝欠片〟は、悪夢と同質の情報を持った記憶媒体です。それは悪夢と同じように現実の時空間を崩壊させ、閾地いきちを発生させます」

「知ってるわ、身を以って体験させられたからね」


 皮肉めいた主の言葉にアズールは、「どうか誤解なさらないで下さい」と返した。


「あのレコードは、永く不活性の状態でした。閾地を発生させることもなければ、記録されているであろう音声情報を読み取ることもできなかったのです。それが突然活性化し、屋敷のなかを変貌させました――十三時間と十二分前のことです。おそらくは、貴方の覚醒が引き金となったのだと思われます」と言って、不肖を詫びるように頭を下げた。


「そして寝室に伺った時、僕の推察どおり、貴方がお目覚めになっておられました。後は知っての通り、貴方は閾地のなかに飲み込まれ、機械である僕は弾きだされました。貴方の身に危険が及ぶような事態になることを想定し得なかったことは、僕のミスです。どうか、お許しを」


 コラプサーは立ち止まって、火掻き棒を暖炉のなかに投げ入れた。途端に灰の粉が舞い、それはブラケットランプの光を受けて、空気のなかできらきらと光った。小さなため息は、窓の外から轟いた骸炭発電機の遠い唸りに飲み込まれ、消えていった。


「それが、無名都市の女王ってやつの計画だったんでしょう?」


 アズールは頷き、「おそらくは」と応じた。


「どこまでが彼の御方の思惑だったのかは知れません。しかし結果として〝欠片〟は活性化し、異常性を露わにしました。いまならば、刻まれた音声情報を再生することが叶うでしょう」


 やはりすべての出来事は繋がっている、とコラプサーは確信を抱いた。そして、そのひとつひとつを結びつけている色のない糸こそが、無名都市の女王。ライフレスとなった自分を保護し、閾地へと導いてレコードを手に入れさせ、アズールという従僕を宛がった。


 けれどなんの為に? なにかが明らかになるたびに真実の糸はますます複雑に絡まって、その結び目を隠していく。いったいどんな怪異と秘密が、そこに隠されているのだろう。ターミナルの深い闇はあらゆるものを隠匿し、あるべき輪郭と色彩を奪っていく。知りたいことの一端にすら、未だに触れることも叶わない。


 唯一確かな手掛かりは、あのレコードだった。無名都市の女王の企図によって自らの手に渡った悪夢の欠片に、青い目の男に似た声が刻まれていた――これが偶然のはずがない。


 コラプサーはアズールからレコードの在処を訊こうとして、しかし、ふと思い立ったことを質した。


「お前、ヘットって名前に聞き覚えはある?」

「いいえ。それは?」

「……なんでもない、忘れていいわ。それよりも――」


 その時、廊下から床が軋む音が聞こえ、直後には勢いよく扉が開いた。風圧で舞い上がった埃と灰を突っ切って部屋に現れた長身は、アリュエットと呼ばれていた男だった。男は右腕に、薄っぺらい紙のファイルと木製の箱のようなものを抱えている。


「俺は雑用のために雇われたわけじゃねえぜ、アズール」


 アリュエットはカウボーイハットの下から虎眼石タイガーズアイの瞳をギラつかせて、不服そうに言った。そして、部屋の中央のテーブルに、やや乱暴に荷物を降ろした。


「清拭業者にはかなりボッタクられたぜ」

「ご苦労さまです、ムッシュ・アリュエット」


 ふん、と鼻を鳴らした男の隣で、アズールは持ち込まれた荷物の一方を――紙のファイルを手に取った。アリュエットの腕のなかで小さく見えたそれは、機械の少年の胸元を覆うくらいには大きな正方形だった。


「再生できないほど汚れが酷かったので、ムッシュ・アリュエットにメンテナンスを頼んだのです」


 アズールは言いながら、ファイルに押されたオレンジの花の封蝋を剥がし、中身を取り出した。黒光りする表面の、古調なレコードが転がりでて、少年の腕に収まった。それは何処にでもありふれた、懐古趣味の一枚でしかないように特徴に欠けていた。けれど少女の霊脳コールドは、その内で渦巻く悪夢の蠢動を、違えようなく感じ取っていた。

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