Red Shift–05–

 焦熱の感覚が、首筋を貫いた。冷たい血が噴きだして冷たい泥の上へ零れ落ち、赤は黒の深さに飲まれて消え、見えなくなった。全き夜の世界で、灯台にともる緑の篝火だけが、唯一存在を許された色彩だった。


 少女は喪失しかけた意識を繋ぎ止め、その場から跳び退いた。そして、揺らぐ瞳で、恐るべき怪異を目撃した。黒い汚水を吐きだしながらおぞましく叫ぶ、四体の怪物――〝瀝青の恐怖〟を。


「こいつらは……」


 裂傷の痛みに呻きながら少女が呟くと、影の声がそれに応えた。


「死してなお駆動する亡者ども――貴様と同じく。おそらくは、この閾地いきちから逃れること叶わず、悪夢のコードによって変貌した人間のなれの果てだろう」

「これが、人間?」


 ヘットの言葉の通り、敵の多くの部分は人と同じ形をしていた。けれど、髑髏そのもののおもては、枯れた皮が張りつくだけのてあしは、異常に膨張した腹と獣じみて尖った爪は、この世のものではありえない。最後の都市ターミナルの深淵から這いだした有形の狂気がそこにあり、それがかつて人だった事実は、少女には忌まわしい虚誕だとしか思えなかった。人間が、これほど醜く変わり果てるなんてことは。


 それ以上、敵の正体について思索をめぐらす時間は、少女には与えられなかった。四体の怪物が、獣の爪をもたげながら迫りつつあった。氷のような戦慄が背筋を駆けあがり、思考を凍てつかせていく。


 敵の動作は、壊れたおもちゃみたいにぎこちなく、緩慢だった。少女は後ろに下がりながら敵との距離を保ち、首筋に手のひらを当てた。流血は既に止まり、負った傷は癒えつつある。普通の人間なら失血の衝撃で意識を失い、そのまま命まで取り落としてしまうくらいの深手だった。少女が得た不死の力が、死の抱擁を振りほどいていた。


 少女は、言い様のない不快さを実感していた。それは、心の内に刻み込まれた傷がもたらす、消しようのない疼きだった。無残に首を切り裂かれ、深いまどろみの底に沈んでいった時の、あの感覚――夜よりも暗くて、冬よりも冷たい死の記憶。こみ上げてくる嘔吐えずきを堪えられず、少女は血の塊を吐いた。


「やつらはとうに、人間性を喪失している。戦い抜かねば、貴様も閾地に囚われるだけだ」

「戦う……」


 遠く響く影の声を、少女は無意識に反復した。


「これより道は二又に分かれている。ただの二つだ。恐怖に殺されて、だが死なぬままに永遠に沼底に横たわる、行き止まりへの道か。貴様が殺し、ここから逃れでる帰還の道か」

「殺す……」


 その時、怪物の一体が、いままでの鈍重さが嘘みたいに機敏な動きを得て、宙に躍りあがった。灯台の光を爪の切っ先が反射して、妖しい軌跡が闇を裂いた。唸りながら振りおろされた凶器と、着地の衝撃で爆ぜる瀝青の泥。少女は身を躱したものの反応は遥かに遅く、左の肩口を深々と抉られた。飛散する自らの血を眺めながら、けれど少女の脳裏には、いつかの光景が回想となって浮かびあがっていた。


 思い出したのは、死の底から還り、ライフレスとして目覚めた時の記憶。あの時、夢の中にいるような心地のまま、ふたつの命を奪い取った。骨を砕いた手ごたえを、肉のぬくさと柔らかさを、弾ける血の鮮烈な赤さを、覚えている――はっきりと思いだすことができる。まるで紙屑を破り捨てるように、それは容易いことだった。


 そうしている間にも一体、また一体と怪物が迫り、瀝青を吐きだしながら狂った喚き声をあげ、異形の腕を振り回した。泥の深みに足を捕られて、少女は逃れ切ることができなかった。幾筋かの線として感じる痛み、粒子として空気中に溶けていく血の粒。少女は後ろに下がる、敵が追いすがる。少女は後ろに下がる、敵が追いすがる。


「悪夢を呼び起こすのだ。死のさだめに抗うための、まつろわぬ不死の力を。以って、存分に殺すがいい」

「殺す……」


 いつしか少女は、泥に覆われた道の端に追い詰められていた。背後では、底のない沼が大口を開け、無限の胃袋に獲物が落ちるの待っている。前方からはよっつの恐怖が歪んだ身体を左右に揺らし、じわりじわりとにじり寄ってくる。


 怪物たちの息遣いは荒々しく、叫ぶ声は正気を冒すほど凄惨だった。緑の光が一切を染めあげる灯台のたもとで、あれほど確かだった地下の静寂は去り、血の流れる鬼ごっこの狂騒が響いて、満ちている。けれど、すぐに、静けさは取り戻されるだろう。鬼が獲物を、狩ったならば。


 泥に塗れ、血に塗れ、全身を苦痛が貫いて、今、少女の心は平静だった。なだらかな水面みたいに、冷たく、穏やかに、凪いで。怪物への慄きは、すでに何処かに去っていた。恐怖はもう、感じなかった。少女は自分が変わったことを、いま一度知った。かつてなら、震えて惑い、逃げ回るだけだったろう。無力に打ちひしがれ、絶望を募らせるだけだったろう。けれど、いまは、違う。どれだけ傷つき疲れても、身体が倒れることはなく、薔薇色を灯す瞳は、揺らぎさえせず敵を睨み続けている。どんな〝おそれ〟も、そこにはない。それは死を経験したからなのか、それとも石みたいに動かない心さえ不死の力の一部なのか。どちらでもいいことだった。襲い来る酷薄な現実を、捻じ曲げられるならば。逃れようのない恐怖さえ、征服する力があるならば。少女の最も深い領域で、赤い悪夢が蠕動をはじめた。


「殺す」


 四つの怪異が呪いを叫び、襲い来た。波立つ泥沼と、空を裂く凶器と、堰を切る殺意の奔流。悪夢のなかで育まれた瀝青漬けのミイラたちの怨念が、少女を引き裂こうと放たれて、結局、届くことは、なかった。


 少女の速さは、まるで影だった。闇のなかを滑るように跳躍し、瞬く間に包囲を抜けて、敵の背後に回り込んだ。獲物の姿を見失った怪物たちが振り返ろうとした時にはもう、風より速くて鉛より重い手刀が、四つの首を折っていた。ミイラは黒い泡を吹き、呻きさえなく泥に斃れた。一瞬の静寂が、闇のなかに取り戻された。


 けれど、それで終わりじゃなかった。間もなく怪物は起きあがり、再び少女と対峙した。不自然な角度に首を垂らしながら、爪に滾る殺意だけは衰えずに。手負いとなって、さらなる凶暴性を掻き立てられ、より激しく爪を振るった。尤もそれは、追い詰められた被食者の今際いまわの抵抗に似て、詮無い徒労のようでもあった。


 怪物の魔手が、少女を捉えることはなかった。反撃に転じたライフレスの残忍な一撃が敵を打つたび骨を砕き、瀝青と体液の混合物を吐かせた。もとより歪な骨格は、人型を保てないほどにねじ曲がり、割れた頭蓋のひびからは、黒変した脳漿が流れでた。

 

 人ならざる者たちの、おぞましい戦い。不死者と不死者の、果ての知れないたたかい。どれほど重い損傷を受けても、四つの怪異が動きを止めることはなかった。頭を抉られ、せぼねを潰され、脚を圧し折られても超常の力によって起きあがり、衰えることなく暴れ続けた。少女は死なない者を殺す手立てを求め、影のなかに呟いた。


「殺す、殺す……どうすれば、殺せる?」


 紅い服は黒く染まり、色は失われていた。代わりとして、薔薇色の瞳は光を湛え、闇を鮮やかに彩っていた。明けることない夜に掲げられた、少女自身の灯火として。


 影なる声が囁くように、「吸血器きゅうけつきを使え」と言った。


「吸血、器?」

「或いは、瀉血の魔具ブラッドレターとも呼ばれる、ライフレスの力のひとつ。この世ならざる存在すら殺す、悪夢から抽出される気恐けおそろし得物。悪夢を制すことが叶うのは、より暗い悪夢だけであるが故に」


 少女は絶え間ない敵の攻撃を掻い潜り、飛び退いて大きく距離を取った。かつて止まった心臓が鼓動して、冷たい血が全身を巡る。霊脳コールドから迸るシグナルが、暗い力を喚起する。少女は、自らの悪夢へと手を伸ばした。


 少女の右手を取り巻くように時空間が溶け崩れ、その残骸から小さな閾地いきちが構成された。赤い悪夢へと繋がる、密かなる隧道が。そこからは、聞くに堪えないほど呪わしい歔欷すすりなきの音が響いてくる。少女は閾地に右手を差し入れて、己が悪夢のなかを手繰った。消しようのない過去の疼痛のなかから、湧きあがる暗い感情のなかから、生まれたばかりの赤い宇宙のなかから、それを抽出し、掴みとる。そして、引き抜いた時、血のように真っ赤な剣が、握られていた。氷煙をふりまく、ドライアイスのように冷たく凍てついた剣。見るもおぞましく、否応なく命を吸うための、〝命なき者〟の凶器。


 少女は剣を水平に構えると、影をまとう疾風はやてとなって敵に迫り、勢いのまま剣を突きだして、最初の獲物を串刺した。心臓を貫かれた〝瀝青の恐怖〟は、いままでにない苦悶の叫びをあげ、砕けた四肢を痙攣させた。瀉血の魔具が、穢れた命を吸いあげていく。赤い悪夢が恐怖さえ噛み砕き、食餌しょくじとして飲み込んでいく。


 そして不死の怪物は、ほんとうの滅びを迎えた。もう動くことも、声を上げることもなく、黒い油がこびりつくだけの死骸となった。枯れ果てた身体は、死にながらに生きた永い時間を消費するように急速に劣化して崩れ、沼に堆積する汚泥の一部分となった。


 残る獲物は、あとみっつ。


 同類の消滅を見てもなお怯むことのない怪物たちの只中に、捕食者は飛び込んだ。赤い光が閃くように奔った時、間近の敵の膨れあがった腹が裂け、溜まった瀝青と黒くふやけたはらわたがあふれた。


 あとふたつ。


 ふたつめの不死が崩れ落ち、泥に還ったのと同時に、次の敵が惨たらしい歯牙の並ぶあぎとを開き、肉を食い千切ろうとした。少女は素早く身を躱すと、そのまま脇をすり抜けて、背を向けたまま後ろ手の敵を刺した。まもなく命を吸い尽くされて、みっつめの不死が朽ち果てた。


 あと、ひとつ。


 凶悪な爪と赤い剣が重なって、火花が舞い散った。最後の怪物は先の三体より大きく、強く、膂力を以って少女を圧し潰そうとした。互いの凶器が軋みを叫び、次第に鍔迫り合いの均衡が失われていく。怪物が咆哮し、その眼窩から、鼻孔から、口角から瀝青が噴きだして、理外の怪力が放たれる。凄まじい衝撃を受けて、少女の下腿が泥中に沈む。そして、高々と掲げられた爪が断頭の刃のように振り降ろされるのを、薔薇色の瞳は瞬きすらせず睨んでいた。地の平面を擦れながら走った赤い剣が、敵のすねを断ち、態勢を崩された怪物は勢いを殺し切れず、沼に突っ伏した。跳ね飛んだ泥が遠く落ちて、黒い水面が弾けた。その時、すでに、少女は敵の背後に立っていた。


「死ね」


 それだけの、処刑宣告。高慢な女王の、審判みたいに。〝瀝青の恐怖〟が上体を起こした刹那、赤い弧が描かれて、瀝青漬けの脳漿が詰まった頭蓋がぼとりと落ちた。栓を失った首からは、ねっとりと重い粘液が垂れていた。すべての獲物ゲームは狩り尽くされて、ここに鬼ごっこゲームは終局した。


 戦いの狂騒は過ぎていき、地下の闇に静寂が戻った。聴こえるものは、微かに乱れた少女の息遣いだけだった。緑の篝火に照らされて黒い沼に伸びる影は、ふたたび唯のひとつとなった。


 泥に塗れ、血に塗れ、あらゆる傷はいまや癒え、少女の顔は笑っていた――青ざめた唇の隙間から、尖った犬歯をのぞかせて、殺戮がもたらした高揚の名残に浸りながら。


 怪物は滅び、真の怪物だけが残った。

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