Red Shift–06–

 すべてが暗転し、完全な闇が閾地いきちを覆い尽くした。何が起きたのかを理解するまで、少女は僅かに時を要した。その暗さは宇宙の外側に似て、夜を見通すライフレスの目であっても、黒の他に色を見出すことはできなかった。


 暗黒のわけは、灯台で燃えていた緑の篝火が消えたからだった。前触れもなく、突然に。けれど数秒の後にはもう、新たな光がもたらされ、まばゆい赤の色彩が久遠の黒を退けた。


 光は真っすぐな道を描いて拡散し、佇む少女の姿を照らした。全身が油臭い泥に濡れ、服は襤褸ぼろみたいにずたずたで、白雪の髪さえ黒く染まっても、瞳に灯る薔薇色のきらめきだけは衰えなく宿り続け、烈しい自我を主張している。その顔に、かつて街の軒下で目を伏せて、誰に気づかれることもなく、雨が過ぎ去るのを待つばかりだった頃の惨めさは、残っていなかった。たとえ同じように、汚れ果てていたとしても。


 光のみなもとは、火が失われた灯台の袂からだった。沼から昇る石の階段の先、灯台の内部へと続く重厚な扉がわずかに開き、その奥から赤い光が漏れでていた。脳を震わせる悪夢の響きが、いまではより確かに聴こえる。


 影の声が、少女に語りかけてきた。


「貴様は恐怖を征し、いまやその悪夢をかしずかせた。扉の向こうの〝欠片シャード〟に手を伸ばせば、閾地は閉ざされ、現実へ帰ることが叶うだろう」


 闇に溶けていた影がいつの間にか凝集し、ふたたび形となって頭上に浮かんでいた。ゆらゆら揺らぐ猫ような輪郭は光を浴びても暴かれず、影はずっと影でしかなかった。声は遠く、気配はなく、そこに存在していない蜃気楼みたいに。


 少女は足を踏みだして階段を昇り、漸く沼を抜けだした。旅の終点を前にして、逸る気持ちは抑え難くて。泥が入り込んだブーツを脱ぎ捨てて、足早に階段を駆けあがり、異端の彫刻細工が施された扉の前に至った。そこでは灯台のなかから聴こえる悪夢の響きが完全に明瞭になり、それは誰かの声だと気付いた。聴きなれた、最後の都市ターミナル標準語ベーシック。時折、耳障りなノイズが混じりながらも、確かな言葉として、脳髄に響いてくる。


「この声……」


 少女は呟きかけて、途中で言葉を飲み込んだ。自分の考えに、確証を持つことができなかったから。けれど、聞くだけで暗い記憶を沸立たせ、首筋の疼きと、自らの血の味を思いださせるこの声を、聴き違えることなんてあるだろうか。ちらつきはじめた不快な過去の残影を振り払い、少女は重い鉄扉を押し開けた。


 灯台の内部は、円形の狭い空間だった。外壁と同じく、異形に変異した生き物たちをあしらった彫刻が円形を描いて建ち並び、壁には嫌悪感を催す有機的なパターンがある。歪んだ螺旋階段が壁面に打ち込まれ、暗闇が居座る塔の上方に向かって伸びている。その先は、きっと頂上の焚火台へと続いている。


 けれど少女が求めるものは、目前に存在していた。遥か地下の闇を湛え、異端の文明の残骸が散在し、死者を怪物に変える瀝青が澱む世界の根源が。最後の都市ターミナルを冒し続ける、悪夢の欠片が。


 空間の中央に浮かぶ、赤い光を纏ったそれは、古びたレコード盤だった。光沢がある表面は摩耗して、黒い染みがあるラベルには〝J‐log2n‐004〟とペンで手書きされている。浮遊しながらゆっくりと回転し、プレイヤーもないのに、溝に刻まれているだろう音を、響かせ続けている。少女の心に忘れ難く焼きついた、あの声を。


〝ウサギの穴に迷い込んでしまったのかい、レディ?〟


 少女はそれを、あの男の声だと思った。雨のなか幻のように現れて、怪異を以って自分を殺した、シアンの髪と瞳を持つ男の声だと。けれど、そう断定できない違和感があった。レコードから聴こえる音声には雑音とノイズが多く混じり、声の調子も少女の記憶とどこか違っていた。あの時の――誘惑するような甘い響きはなく、悲壮感が漂うほどに真面目くさい声音だった。


『……都市中枢部セントラリア、外郭……、閾地の森スレッショルド・フォレストの……領域調査、……日目。記録者……の……。我々が発見したのは、広大な地下空間だった。おそらく、崩壊した……の……遺跡だと思われる。外つ神……と、眷属の痕跡。……遠方に、緑色の……が見える。黒い液体は瀝青に……ているが、その組成には……含まれ……これはかつて……現実に存……の変異に用いられ……抽出物は、都市においても……レスをはじめとする……れている。変異体は現在のところ発見……ジャックが調査し……これより、抽出作業に……』


 音声ログだろうか。声はところどころ潰れ、語る内容は漠然として掴めない。結局、この声の主がほんとうに青い目の男なのか、判別することはできなかった。けれど、もしそうだとすれば、このレコードこそ、すべての出来事の答えを得るための手掛かりとなるだろうか。


「その〝欠片シャード〟は、すでに貴様の支配下にある。手にすれば、或いは真実の一端を垣間見ることができるやも知れぬ」


 少女の背後から、影の化け物の遠い声が言った。


「漸く、帰還の時だ。この閾地を巡る旅は終わった。それともこれは、長く続いていく貴様自身の旅の先触れに過ぎぬのか? いずれにしても、我が導き手となるのは、ここまでだ。名残惜しくはあるがな」


 影は輪郭を震わせて、低く、くぐもった声で笑った。この化け物の正体も、最後まで知ることは叶わなかった。けれど少なくとも、悪くない旅の連れ合いなのは確かだったろう。ヘットがいなければ、未だに沼の暗闇を彷徨っていたかもしれない。


「お前ははなんなの?」と、少女は再び訊ねた。答えが得られることを、今度は少しだけ期待して。


「言ったであろう。あまねく悪夢を漂う形なき知性――ただそれだけの、矮小な影に過ぎぬ、と」

「これから何処に行くの?」

「この閾地が閉ざされれば、また別の悪夢へと渡り、事象を見つめ記憶するだけだ。それが我らの、存在する唯一の理由であるが故に」


 結局、何を知ることも叶わなかった。少女が小さくため息を吐くと、ヘットはまた楽し気に笑った。


「貴様には面白いものを見せてもらった。都市の永い記録において、これほど特異な悪夢を抱える者は、ごく稀だ。ともすれば貴様の存在が、最後の都市ターミナルの深い夜を、揺るがせることになるのだろうか」

「どういう意味?」

「戯言だ、忘れるがいい。――さあ、〝欠片シャード〟に命じ、現実への扉を開くがいい」


 ヘットは言葉を切った。少女にも、もう言うことはなかった。影から視線を逸らし、未だにノイズと赤い光を吐きだし続けるレコード盤に向き直り、その内側で脈動する怪異の断片を捉えた。地下深く、泥が澱み、死が沈む、誰かの夢の欠片を。


 少女は、瀝青の悪夢へと手を伸ばした。


 その瞬間、少女は重力を失って、虚ろな空へと逆さに落ちた。あらゆる時間が凍りつき、あらゆる景色が溶け落ちて、混ざり合っては消えていく。異端の遺跡、底のない沼、咽かえるほどの瀝青の匂い――閾地のすべてが押し流されて、世界で最も深い場所へと墜ちていく。すべての光と音とが失われ、宇宙の暗さと静けさが満ちあふれていく。世界が生まれるより前に、在ったもの――うたかたの暗い海が。


「貴様への餞別だ」


 すべてが炭酸の泡みたいに水底から湧いては弾け、遠い地上で新たな形が作られていく最中、どこかから影なる声の囁きが聞こえた。少女は遠のいていく意識のはじで、必死にその言葉を手繰り寄せた。


「貴様は自分が誰でもないと言った。命を失い、人を失い、名前すら失って、確かなものを何ひとつ持たないと」


 それは淡い声だった。けれど、くぐもるような不確かさはなく、生きた人の声のような鮮やかさを伴って、少女の脳裏に響いていた。


「そうであるならば、我が、名付けよう。人ではなく、〝命なき者〟としての貴様の名――最後の都市ターミナルの記録簿に、終天の向こうまで刻まれるしるしとしての、仮名かりなを」


 声が遠のいていく。意識は離れていく。少女はいや増していく落下速度に抗って、彼方に去っていく言葉に耳を澄ませた。


「赤い悪夢のライフレスよ、今よりこう名乗るがいい――」


 少女は水面へと打ち上げられて、暗い海の景色は泡の一粒として去った――まるで、つかの間の白昼夢みたいに。そして、ふたたびを重力が取り戻された時、少女の身体は赤いアフガン絨毯の柔らかさを感じていた。


 §


 見える光はたそがれたブラケットランプの薄明かりで、聴こえる音はピアノ弦が奏でる謎めいたヴァリエーションだった。


 まばゆい光に眩んでいた視力がゆっくりと戻り、エタノールの眠りから醒めた時みたいにぼんやりと周囲を見渡して、少女は此処があの部屋だと気付いた。赤いドレープカーテンを垂らしたベッド、ぎゅっと書籍が詰め込まれた書架、フラクタル模様のステンドグラス、懐古趣味なピアノラ。どれもこれも、憶えている――闇に包まれて何処かへと連れ去られる前に見たものと、同じだった。


 次第に意識がはっきりとして、絨毯から身体を起こし、まず疑ったのは自分の記憶と正気だった。あれは、阿片アヘンのまぼろしだったのかもしれない、睡魔がもたらした夢の一幕だったのかもしれない――怖ろしくも不思議な、暗い冒険のすべては。けれど、その疑惑が間違っていることは、すぐに解った。未だ匂い立つ泥と瀝青の残り香を感じ、視線を下せば、襤褸切れとなった服と油に塗れた手が見えた。豪華な赤い絨毯に、無残な黒い染みが残った。


 立ち上がった時、気味の悪い姿見に、ひどく汚れた自分が見えた。少女は不快さに表情を歪め、一刻も早く清潔な服を着たいと思った。そして、その時になって、以前にはなかった変化に気づいた。壁際に据え置かれたサイドボードの抽斗ひきだしのひとつから、真っ黒な液体が垂れ流れていた。それが、あの悪夢の沼に澱み、自らの身体にもまとわりついている瀝青と同じものであることは、直ぐに解った。そのサイドボードのなかには、ピアノラの自動演奏に必要なロールが積まれていたことを、少女は思いだした。液体が溢れでているのは、それよりもひとつ下の抽斗。


 サイドボードに歩み寄り、殆ど確信を持って抽斗を開けると、詰まった液体が溶けたチョコレートみたいにとろりと零れ、床を無慈悲に汚していった。少女は迷いもせず瀝青のなかに手をつっこみ、それを手繰って、掴み取り、引きあげた。


 そこにあったものは、一枚のレコード盤だった。閾地のなかで求め、手にしたものと同じ、この世ならざる怪異が封じこめられた悪夢の欠片。現実のそれは、宙に浮かぶこともなく、赤い光を纏うこともなく、なんの変哲もない記憶装置に見えた。けれど、記憶された音こそが、おぞましい夢の源泉なのだろう――刻み込まれた、青い目の男に似た声の語る言葉が。


 どうしてこれがここにあったのか、どうして自分を閾地へと誘ったのか。謎はまた増えていき、〝何故〟を問う内なる声ばかりが大きくなる。すべての疑問に、解答が得られる時は来るだろうか。


 それでもこれは、最初の手掛かりには違いない。かつて刻まれた声を頼りに道を探せば、あの男へと辿り着くことが出来るかもしれない。高ぶった殺意に自らの悪夢が応え、薔薇色の瞳が冷たく光った。


 その時、耳障りな金属音が、部屋に響いた。鉄の扉に、鉄のノッカーを打ちつける音。それはやはり、規則正しく四回鳴った。蝶番が軋みをあげて、重い扉がゆっくりと、やおらに、丁寧に動き、開け放たれた。


「ああ、やはり――」


 部屋に入りこんできた者が、まっすぐに少女を見つめ声を漏らした。


「――おかえりなさいませ、マイ・レディ」


 感情のない、ボーイアルトが歌う声。幼気な褐色の容貌。藍銅鉱アズライトを思わせる、不思議な髪と瞳孔のない瞳。使用人を名乗る、自立機械オートマタの少年が口元を微笑ませていた。


「閾地の旅はいかがだったでしょうか? ……ずいぶんと、満喫してこられたご様子ですが」


 黒い泥が散らばった部屋と、主人と呼ぶ人間の格好を見て、無機質な表情が微かに揺れた――或いは、そのように見えただけだったのかもしれないけれど。


「しかし、レディ――そのような姿はいただけません。当然あるべきリスペクタビリティが損なわれてしまいます」

「……うるさいわね」


 少女は粘つく前髪を掻き分けて、苛立ちながら語気を荒げた。少年はその様子を観察し、ふと思い立ったかのように言った。


「どうやら心落ち着かないご様子ですね。宜しければミレニアム社のシガレットなど、お持ち致しますがいかがでしょう? 鎮静剤を添加した銘柄がございますが」

「いらない。それより、お前――」


 少女は少年に詰め寄って、その華奢な身体をじっと見下ろした。見入りたくなるほど美しい藍銅鉱アズライトの瞳に、うんざりとした顔が映りこんでいる。少年に訊きたいことはたくさんあった。自分がここにいる理由、自分が生き返った理由、このレコードがある理由。どうして、どうして、どうしてと、いくら問い詰めても足りないくらいに。


 けれどいまはそれよりも、欲するものが他にあった。思えばあの日、冷たい雨のなかを駆けた時から、ずっとずっと、欲しかったものが。


「お前、わたしの使用人だって言ったわよね」

「その通りです、マイ・レディ」

「だったら、わたしの欲しいものを用意できる?」

「可能な限り、最大限、善処致します」

「そう、だったら――」


 少女は顔を袖で拭い、べったりとこびり付いた泥を見た。


「――だったら、熱いシャワーを用意なさい。今すぐ、この泥を落としたいの」

「畏まりました、マイ・レディ。すぐ、浴場にご案内致します」


 少年は恭しく頭を下げて、鉄扉を押さえて部屋を出るように促した。銃弾でも防いでしまえそうな厚ぼったい扉の奥に、暗い廊下と上等な絨毯の生地が見える。どれだけ汚しても、どうせ自分が困るわけでもない。少女は泥を吸った靴下で床を踏みしめて、さっさと廊下に出ようとした。


 そして、扉をくぐりかけて、主人が過ぎるまで律義に頭を下げている小さな姿に視線を向けた。少年はまさしく機械らしく、身じろぎもせず目を伏せている。あまりに整った顔立ちと慇懃な態度は、いっそ憎たらしいくらいだった。


「……忘れてるみたいだからもう一度言っておくけど」


 そう言った時、少年は顔を上げ、感情のない目を開いた。


「わたしを〝レディ〟と呼ばないで。その呼び方には、嫌な思い出があるの」

「でしたら、なんとお呼びすれば?」


 少女は立ち止まり、静かに記憶を想起した。


 今、自分には名前がない。それは奪われ、何処かへと持ち去られてしまったから。取り戻すまで、知ることは叶わない。きっと何より大切だった、自分自身の証明――人として生きた証。


 けれど、今、自分は人じゃない。命は潰え、悪夢によって目覚め、不死の怪物として現実に戻った。怪物にはきっと、怪物にふさわしい名前があるだろう。どうせ仮初かりそめならば、それを名乗ってもいいのかもしれない。


 少女は自嘲するように、小さく笑った。仰々しい名前だ、と思った。何処か暗い地下で出会った、正体の知れない化け物から与えられた名前。人を失った、〝命なき者〟のために贈られた名前。


「コラプサー」


 少女は影が囁くように、言った。


「コラプサーよ。そう、呼びなさい」




 Red Shift–赤方偏移– 終わり、


 The Wave Theory of Light–光の波動説– へ 続く。

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