Red Shift–04–

 光が途絶えた地下の闇は、夜を煮詰めたシロップみたいにねっとりと甘やかだった。地の底から湧きだす影がその腕を伸ばし、領域の外に在るものを引き摺り込もうとしているみたいで。あらゆる色彩が失われた世界に頼るべき標は無く、果てを知ることすら叶わない。ただ進むたびに増していく瀝青れきせいの臭気が、終点が近づきつつあることを暗示しているようだった。


 目に映るものは、ただ一面の黒い沼と、揺れることすらないフラットな水面。腐った植物の残骸と、得体の知れない骨片と、沈みつつある積み石の塚。


 往く道は深く堆積した泥によって覆い隠されて、歩くほどに粘っこさを増していった。道を踏み外せば、底知れない汚泥に飲み込まれ、永遠に暗い場所に囚われてしまう。この沼の底はどれだけ深く、どれだけ多くのものが澱んでいるのか、それを窺い知ることはできない。


 それでも、そんな圧倒的な暗闇が満ちた場所にあって、少女は恐怖を感じることもなく、薔薇色の瞳は視力を失うこともなかった。それはきっと、少女が命なき者だから故に。


 少女は道を歩みながら、影の化け物にこれまでの出来事を語った。


 青い目の男のこと。〝命なき者ライフレス〟になったこと。眠りから覚めた時の不思議な部屋と、突然、闇に包まれて、気づけばこの暗い場所にいたこと。


 あまりに多くのことが起き、そして性急に過ぎていった。理解し得ないまま、記憶に刻む暇もないままに怪異に襲われ、気が付けば暗い閾地いきちに囚われている。鬱屈する感情と、謎だけを残して。


 自分は殺され、名前の記憶を盗まれた。何故? 自分は死に、命なき者となった。何故? どれだけ自分に問うても解答は得られず、やりきれない苛立ちが募っていった。


 少女は、影の化け物がその問いに答えてくれることを期待してはいなかったし、確かに求める返答は得られなかった。


「貴様も知っているだろう。悪夢抽象学ナイトメア・アブストラクションのテクノロジーによって組み立てられた最後の都市ターミナルには、あらゆる怪異が溢れている。冒涜的な実験、暗い路地に潜む怪物、狂い果てた異常者たち――ライフレスもまた、そうした都市の一面に過ぎない。ここでは如何なる不可思議も起こりえぬことではなく、昨日の幻想が今日には現実となり、また明日の新たな恐怖に塗り潰されていく。人々は〝何故〟を問う間もなく、枯死していくしかない」


 影なる声は曖昧な残響を伴い、夜そのものが囁くように。


「貴様は幸運だ、幼きライフレスよ。死してなお駆動する身体を以って、都市の闇を見渡し、悪夢のなかに〝何故〟の答えを求めることができるのだから。或いは、だからこそ、貴様が不死者となるべく定められたのかも知れぬがな」

「……言ってる意味がわからないのだけれど」


 少女はヘットの言葉を追いながら、黒さを増していく沼に沈んだ道を辿った。粘度を増していく泥が靴底にべったりと貼りついて、歩みを阻もうとしている。身体が疲れることはなくとも、いつ終わるとも知れぬ行脚が思考を鈍麻させた。あまりに単調で、あまりに暗い冒険が、五感を曖昧にしていった。


「〝欠片シャード〟……それを見つければ、ここから出られるって言ったわよね?」と、少女は訊ねた。


「それはなんなの?」


 影の化け物が振り返り、再び空気を震わせた。


「〝欠片シャード〟自体は、只の記憶媒体ストレージに過ぎない」

記憶媒体ストレージ?」

「書籍、ディスク、電脳の記憶野といった、ありふれたハードウェアだが、重要なのは中身だ。何者かの脳髄に刻まれた、この世ならざる知見――最後の都市ターミナルの、触れるべからざる神秘についての知識。悪夢の欠片とも言うべきその記憶こそが、〝欠片シャード〟の本質だ」


 緩やかに回転しながら降下したヘットが、少女の目の前を漂った。ライフレスと影の化け物の間に生じた反発力が、白い髪を波打たせた。


「故に〝欠片シャード〟は悪夢と同じ性質を持つ。境界を溶かしながら現実を侵食し、時空間を崩壊させる。そうして崩れ落ちた現実と、滲みだした悪夢のソースコードが混ざり合って再構成され、閾地いきちとなる――世界の狭間に生じた隧道トンネルにな。この場所も、そうした閾地のひとつだ」


 少女は言った。


「閾地のことは、知ってる。最後の都市ターミナルの外に広がる場所がそう呼ばれてて、街のなかにも時々、現れる。湾口地帯ハーバー・エントランスの路地に入口が開いて、人が消えるのを見たことがある。……自分がそうなるなんて、思っていなかったけれど」と、少女は手をひらひらと振って、ヘットを追い払った。霧散した影は少しだけ離れた位置でまた凝集して猫に似た形となり、言った。


最後の都市ターミナルの現実はあまりにも脆弱だ。一度バラバラの断片となった全てを、無理につぎはぎしたものに過ぎないのだからな。いつ、どこで綻んでもおかしくはない。だが貴様がこの地に囚われたのは、貴様自身が扉を開いたからだ」

「……どういうこと?」

「すべては定かならぬことだ。しかし、推理することはできる」


 勿体つけるようにゆっくりと、ヘットが言った。断定的に、確信的に。


「悪夢の性質を有するものは、互いに引き寄せあい、近づくほどに大きく反応する。悪夢の断片を封じた〝欠片シャード〟と、己が内に悪夢を抱える〝命なき者ライフレス〟。つまり、貴様の存在が〝欠片シャード〟を活性化させ、浸食を引き起こし、閾地への扉を開いた」


 影の塊が渦巻くように、少女の周りをくるくると舞った。宙に浮かぶ影の粒子が航跡雲みたいに伸びてゆき、黒いリボンとなって少女を飾り立てた。


 少女は、あの不思議な部屋で見たものを思い起こしていた。貴族趣味のベッド、古ぼけたピアノラ、気味の悪い鏡――そしてなにより、藍銅鉱の髪と瞳を持つ機械人形の少年を。あの場所に、ヘットが言う〝欠片シャード〟が在った?


 あの少年を遣わした存在なら、すべての問いに答えられるのかもしれない。或いはその存在が、今の状況を作り出した者なのかもしれない。けれど、なんの為に?


 最後の都市ターミナル、途切れた記憶、青い目の男、悪夢、ライフレス、閾地、影の化け物、欠片シャード――すべての点が、どこかで繋がっている。それは解っている。けれど点と点を繋ぐ線がなんなのか、繋ぎ合わされた線によって描かれた図形がなんなのか――それは未だ、解らない。


 少女は影を追って歩み続けた。周囲の暗さはますます深まり、瀝青の匂いは耐え難いくらいに強まっていた。歩くたびに飛び跳ねた泥はコートの裾にべったりと貼りついて、鉛の重さを伴ってのしかかった。


 いつからか、溺れるくらいに濃縮された闇の彼方に、微かに揺らめく緑の光点が見えていた。影の化け物の導く声が、真っすぐにその場所を目指している。あれが、きっと、終着点ターミナル――求めた場所だ、と少女は思った。ここに至るまでに、どれくらい時間が過ぎ、どれくらい距離を歩いたのか。現実を支える定理が崩れた世界において、それを問うことに意味はないのかもしれないけれど。


 少しずつ、僅かず遠く見えていた光点が大きくなり、やがて妖しい光に照らされた全貌が露わになった。少女は立ち止まり、その巨大な構造物を見上げた。


 それは、緑の炎を宿した灯台だった。黒い沼から隆起した土台の上に立ち、70フィートを超える高さまでそびえる石の四角柱。黒い油脂にぬめる壁面に刻み込まれた異形のレリーフは、吐き気を催すような醜悪なモチーフを描いている。なにを象ったかも解らない、未知の星座群。人と、獣と、腹足動物たちが蕩け、混ざり合い、誕生した嵌合体キメラたち。それらが崇め奉る、全容の掴めない超越的な存在のシルエット。沼地に踏み入る前に目にした石像と同じ、異端の文明と信仰の遺物。巨大な記念塔オベリスクは、汚泥に濡れた矮小な姿を見下すように、少女の眼前に立ち塞がっている。


 自らの悪夢が騒めくのを感じ、少女は掌で胸を押さえた。熱された水が、ふつりふつりと気泡を発するような微かな気配。振動としてじゃなくて、直接、脳髄を震わせる不可知の鼓動。誰かの悪夢の存在を、この灯台から感じる。


 緑の炎に照らされてなお影としての姿を失わないヘットは、少女の横に並び、色のない双眸で塔を見上げて言った。


「この場所に〝欠片シャード〟の実体がある。それを手にすれば、現実に帰還する道が開けるだろう」


 灯台を支える土台には、沼へと沈む階段が伸びていた。そこから真っすぐ伸びる短い道の先に、灯台の内部へと続く扉がある。その先に、きっと求める〝欠片シャード〟がある。旅の終わりは、もうすぐそこまで迫っていた。


 少女は一歩を踏みだし、二歩を踏みだし、三歩目を踏みだそうとして、歩みを途切れさせた。静寂が横たわる黒い沼からは足音が途切れ、遠い風鳴りだけが残った。燃えさかる緑の篝火は音もなく揺らめき、どこかから零れる水音の残響は、遥か彼方に去っている。少女は最初、それを幻聴だと思った。この暗い地下において、なにかの蠢動が聴こえるはずないと、誰かの息遣いが聴こえるはずないと。鈍っていた五感が、刃の鋭さを取り戻した。そして、再び足を踏みだそうとして、少女は気づいた。


 少女が立つ、沼に沈んだ道の両側――揺るぎさえしなかった冷たい水面が、いま微かに波立っている。それは舞い落ちた枯れ葉が立てるくらいの、ごく小さな波紋に過ぎなかった。けれど、どれほど些細なものだとしても、これまでにない出来事だった。普通の人間なら、決して気づくことができなかった変化――闇を見通す目を持つ者じゃなければ、気づけなかった小さな変化。


 少女は宙に漂うヘットを見た。闇に浮かぶ二つの虚穴に表情はなくとも、くぐもった笑い声が、隠しえない喜色を表していた。影の化け物は、きっと最初から知っていた。


 訝る薔薇色の視線をヘットは見つめ返し、嘲るように言った。


「我は言ったはずだ、この道には恐るべき障害が横たわっている、と」


 水面に広がるいくつかの波紋が次第に大きくなりながら、迫りつつある。今や、骨肉がきしむ歪な音と喘ぐような苦し気な呼吸が、水底から泡と共に浮かび上がってくる。悪夢の深淵から、這いだそうとしている――その恐怖が。


「あまねし悪夢には、あまねし恐怖が。瀝青の欠片には、瀝青の恐怖が。それに打ち勝ち、支配することができなければ、あの扉が開く事はない」


 それらは黒い沼へと達し、泥のなかをのたうち、這いまわった。深く沈んだ堆積物が撹拌され、おぞましい死臭と瀝青の臭いが立ちのぼった。飛び散る汚水と汚泥の奥に、ごぼごぼと溺れるような声が混じった。


「叶わなければ、夢の底に沈み、恐怖の一部となるしかない。永遠に暗い世界で、かつて迷いこみ、囚われた者たちと共に」


 そして、道の端へと至った。泥のなかから飛びだした腕は針金のように細く、長く、鋭かった。泥に覆われた道を踏みしめる足は、無残に枯れた細木のようだった。落ちくぼんだ眼窩、削ぎ落ちた鼻、汚らしい歯を剥きだした口――穴という穴から瀝青の墨を垂れ流し、腹だけは水死体みたいに膨れ上がっている。


 それらはかつて、人だった。今は、違う。悪夢に囚われ、底知れぬ闇に絡めとられ、二度と光を見ることもなかった、人の残骸。瀝青の泥に溺れ、腐ることも許されず、濡れたままに渇き果てたミイラたち。迷い人を沼底に引き摺りこみ、自らと同じ運命を辿らせようとする、恐怖の拡散者たち。


 瀝青の悪夢が、少女を蝕もうとしていた。


「さあ、貴様の力を見せるがいい。幼きライフレスよ」


 影なる声が言い終えた時、動く死者たちの異形の爪が、少女の白い首へと伸びた。

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