Red Shift–03–

 どれだけ歩いても降り積った灰と塵が尽きることはなく、乾いた風は次第に強さを増していくように思えた。周辺に広がっていた灰色の遺跡は姿を消し、それに代わって、枯れ果て白化した森が現れる。道の両脇には、人間と獣の交配種じみた奇妙な石像が並び、異形となったおもてで存在しない空を仰いでいる。まるで祈りを捧げているみたいに。


「なるほど、貴様はライフレスとはいえ、目覚めたばかりであるようだ。それが故に欠片シャードを励起させ、閾地いきちの侵食に飲みこまれてしまったというわけか」


 生きる者の気配なんて、微塵も感じられないモノクロームの景色。だのに少女はこの場所に、あの湾港地帯ハーバー・エントランスの往来を重ね合わせていた。雨に映えるネオンはなく、仮面の人ごみはなく、忌まわしい思い出はなくとも、ここには退廃と老衰が濃厚に満ちている。何処とは知れなくとも、最後の都市ターミナルとの隠しえない絆を感じ取ることができる。ここは街から程遠く、同時に街のなかでもある。


「それは偶然だったのか、それとも何者かが故意に誂えたことなのか。いずれにせよ、これは貴様が望んだ状況ではないはずだ」


 不自然なくらい等間隔に並ぶ街灯は途切れることなく、ずっとずっと先までを照らしている。灰色の世界に浮かぶ、緑の道標。それは全てが風化していくなかで、唯一異質な存在だった。古びてはいても壊れているものはひとつとしてなく、ネオ・ヴィクトリアン様式のデザインは最後の都市ターミナルのそれに酷似している。その事は、なにか重要な真実を示唆しているのだろうか。


「現実に帰りたいのであろう? 我には世界の法についての知識と、道を歩む術についての知見がある。貴様を教え導いてやってもよいのだぞ」


 進むたびに異形の石像は醜さを増し、名状しがたい特徴を表しはじめる。頭蓋は貝殻となり、手足は触手となり、にも関わらず、その姿には人の名残りがある。それは石塊いしくれに過ぎないのに、異様な存在感と有機的な生々しさを以って、世界の定理を壊していく。人と、獣と、腹足動物――決して混ざるはずのないものが境界を失って溶け合い、正気を冒す狂気の芽を育てている。


「信用できぬか? 我は己の真実性を証明する手立てを持たぬし、またそうするつもりもない。立ち止まって我が言葉を聴き入れるのも、或いは孤独に彷徨い歩くのも、すべては自由だ。だが、選択の賢愚がいずれにあるのかは、自ずから明らかだと思えるがな」


 枯死した白い森、生命から乖離していく石像、妖美な緑の街灯。歩き始めてからどれだけが過ぎたとして、時間と距離の正しさを測ることはできない。道は終わりなく続くようで、緩やかになにかに近づきつつある。空気は次第に湿り、不快な刺激臭を帯びてきている。それもまた、最後の都市ターミナルでは馴染み深い匂い――死体の防腐処理に用いられる瀝青れきせいの匂いだった。


「求めるならば、我が知識の一片を分け与えてやることができる。その為に、貴様が支払うべき対価は僅かなものだ。たったひとつ、我が問いに答えればそれでよい」


 やがて、崩れかけた石造りの門が姿を現した。その先に道はなく、緑の灯火の導きは途絶えている。木々は疎らとなり、石像は溶け崩れて形を失っている。門が近づくにつれ、灰と塵の広がる地面がぬめりだし、黒く粘っこい泥に変わりつつあった。それは濃厚な瀝青れきせいの臭気を放ち、インクをぶちまけたみたいに、灰色の世界を黒く染め変えている。


「――いま一度訊く、貴様は何者なのだ?」


 少女は、足を止めた。門の上から、影の化け物が色のない目で見下ろしている。向かい風が、白い髪をなびかせ、黒い輪郭を揺らした。


 ――自分は何者なのか。


 少女は得体の知れない化け物にかまうつもりはなかった。けれどその問いは、不快な自問となって残響し、脳裏から離れなかった。まるで呪いの言葉みたいに。


 自分自身について語れることなんて、多くはなかった。覚えていること、知っていること、それは殆どがバラバラの断片で、掴みがたい羽根みたいに、抜け落ちたなにかの一部でしかない。ダチュラの香りが導く喪失の記憶、アブサンの香りに満ちた憂鬱な記憶。どれだって、特別な物語じゃない。最後の都市ターミナルではありふれた、陰惨な日常でしかない。来る日も来る日も、雨を避けながら眺めた灰色の雑踏――街にひしめく幾億の影と同じく、老い疲れて終わりを待つだけの小さな芥子粒。少女にとって、自分とはそんなものだった。


 或いは今なら、それを否定できるのかもしれない。


 最後の都市ターミナルの夜に巣食う、不死身の怪物――ライフレス。自律機械オートマタの少年と影の化け物は、そう言った。無力のまま死に、悪夢と繋がり、力を得て生き返った今なら、無くした過去を取り戻す術があるのかもしれない。確かな自分を見つけることができるのかもしれない。未来になら、回答があるのかもしれない。


 けれど今はまだ、少女は何者でもない。雨が降りしきる街と何処ともしれない地下――その違いはあっても、暗い世界をただただ彷徨い歩いている。自分自身とイコールで結びつくものなんて、ひとつしかなかった。


「わたしは――」


 自分自身の、名前。失ってしまった過去とのささやかなよすがで、かつて誰かが与えてくれた言葉で、それは確かに少女だけのものだった。


「わたしは――」


 少女はそれを告げようとした。他になにもなくとも、自分が自分だと証明するための、ほんの短い音の連なりを。


 けれど、それは叶わなかった。


「わたしは――わたしの名前は、なに?」


 少女は手で、目元を抑えた。立ち眩みを感じ、重心を失ってよろめいた。こんなに激しく動揺したのは、目覚めてからはじめてだった。


 どれだけ記憶を辿っても、過去の追想に求めても、どこにもそれ見つけることができなかった。少女は、自らの名前を失っていた。


 冷たい血が全身を巡り、息をすることも覚束なかった。巨大な喪失感が、指先を震わせた。

 

「思い、出せない……」


 くぐもった影の声の応答を、少女は聴いていなかった。何度も何度も、記憶の底を浚う作業を繰り返した。すべては、虚しい徒労に過ぎなかった。いったい、いつ落としてしまったのだろう、何処で失くしてしまったのだろう。どれだけ多くを奪われても、それだけは大切に握りしめていたはずなのに。


 鋳鉄の手術台と白づくめの三人、ホテルのベッドと獣欲を隠した仮面、電光と雨粒が混ざり合う街路。覚えていた、覚えていたはずだった。あの瞬間――人間としての自分が終わった、あの刹那までは。


「あの男……」


 あの日の夜、雨のなか現れ、現実を壊し、少女を殺した、あのシアンの瞳の者――白いスーツを纏いロイヤルブルーの傘を差した、滑らかな美貌の青年。あの男が頭蓋を切り開き、奪い去った。死せる脳髄ウェットと、停止した電脳ドライのなかから、確かな自分と言えるものを。


 それは根拠のない直感でしかなかった。もしかすれば、トラウマが育てたパラノイアに過ぎないのかもしれない。それでも、少女は確信してしまった。


「あいつに、奪われた……」


 暗い感情が、胸の奥深くでのたうった。赤い悪夢が、現実の向こうで脈動した。動揺が過ぎて、狂おしい憎悪が訪れた。自らの首を掻きむしりたくなるほどの消し難い怨毒が、心に深く滲みわたっていく。


 少女は呪った。自分を殺し、自分を奪った者を。


 少女は決した。奪われたものを、奪い返すことを。


 そのためには、この場所から逃れ、現実へと帰らなければならない。


「なるほど、やはり貴様は興味深い」


 気が付けば猫じみた影の塊――ヘットと名乗った謎めいた化け物が、目の前を浮遊していた。そんなに近くにいてもなお、くぐもった声には距離感というものがなく、どこか彼方から響いてくるようだった。


「赤い悪夢を抱えた、名前の無い怪物か。この常夜とこよの世界に如何なる爪痕を残すのか、是非とも見定めたい」


 薔薇色の瞳と色のない目が交錯した。


「貴様は我が求めに応じ、対価を納めた。よってこれより先は、我は貴様の導き手となろう」

「……なんの話?」

「貴様は答えたではないか。〝自分は何者でもない〟と」


 意地の悪い笑い声が、空気を震わせた。なにがそんなに面白いのか、少女には理解ができなかった。


「……お前はなんなの?」

「あまねく悪夢を漂う形なき知性だ。誰も我らの起源を知らぬし、我ら自身も知らぬ。ただいつからか存在し、常に最後の都市ターミナルと共にあった。街の現実と悪夢に隠匿された秘密を盗み見ては、それを記録する。そして稀に貴様のような迷い子に出会っては、道を示してやることもある。たったそれだけの、矮小な影に過ぎぬ」


 そう言うとヘットは宙を泳ぐように移動して、少女の眼前から右隣に移った。正面には、緑の篝火に照らしだされた石造りの門が口を開いている。そこには地下の暗闇が濃厚に張りつめて、辿るべき道もない空間が広がり、呼吸すら厭わしくなるくらいの瀝青の匂いが漂っている。踏み入るには、愚かしい勇気か、或いは誰かの助けが必要なのかもしれない。光すら無いこの先に、なにが待つとも知れないのだから。


「貴様がすべきことはこの門をくぐり、閾地いきちの根源たる欠片シャードを求めることだ。だが心するがいい。途上には悪夢によって育まれた、恐るべき障害が横たわっていることだろう。……もっとも我が言葉を信ずるも疑うも、貴様次第ではあるのだがな」


 暗い光を湛えた少女の視線が、ふわふわと浮かぶ影の化け物をじっと見つめた。闇によって編まれた顔に表情と呼べるものはなく、風に吹かれて輪郭が揺らいでいるだけだった。理解の及ばない存在であっても、そこには確かに意志の重力を感じる。


 少女はヘットを信用しなかった。それは、相手が化け物だからじゃない。誰も信じてはならず、時には自分自身さえ疑うことが、最後の都市ターミナルの暗黙の掟だった。そうでなければ都市の残忍な夜に、瞬く間に飲みこまれてしまうのだから。


 決して、ヘットを信用することはない。けれど少なくとも、この不可思議な場所についての知識を持っていることは、確かだと思えた。たとえ疑わしくとも、現実に帰るための微かな手掛かりを、あえて手放すことはしたくなかった。


 帰らなければならない。帰って、そして、あの青い目の男を見つけなければ。


「〝汝らこの門をくぐるもの、一切の望みを棄てよ〟。思い定まったのならば、足を踏みだすがいい」


 ヘットの姿は濃密な地下の影に溶け、見えなくなった。虚無を宿す双眸が、暗闇にふたつの穴を穿ちながら、少女が追ってくるのを待っている。


 少女は薔薇色の瞳で、行く先を見据えた。粘つく汚泥の感触をブーツの底に感じながら一歩を踏みだし、そして門を越えて黒い沼地に踏み入った。

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