The Wave Theory of Light–01–

 どこまでも白さを誇る、傷ひとつない琺瑯ほうろうの浴槽。淡いランプの明かりを映す、黄金こがねに光る真鍮のシャワーヘッド。銀細工の枠に縁取られた、露に曇る鏡。雨に似た水音がタイルの床で弾けるたび、それは暖かな粒子となって空気を濡らし、濁った湯と立ちのぼるフランキンセンスの芳香は、身体の汚穢と心のこわばりを溶かしていった。


 たっぷりと時間をかけて久しぶりの入浴を堪能し、脱衣室に戻ると、薔薇の造花が添えられた鏡台には化粧品が並べられ、隣のハンガーラックには真新しい服が吊り下げられていた。


 下着を着て、フリルシャツを着て、鏡に映る姿を見た。蝋のように白い肌、青ざめた唇、影が澱んだ目元、褪せ果てた純白の髪――それは死人の顔だった。生命の熱を失った、冷たい氷の美貌。ただ薔薇色の瞳だけは、いまなお朧な光を湛え、脈動する暗い力を覗かせていた。手早くメイクを施して、深く滲んだ死の色を隠した。


 着替えは、まったく同じ略礼装だった。蝙蝠の羽じみたテイルコート、スート柄のコルセットベスト、ボックスプリーツのショートスカート――紅薔薇を思わせる深紅に、贅沢に光る銀糸の刺繍。黒いリボンタイを留めるロードライトのブローチは、凍てついたワインみたいだった。


 錠を外し扉を開けると、ブラケットランプが壁際に並ぶ、長い廊下が続いていた。ブーツが踵を降ろすたび、年古りた木目の床がぎしりと鳴って、無残な歳月の浸食が軋む音として埃っぽい空気を震わせた。途上にあったいくつかの扉を開いてみても、あるのは家具ひとつない空室ばかりだった。目覚めた時のあの部屋は、厭らしいくらい豪華に設えられていたのに。


 一階を見下ろす広々としたホールに着いて、ずっと二階に居たことが解った。そこには調度品のひとつもなく、エントランスの正面にある大きながくは空っぽで、黴の臭いが充満していた。揺らぐ薄明かりが照らすだけの、灰色の空間。目に痛いくらい鮮やかな絨毯だけが赤さを誇り、廊下から階段を下りて、行くべき道を示すしるべとなっていた。


 微かな音が、屋敷の外から聞こえていた。〝夕暮れ〟を告げる鐘の音、自動牽引車オートキャリッジのエンジンが唸る音、骸炭発電機の地鳴りのような起動音。それは、この場所が現実と繋がっていることの証明だった。やっと実感し、確信を抱くことができた――世界最後の都市、ターミナルへ帰ってきたことを。


 一階の玄関を正面に見据えた左側の扉。赤い絨毯の導きは、その奥へと続いていた。渦巻のケルト紋様が施された胡桃くるみの扉をゆっくり開き、慎重に踏み入った時、薄暗い明かりのなかで一層と映える藍銅鉱アズライトの双眸がこちらを見詰め、無機質なボーイアルトが敬慕を歌った。


「お待ちしておりました、コラプサー様」


 §


 霊安室を思わせる、暗い部屋だった。中央には、薔薇の装飾が施されたマホガニーのダイニングテーブルと、一脚の革張り椅子が置かれている。主立った家具はそれだけで、持て余された広い空間には、湿った空気とアルメニアペーパーの燻る薫香が満ちている。明かりと呼べるものは壁際のブラケットランプと卓上の燭台だけで、隅まで影を照らすには、遥かに光が足りていない。火のない暖炉のマントルピースにはドライフラワーを挿した花瓶があり、香り紙を燃やす耐熱皿があった。古くは、食堂やサルーンとして使われていた部屋なのかもしれない。


「こちらにお座りください」


 コラプサーは、恭しく椅子を引いた藍銅鉱アズライトの瞳の少年を無視して、窓辺に寄った。理由のひとつは、細長いアーチ窓にはめ込まれていたのが透明なガラスで、外を見渡すことができたから。もうひとつは、そこに知らない人影が立っていたから。


 窓辺に立って、外を見た。〝夕暮れ〟の鐘が鳴ったのに、ひどく暗い――未だに夜が澱み続け、一向に去る気配がない。


 それは、当然だった。どれだけ遠く上を見ても、そこには空が存在していないのだから。灰色の雲も、朧な太陽も、果てることない雨さえも、見ることは叶わない。代わりに存在するものは、ひとつの街を覆い尽くす途方もなく巨大な防壁と、その表面で明滅する星空じみた誘導灯の瞬きだった。


常夜街とこよまち……」


 コラプサーは無意識に呟いていた。都市中枢部セントラリアの巨大な地下空間に存在する、ターミナルで最も暗い場所――あらゆる汚穢が最後に流れ着く、最も深い街の名前を。


「常夜街、フランス通り、赤地区、2345‐A――カードならいい上がり手だがな」


 はじめて耳にする声だった。コラプサーが視線を左に向けると、ひとりの男が煙草を薫らせながら窓際に佇んでいた。その疲弊した視線は、赤い街灯が照らすだけの暗い往来を見つめ、揺らぎさえしていない。また自律機械オートマタなのかとも思ったけれど、右の瞼から頬にかけて、生のつらにしか残らない惨い古傷があった。


 背の高い、痩せた、若い男。年齢はおそらく、二十代の中頃。染みだらけのカウボーイハット、厚手のダスターコート、茶色いチェック柄のベストとスラックス、使い込まれた滑車付きのブーツ。瞳の色は金褐色で虎眼石タイガーズアイを思わせた。肩ほどまであるザンバラ髪は遺伝子設計ゲノムデザインによる先天的な濃紺色で、毛先にいくほど灰色に褪色していた。


 男はゆっくりと少女に視線を移すと、「アンタがご主人様? まだ餓鬼じゃねえか」と不平を隠そうともせず言った――文字通り、高くから見下ろして。決して小柄じゃないコラプサーも、男の顎先にすら届かなかった。


「ムッシュ・アリュエット。コラプサー様への無礼な物言いは許されません」


 自律機械オートマタの少年が、椅子に手を掛けたまま感情のない表情で男を睨んでいた。男はつまらなそうに鼻を鳴らすと、「同情するぜ、アズール。こんな変異体のバケモノに奉仕するよう刷り込まれてるなんてな」

「ムッシュ・アリュエット。あなたのご主人様でもあるのですよ」


 強く咎める、ボーイアルトの声色。アリュエットと呼ばれた男は舌打ちして黙り、窓辺を離れると、冷たい灰が堆積するだけの暖炉のなかに煙草の吸殻を投げ捨てて、ぶっきらぼうな歩調で部屋をでていった。


 扉が閉まると、「彼は、この〝矢車菊の館シャトー・ド・ブルーエ〟の守衛を務めています。ご無礼のほど、どうかお許しください。一度、貴方に会っておきたかったのでしょう」と少年が言った。


 男が誰だろうと、コラプサーにとってどうでもいいことだった。理解が追いつかない物語の登場人物がひとり増えたところで、今更、興味も引かれなかった。知りたいことは、他にいくらでもある。コラプサーは踵を返して窓辺を離れ、部屋の中央へと戻ると、少年が手を掛けていた椅子に腰を下ろした。


 少年は、傍らに置いていたティートロリーから翡翠色ジャスパーのソーサーとカップを選び、テーブルに置いた。そして、アルコールランプで沸かしていたケトルの湯を、丁寧にポットへと注いだ。真っ白な湯気が立つのと同時に、芳しい紅茶の香りが立った。


「アズールって?」


 コラプサーは暗い天井へと昇っていく湯気のパターンを追いながら、興味なさげに訊ねた。


「ムッシュ・アリュエットは、僕をそう呼びます。非常に短絡的なあだ名です。自立機械オートマタは製造番号で呼ばれるのが慣例ですが、カスタムメイドの僕にはそれがありませんので――」


 藍銅鉱アズライトの目の少年はそう言いながら、ポットに香辛料を振り入れてた。クローブの花蕾からい、シナモンのロールスティック――化学精製のまがい物じゃない、本物のスパイスだった。


「――ですので僕のことは、お好きなように」

「なら、〝お人形ちゃんドーリー〟とでも呼べばいいわけ?」

「貴方が望まれるなら、どうぞ、そのように」


 蔑称で呼ばれても、少年は表情ひとつ変えなかった。マドラーでポットのなかを軽く混ぜてから蓋を閉じ、抽出が終わるのを待っている。コラプサーは、少年の取り澄ました態度と、紳士ぶった所作と、幼い容姿のすべて気に入らなかった。いっそなぶってやりたいと思うくらいに。


「お前の名前なんて、どうでもいい。アズールで十分でしょう」


 少年は静かに会釈を返し、アズールの綽名を受け入れた。気に入っているのか、不本意なのか、その機微を表情から読み取ることはできない。或いは、機械にとって、自分の呼び名なんてどうでもいいことなのかもしれない。擬人型自律機械エゴイック・オートマタが人間と同じ感情を持っているなんて話を、少女は信じていなかった。熱も冷たさもない、無機質な瞳を目の当たりにすれば、なおさら。


「そんなことより、聞きたいことがたくさんある」

「僕にお答えできることでしたら、なんなりと。ですが――」


 少年――アズールはナプキンでポットの持ち手を掴み、茶漉しストレーナーを使って紅茶を注いだ。翡翠色のカップが澄んだ紅色に満たされて、鮮やかな色彩の対比が生みだされた。白い湯気の細やかな粒子が燭台の明かりを受けて、きらめきながら拡散し、空気のなかに消えていった。


「――ですが、答えられることは多くはありません。申し上げた通り、僕の把握してる情報は限定的なものです。有体に言えば、ほとんどなにも知らないのです」

「……しらばっくれてるの?」


 コラプサーの双眸に苛立ちが熾き、藍銅鉱アズライトの瞳を睨めつけた。少年は淡々と、「僕には貴方を偽ることはできません、コラプサー様。それが、貴方にお仕えすることと共に定められた、僕の刷り込みインプリンティングプログラムだからです。自律機械オートマタである以上、それに逆らうことは不可能です」と応えた。


「それを信じろって? お前をバラして電脳ドライの記憶野を調べたほうが、話が早いかも知れないわね」

「貴方がそうなさりたいならば、僕は従うだけです」


 物怖じひとつしないアズールの態度が、少女の神経をますます逆撫でした。抑えがたく破壊の衝動が湧きあがり、気づけば手の甲が、幼気な頬をっていた。褐色の人工皮膚の一部が剥離して、黒い人工筋肉が露になり、カラメルみたいに甘く香る人工血液がじわりと滲んだ。


「……生意気な子供は嫌いよ。次にナメた口を利いたら、ほんとうにぶっ壊してやるから」


 怪物の憎悪を込めた声が、張りつめた薄闇のなかに響いた。赤い殺意がにわかに蠢動し、暗い火となって薔薇色の瞳に灯った。残忍な暴力性に従うことに躊躇いはなく、他者を傷つけたことへの後悔もない。それが人を失った結果なのか、それとも自分本来のさがだったのか、少女にはもう思い出せなかった。


 アズールの表情が、恐怖や苦痛に染まることはなかった。ただ目を伏せてこうべを垂れ、主の不興を買った非を詫びた。


「申し訳ございません。貴方の心中を慮る配慮が、足りていませんでした」


 理不尽に殴られた怒りも、人ならざる存在への怖れも、その声からは感じられない。傷を押さえることなく、滲む血を拭うこともなく、冷熱のないおもてを下向けている。けれどそれは、余裕があるからでも嘲っているからでもなく、そうすることしか知らないからにも思えた。見た目通りの、幼い子供みたいに。


「……もういいわ。知っていることだけでも、話しなさい」


 コラプサーはため息を吐き、そう言った。何も得るものがない時間が過ぎていくことに辟易しながらも、不思議と怒りは去っていた。少なくとも、この小さな少年が敵でないことは確かだと感じたし、侍らせておいて害があるとも思えなかった。もしほんとうに邪魔になったなら、その時こそ壊してしまえばいい。


「畏まりました、コラプサー様。ですが、その前に――」


 アズールは顔を上げた。藍銅鉱アズライトの瞳には、変わらず感情は浮かんでいない。


「――紅茶に、お砂糖とミルクはどれほど使われますでしょうか?」

「……ケチらず、たっぷり入れなさい。胸焼けするくらい、甘いのが好きなの」


 主の要望に従って、従者は容赦なく砂糖を溶かし、溢れるほどにミルクを注いだ。鮮やかな紅色は失われ、白いまでに濁ったどろどろの混合液が美麗なカップの内側で泡立った。


 コラプサーは、もう紅茶とすら呼べないそれにゆっくりと口を付けた。茶葉の繊細な苦みと豊かなコクはどこかに消えて、脳髄ウェットを痺れさせるくらい卑しい甘みが口のなかに広がって、シナモンとクローブの芳香は彼方の幸福な世界の匂いみたいだった。それは、かつて知っていた紅茶というものよりも、何倍も美味しく感じた――誰でもなく、少女にとっては。

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