The Wave Theory of Light–02–

「五二五七二時間前――この屋敷で、僕は起動しました」


 澄んだボーイアルトが街から響く物音を伴奏として、追想を歌い始めた。


「その瞬間、僕は自らに刻印された刷り込みインプリンティングのコードを認識し、それに従って行動しました。ひとつは、この屋敷を維持すること――」


 自動牽引車オートキャリッジのヘッドライトが細い窓から射し込んで、テーブルと少年の影を引き延ばして、過ぎていった。エンジンの音は遠くなり、彼方の喧騒のなかに紛れ、やがて聞こえなくなった。


「――ふたつめは、貴方の眠りを目覚めの時まで守ること。僕が起動した時、ホールには幾重にも鎖が巻き付いた鉄の棺が置かれていました。そのなかに、血塗れの貴方が横たわっていました」


 少年は――アズールは、空になったカップを下げ、新たに清潔なカップを取りだして、紅茶を注いだ。今度は翡翠色ジャスパーじゃなく、黄色い芍薬ピオニー柄のカップ。砂糖を溶かし、ミルクを混ぜ、ふたたび湯気立つ一杯が差しだされた。熱が失われていないのは、ポットの底に恒温ストーンが沈められているからだろう。


「貴方がライフレスだということは、僕に最初から備わっている記憶のひとつです。ですが、貴方が誰でどんな身の上の御方なのか――貴方が〝変異〟した経緯やその原因についての情報は、なにも与えられていませんでした」


 アズールは話を続けながら、規則正しい歩調で暖炉のそばまで歩いていった。


「僕は、自らの演算装置エンジンに備えられていた家政学的知識に基づいて、貴方のお部屋と身の回りの物を整えて、ずっと目覚められるのを待ち続けていました。この屋敷はほとんどの家具がない状態でしたし、直ぐに修繕を迫られるほど劣化している場所もありました。そのために必要な資金を得るのは、それほど難しくはありませんでした。なにせ、ここは常夜街とこよまちで、常夜街には桜花町おうかちょうが存在するので」


 少年の声色は、相変わらず事も無げだった。けれど、悪名高い桜花町で子供――少なくとも見た目は――が金銭を得る手段と言えば、ひとつしかない。


「あのような管理された歓楽街で職を得るには四級以上の市民権が必要ですが、僕のような擬人型自律機械エゴイック・オートマタであれば、そのような制限はありません。ある意味では、市民権を得られない人間よりも、機械のほうが余程恵まれています」


 この都市で、下級の市民権すら得られない人間は路地裏に身を潜め、虚しい同情や卑しい欲望に縋るしかない――或いは、命すら消費財として使い潰されるような危険を渡り歩き、糧を得るしかない。いつかの苦い記憶を紅茶の甘さで紛らわしながら、「そうかもね」と、少女は言った。


「人が悪夢と同期して完全にライフレスへと変異する為に、永い休眠期を経る必要があることは、悪夢抽象学やイデア工学の一部学説が指摘する通りでした。おおよそ六年という時間を、僕は待ち続けました」


 アズールはジャケットの内ポケットからアルメニアペーパーを取りだすと、電気式ライターで火をつけて、マントルピースの耐熱皿に静かに置いた。薄紫の煙が緩やかに立ちのぼり、湿った空気を燻していった。


「そして、昨晩――今から十二時間と三十六分前、ようやく貴方がお目覚めになられたのです、コラプサー様」


 そう言うと、アズールはマントルピースの花瓶に挿されたドライフラワーに手を伸べた。渇いてもなお、青い美しさを誇るヤグルマギク。細い指が触れると、その花弁はあまりに脆く、砂のように散り落ちた。ずっと止まった時のなかに在ったものが、やっと正しい時間のなかへ解き放たれたみたいに。花の残骸が床の塵埃に混ざっていくのを、少年はじっと見下ろしていた。


「この電脳ドライ義体ハードのすべてを尽くして、主に奉仕し、その目的の遂行を補佐すること――それが僕に定められた、みっつめのコード


 アズールは小さな手で、自らの胸を押さえた。あるはずのない心臓を掴み、捧げるように。


「だから貴方は、貴方自身の為に、どうか僕をお使いください。それが、僕自身の目的を果たすことにも、繋がるのですから」


 ふたたび、自動牽引車のヘッドライトが窓から射し込んで、光と影を分かった。明かりを受けて、藍銅鉱アズライトの髪が青と緑からなる光彩を纏い、褐色の美貌を飾った。藍銅鉱アズライトの瞳は、射るように光を投げかけていた。


 コラプサーはティーカップをソーサーに戻し、白い縁に移った薄桃のリップを撫でるように指先で拭った。脚を組んで、椅子の背もたれに頭を乗せて、まとまりを欠いた思考を束ねようとゆっくりと息を吸って、言った。


「要領を得ないわね。機械なら機械らしく、もっと論理的に話せないわけ?」

「申し訳ございません」


 アズールは床を軋ませないように静かな足取りで部屋の中央へ戻り、主の傍らに佇んだ。


「お前の言っていることがほんとうだとして――いったい誰が、なんのためにそんなことを?」


 それこそが、もっとも重要な手掛かりとなるはずだった。未だ姿さえ見せないその誰かこそ、求める答えのすべてを知っているのかもしれない。青い目の男、ライフレス、矢車菊の館シャトー・ド・ブルーエ――もしかすれば、失われた過去のことさえも。


無名都市ラ・シティ・サン・ノンの女王」


 アズールは、そう言った。


「それが、僕の創造者であり、命令者。この電脳ドライに記憶野に、もっとも古く刻み込まれた名前。僕を僕たらしめる、コードを定められた御方」


 感情のない少年の声に、微かな寂寥が混ざったようだった。或いは、聞き違いだったのかもしれないくらいの、ごく小さな声音の変化。


「そいつは、何処にいるの?」


 コラプサーが訊ねると、アズールは抑揚もなく、「存じ上げません」と答えた。コラプサーは俄かに声を荒げて、「どういうこと?」と責めるように言った。


「僕が無名都市ラ・シティ・サン・ノンの女王について知り得ていることは、そのお名前だけなのです。どのようお姿で、どのような人格で、一体どこに居られるのか? 人間なのか、機械なのか、それともまた別の存在なのか? 何故、僕を造り、貴方のもとへ遣わしたのか――」


 アズールはかぶりを振って、「――なにも、なにひとつ、知らないのです」


 コラプサーは舌打ちして、真白い髪を煩わしげに掻き上げた。冷え切った薔薇色の瞳が刃の鋭さを伴って、少年に突き立てられる。


「じゃあ、お前は何処の誰かもわからないヤツの命令に従って、こんなことをしてるってわけ? 理由も目的も知れないのに、わたしが目を覚ますのを何年も待ってたって? 桜花町みたいな場所で働いてまで?」


 アズールは平然と頷いた。


「コラプサー様、僕は擬人型自律機械エゴイック・オートマタなのです。意思は完全に自由である人間とは違い、刻印されたコードに逆らうことはできません。それは衝動領域イドに深く溶け込んで、機械でしかない存在の根源的な欲求となり、履行することによって自我を満たすことができます。言い換えれば、貴方に仕えることによってのみ、僕は自分の存在を実感することができるのです。そのコードが解除される時があるとすれば、命令者による消去か、或いは僕の終わりか、どちらかなのです――遠い時代に在ったという、呪いに似て」


 完璧に調律されたボーイアルトの詠う声は、暗い哀歌として部屋の薄闇に染み渡った。たとえ感情の冷熱がなくとも、そこには微かな悲痛の響きがあった――無神論者の名手が歌う讃美歌みたいな、無いものを在ると見せるテクニックなのかもしれないけれど。どちらにしても、少女は少年を愚かしいと思っただけだった。


「馬鹿々々しい話ね」

「そうなのかもしれません。ですが、僕は無償の奉仕を望んでいるわけではありません」


 アズールはティートロリーに乗せられたトレイを見つめながら言った。ぴかぴかに磨かれた表面に映る、自らの藍銅鉱アズライトの瞳を検めるように――その奥に在る、自我エゴを確かめるように。


「僕は、コードによって定められたものとは別の目的があります。それは、僕の創造者である無名都市ラ・シティ・サン・ノンの女王を探しだし、会うことです」


 コラプサーは目を上向けて、褐色の顔を覗いた。


「なぜ僕を造ったのか、なぜ貴方のもとに遣わしたのか――僕も知りたいのです。その答えを、訊きだしたいのです」


 藍銅鉱アズライトの瞳が薔薇色の視線に気づき、ふたつの光が真っすぐに交錯した。


「そのためにこそ、僕は貴方に奉仕し、貴方が目的を達することを補佐します。きっとその先に、無名都市ラ・シティ・サン・ノンの女王が居られるのでしょうから」


 アズールは、もうすべてを話したとばかりに口を閉じ、黙った。コラプサーはため息をついて視線を外し、ふたたびカップを手に取って紅茶を飲んだ。ずいぶんと温くなってしまっていたけれど、スパイスの香りはふんわりとした幸福感となって、ニューロンを巡った。


 知りたいことの答えは、ほとんど得られていない。解ったのは、無名都市の女王と呼ばれる存在がなにかを知っている――かもしれないという、些細な手掛かりだけだった。それも、自律機械の少年が語ったことが真実で、その電脳ドライに刻まれた記憶が偽物でなければ、という前提が正しければの話だけれど。少女は、それを確かめる術を持ってはいない。そんなか細い道を辿って、正解にたどり着くことができるとは思えなかった。それでも、強い苛立ちが湧かなかったのは、もしかすれば紅茶の効能だろうか。


「それで?」と、コラプサーは言った。


「お前がわたしを手伝うとして、一体なんの役に立つって言うのかしら? まさか、べらべらとくだらないことを並べ立てて、紅茶を淹れるだけってわけではないでしょう?」


 アズールは頷くと、左手首に巻いたクロムメッキの腕時計に一瞬だけ目を落として、「もちろんです」と言った。


「――ですが、コラプサー様。そのためにも、貴方がなにを為さりたいのかを、話していただきたいのです。この世界最後の都市で、まつろわぬ不死者の力を以って、なにを目指しておられるのかを」


 アズールは胸に手を当てて、目を伏せた。ささやかで、けれど端然と整った、敬慕を示す動作だった。機械であるが故の、無機質な美しさ。


 それに感動したわけじゃない。少女の心は相変わらず石のように冷たく固まって、揺らぎすらしていない。「信用できるのか」という自問はナンセンスだった。この街で、心からなにかを信じているのは愚か者か異常者だけで、必要なのは猜疑心と利己心だけ。考えるべきなのは、利用する価値があるのか、ないのか、ということ。


 コラプサーは紅茶を飲み干して、席を立った。ふたたび窓辺に寄って、永く暗い通りを眺めた。最後の都市ターミナル都市中枢部セントラリア常夜街とこよまち、フランス通り、赤地区――その名前の由来となった、ネオ・バロック風の屋敷やテラスハウスと、まばらな赤い街灯の連なりが見える。人通りはなく、今は牽引車のライトも見えない。すべてが陰鬱なターミナルで、下層よりなお深く、空すら失われた〝最低〟の街。


「暗すぎるわ」と少女は呟いた。けれど怪物が身を潜める場所として、これくらい相応しい舞台はないだろう。たとえばあの路地裏で、誰かが全身の血を抜かれて死んだとして、そんな些末なことを気にする者がどれくらいいるだろう。この街に、その程度の怪異はありふれている。


「いいわ、お前を使ってあげる」


 それが、少女の結論だった。 


「なんでも言うことを聴く召使いは面白そうだし――」と残忍に微笑み、「少なくとも、紅茶を淹れることだけは上手いみたいだからね」

「光栄です」


 コラプサーは窓を向いたまま、ガラスに映る少年が頭を垂れるのを見た。それからそっと視線を移し、薔薇色の瞳を朧に光らせる冷たい美貌の怪物を睨んだ。それが自分だということを、もう一度確かめるようにガラスに触れて、自身に語り掛けるようにゆっくりと口を開いた――鋭い犬歯と、青い舌を覗かせて。


「わたしは……ひとりの男を見つけたいの」

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