Red Shift–02–

「ここは何処?」と、少女は訊ねた。


「ここは〝矢車菊の館シャトー・ド・ブルーエ〟の35号客室です。現在もそうである、とは言えない状況ですが」


「どうしてわたしはここにいる?」と、少女は訊ねた。


「それは〝無名都市ラ・シティ・サン・ノンの女王〟がお命じになられたからです。理由までは存じ上げませんが」


「お前は誰?」と、少女は訊ねた。


「僕は貴方に使用人としてお仕えする擬人型自律機械エゴイック・オートマタです。どうぞなんなりとお申し付け下さい」


「わかるように説明なさい」と、少年を睨みつけた。


「僕の知識は限定的なものであり、把握している事項は多くありません。ただ自らの演算装置エンジンに組みこまれた基本的接遇プログラムに従って応答していることを、ご理解ください」


 少女は苛立ち、サイバーブーツの爪先で床を叩いた。ぐるぐると輪舞する疑問と疑惑に対する回答を、この藍銅鉱アズライトの瞳の少年は持っていない。或いは、そのように振舞っているのかもしれないけれど。知りたいこと、確かめたいことが無限にあるのに。


 ここで無意味な問答を続けることに、意味はあるだろうか。部屋を抜けて、話の通じる誰かを探したほうがいいのかもしれない。どうやら、大きな屋敷のなかに居るようだし。それとも――この部屋もこの少年も、夢の産物に過ぎないのだろうか。あの時――あの青い目の青年に会った瞬間から、分かたれていた夢と現実が混ざり合い、曖昧になってしまった。はじめから、二者の境界線が存在していたなんて証拠はないけれど。


 ブラケットランプに湛えられたホログラフの灯火が、微かに波打っている。部屋の床と壁が、僅かに振動している。そんな些細な異変を訝しむ余裕が、少女には残されていなかった。


「――この部屋は現在、閾地いきちの侵食を受けています。貴方が目覚めたことが判ったのは、そのためです」


 少年が部屋の扉に向き直り、移動した。グローブに包まれた小さな手が、黒光りする鉄扉のドアノブを掴む。突風に煽られているみたいに、重々しい扉ががたがた鳴っている。 


「待ちなさい」


 少女は詰め寄り、片手で少年の胸ぐらを掴んだ。小柄な子供とは思えない、金属と樹脂の重さ。それでも少女は軽々と少年を吊り上げて、踵を床から引き剥がした。ひとつだけ――もうひとつだけ、どうしても訊いておきたいことがある。答えが得られなくても、訊きださなければならないことが。


 薔薇色の瞳と藍銅鉱アズライトの瞳が、間近で見つめ合った。


「わたしは、どうなった?」


 少女は訊ねた。


「わたしは、どうして生きている?」


 脅迫めいて、少女は訊ねた。


「わたしは――わたしはなんなの?」


 高圧的に、威圧的に、少女は訊ねた。


 握りしめた手が震えていた。それは自らの凶暴な腕力への慄きだったのかもしれないし、理解できない状況への怒りを抑えているからかもしれなかった。壊そうと思えば、壊してしまえる――この少年が機械でも、そうでなくても。


 瞳孔のない目は瞬かない。褐色の人工皮膚の面には、なんの感情もなかった。仄かにベージュをおびた小さな唇が告げるのは、きっと少年にとって言うまでもない事実に過ぎなかったろう。


「あなたは〝命なき者ライフレス〟です」


 ボーイアルトが、詩を詠うように。


「聞いたことがあるはずです。現代の吸血鬼、都市の人狼、電脳現実を侵す魔女。殺せども死なず、人の血を啜り、最後の都市ターミナルの夜に巣食う、テクノロジーの悪夢――」


 少年の冷たい手が、シャツの襟を握りしめる少女の手首に触れた。


「――それが貴方です、マイ・レディ」


 ブラケットランプとアロマキャンドルの灯火が掻き消え、刹那の後、再び灯った。けれどそれは、淡い燈色の光ではなく、病んだ緑の炎となって燃えあがった。腐ったような輝きが部屋を満たし、一切を毒々しく染めあげていく。床と壁を震わす振動が大きくなり、ピアノラが不協和音のバリエーションを奏で始める。もう殆ど立っていられないほどにそれは強まり、部屋全体が軋みを叫ぶ。深海の水圧のなかに、突然、投げ込まれてしまったみたいに。


 少女はようやく異常を悟り、そして気付いた。部屋の外側で、悪夢が脈動していることに。けれどそれは自らの悪夢じゃない。


 自律機械オートマタの少年が、半ば乱暴に少女の手を振り払った。両足が地を捉えると、少年は再びドアノブを掴んだ。鉄扉の揺れが大きくなっていく。ガラス細工じみた目が、まっすぐに少女を仰ぎ見た。


「帰るためには、貴方の力が必要です。悪夢の、力が」


 言葉の意味を解することは、やはり少女にはできなかった。けれどいま起きている事が、好ましからざることは解る。少年にとって、おそらく自分にとっても。部屋の四隅から、黒い影が滲みだしてくる。それは無形の触手を伸ばし、蠕動するはらわたみたいに、蠢きながら成長していく。


閾地いきちに囚われたこの場所を、再び現実に接続する術を探してください。どうか、貴方自身が為さりたいことのためにも。どれだけ時間がかかろうと、僕は待っていますから」


 小さな世界が変貌していく。豪奢な家具が溶け、暖炉から悲鳴が轟き、床が泥となって崩れていく。あの日、雨に打たれながら見た、世界が蕩ける光景――あれと同じように。


 少年の口元が、微笑みを浮かべた。感情のこもらない、作り物の笑顔を。


「行ってらっしゃいませ、マイ・レディ」


 扉が開かれたとき、濁流のように溢れだした闇色の霧が、一切を飲みこんだ。妖しい緑のきらめきも、狂ったピアノの音色も、もう見えない、聞こえない。すべての光と音とが失われ、小さな世界に宇宙の暗さと静けさが満ちた。


 少女は、悪夢を手繰り寄せた。それは見知らぬ誰かの夢で、瀝青れきせいの匂いを漂わせていた。


 §


 湿った空気のなかで、水の滴る音が残響している。雨の音じゃなく、滴る一雫ひとしずくが水たまりに零れて微かな波紋となる時の、静謐な響き。ずっとずっと、聴き入っていたくなるような。


 闇の暗幕が開かれたとき、少女はひとり佇んでいた。イブニングコートを着た少年の姿は、どこにもない。あの宮廷じみた部屋すら、幻燈が映した一幕だったように掻き消えていた。


 少女は視線を落とし、自分を眺めた。身に纏っているものは、確かにあの深紅の礼装だった。どこからか吹いてくる風が真白な髪を弄ぶのを、視界の隅に見た。少なくとも、鏡に映ったあの姿だけは幻じゃない。


 闇が去ってなお、暗い場所だった。見上げれば、そこに空はない。街を覆う灰色の雲も、その向こうにあるという星の海もなく、ただ暗い空間が広がっている。どこか地下深く――信じられないくらい広大な空洞。地面には灰と塵が降り積り、砂漠じみた風紋を描いている。古代の円形劇場を想起させる石柱と広間からなる灰色の遺跡が、周囲に散在している。


 それらの形を暗みに浮き立たせているのが、緑の灯火を宿した街灯だった。堆積物のなかからわずかに表面を覗かせる石畳に沿って、彼方まで炎の列が続いている。すべてが灰色の世界で、緑の灯火と少女の姿だけが、ほんの小さな色彩だった。


 悪夢と現実の錯綜、混濁する理性と狂気、目まぐるしく移り変わっていく景色――世界が、真相を明かすことを嫌がっているのか。それとも自分はとうに狂い果てていて、ベドラムのベッドのうえで終わらない夢を見ているのか。もう、どちらでもいいのかもしれない。このまま立ち止まって考えを巡らすことが、最良の選択とは思えなかった。動き続けなければ、見えない生糸に絡めとられてしまう――そんな焦燥感。


 歩みを始める。靴跡が残される。緑の街灯の導きに従って、一歩、二歩、三歩、四歩――踏みしめた灰塵が舞い落ちる音さえ聴こえそうな、静寂。その静けさが破られたのは、五歩目を踏みだした時だった。


「ライフレスか。実に久しい」


 女とも男ともつかない、模糊とした声。


「面白い悪夢を抱えている。薔薇のように真赤くて、光を飲みこむほどに重い。低劣なまでの死の欲動が渦巻いている」


 そこにあるのに、彼方から響いてくるような。


「だが悲しいかな。この者の霊脳コールドはあまりに幼い。くらい目のまま夜を歩けば、道を外し、水底に溺れるのが末であろう」


 深紅のコートが翻った。瞬きさえ終わらない間に、少女の手は背後の存在を捕えていた。けれど、掴んでいるのに触れているという実感がなかった。


「ほう、我を手繰れるのか」


 それは掌握されながらも全体を震わせて振動し、空気に声を伝わせた。磁力の反発みたいな不確かな感触だけが、手のひらにある。熱も重さも、感じることができない。


「貴様の疑問はよくわかるぞ、幼きライフレスよ。実体ハードの楔に繋ぎ止められた者たちにとってみれば、我は確かに〝掴みどころのない〟存在だ」


 少女は、うんざりとため息を吐いた。要領を得ない話は、もうたくさんだった。会話という行為は、いつから暗号の解き合いになったのだろう。


 くぐもった声で笑うその存在は、形容するならば太った猫だった。丸っこい胴体、短い二本の脚、小さな頭。もっとも、そんなふうに見えるだけで、明らかに既知の生き物として理解できるものじゃなかった。物体と呼ぶことすら、正しいのか。


 その存在は、濃密な影の塊で形作られていた。光を照り返さない純粋な黒で、輪郭は蜃気楼みたいにぼやけている。頭に見える部分には目のように二つの穴があり、そこには黒という色さえなく、虚無としか言えないなにかが覗いている。


「お前は誰?」と、ついさっき別の誰かに投げたのと同じ質問を、少女は口にしていた。すると、首根っこを掴まれていた影が煙のように消散して少女の手から逃れ、また宙で凝集して猫の形となった。


「それは我を我たらしめる自性の概念について問うているのか? それとも我のような存在に宛がわれた真性の定義について知りたいということか?」

「答える気はないってこと?」

「我はヘットだ」


 影の猫が、応えた。


「ヘット――それが我が名だ。さて、今度はこちらが問う番だぞ、幼きライフレスよ。貴様は何者で、なんのためにこの地を訪れた?」


 少女は問いを無視して振り返り、再び街灯に照らされた道を歩きだした。わけのわからない化け物相手に、自分の手札を明かすつもりはなかった。もっとも、その札に描かれているものが持つ意味を、未だに解ってはいないのだけれど。

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