Red Shift–01–
瑞々しいチェリーの香りと欠けたサティの旋律は、優しい闇の抱擁。
眠りの終わりはうんざりする二日酔いのはじまり、ぼんやりとした憂鬱のはじまり、厭わしい今日のはじまり。タバコの残り香と有線ラジオの暗いニュースが現実の訪れを告げるなか、また雨の降りしきる街へと這いだしては、マスクで顔を隠した雑踏に紛れ、宙に踊るホログラフの広告を眺め、穢れた空気を呼吸しながら歩いていく。延々と続くその繰り返しのなかで、心が腐敗していくのを受け入れることが、この街で目覚めることの意味だった――あの瞬間までは。
少女が目を覚ましたのは、知らない部屋だった。天蓋から赤いドレープカーテンを垂らしたベッドの上で、心地よく肌を撫ぜるのヴェルヴェットの毛布に包まれて――果実の芳香とピアノ弦が弾かれるメロディに包まれて。それがあまりに心地よかったから、睡魔の手から逃れるのは辛いことだった。まとわりつく蜘蛛糸の繭を引きちぎるような苦労の果てに、ようやく身体を起こすことができた。
赤いアフガン絨毯が敷かれた床を踏みしめた時、少女は不思議な違和感を覚えた。神経ファイバーが伝達するデジタルな感触とは違う、しっとりとした布地の柔らかさと重たさを、足裏に感じたから。
少女は、霞がかった意識と曖昧な記憶を抱えながら立ちがり、あたりを見渡した。ブラケットランプの薄明かりが照らしだすその部屋は、まるでグロテスクな貴族趣味の雛形で、悪趣味なくらいゴージャスだった。
背もたれに貝殻の装飾をあしらった椅子と、ビザンチンリーフのパターンを刻み込んだ
また夢を見ているのだろうか――少女はぼんやりとそう思った。ここがどこなのか、どうしてここにいるのか。その故を知ることができる記憶はない。最後に覚えているのは――
部屋には、ひとつだけ扉があった。華美な雰囲気からは浮いている、重厚な鉄の扉。恐ろしい虜囚を閉じ込めておくための、牢獄のそれに似た。けれど少女の視線が向く先は、別の場所だった。
少女が見ているのは、扉の右隣に据えつけられた大きな姿見だった。名状しがたく有機的な――そしてどこか邪悪な――デザインの黒い枠に縁取られた、
そこには、知らない誰かが映りこんでいた。雪のような真白に染まった髪と、暗い光を宿した薔薇色の瞳――精緻な美貌を湛えた、その少女。正体を探るように手を伸ばし、冷たい表面に触れたとき、現実と鏡像の手のひらが、ぴたりと合わさっていた。やっと、それが誰なのかを知った。
少女が身に着けている服は、紅薔薇を思わせる高貴な礼装だった。蝙蝠の羽じみたテイルコート、トランプのスート柄のコルセットベスト、二本のスキニーベルトで固定したボックスプリーツのショートスカート――諸共に深紅で染めあげられ、銀糸の刺繍が施されている。白いフリルシャツのカラーには黒いリボンタイが巻かれ、留め具にはロードライトのブローチ。寸法から細部の装飾に至るまで、すべて少女だけのために
少女はじっと自分を睨めつけた。頭の先からゆっくりと視線を下ろし、隈無く、疎漏なく。そして、赤いサイハイソックスに包まれた脚を検めた時、少女は歩くたび感じた違和感の正体に気が付いた。その脚は粗悪な人工皮膚を貼りつけた
それを思い出したとき、ジグソーパズルのピースみたいに散らばっていた記憶が組みあげられ、形となり、あの日の光景を追想させた。代わるがわる映しだされる、スライドみたいに。
冷たい雨と、青い瞳の男。冷たい雨と、蕩けた世界。冷たい雨と、刃の暖かさ。
そう、確かに覚えている。
悪夢とひとつになった、あの瞬間。自分が変わっていく、あの感覚。
喉元に手を当てる。そこには微かに、傷の痕が残っている。あれは夢じゃなかった。自分は死に、そして悪夢のなかから帰ってきた。
辛かった、痛かった、どうしようもなく寒かった。死の刹那を思い、少女は自らの肩を抱いた。どういうわけか、笑いが零れた。なにがおかしいのかも解らずに、ただ静かに笑った。一滴の涙が、頬を伝った。それは床に達する前に凍てついて、小さな氷の粒となった。少女はそのことに、気づかない。壊れたおもちゃみたいに、
手のひらを見る。この手は確かに悪夢に触れ、掴んだ。その繋がりは、今も断たれてはいない。願い、手繰り寄せれば、悪夢を呼びだすことができる。たったいま、この場所にだって、見えない恐怖の蠢きを感じる。
自分を蘇らせたものがなにかは知れない、解らない。ただ確かなのは、この手に力があること。自分を傷つけるものから逃げることも、心に澱んでいく暗い感情を
少女は思い浮かべた。自分を壊し、穢し、殺したものたちを。そして、きっと彼らにだって流れているであろう赤い血の甘さを思い、また密かに笑った。
その時。
耳障りな金属音が、部屋に響いた。それは、鉄の扉に鉄のノッカーを打ちつける音で、正確に、規則正しい間隔で四回鳴った。
少女が何か動作を起こす前に、扉が押し開けられた。ゆっくりと、やおらに、丁寧に。扉の重さに蝶番が耐えかねて、悲鳴をあげていたけれど。
「ああ、やはり――」
部屋に入りこんできた者が、まっすぐに少女を見つめ声を漏らした。微かな驚きに見開かれた目は、青とも緑ともつかない色彩を浮かべている。
数秒の沈黙があった。
その者は、入ってきた時と同じように礼儀正しく扉を閉めた。それから再び少女に向き直ると、片膝を折り、顔を伏せて拝謁の礼をした。
「この時を待っていました。お目覚めになったのですね、マイ・レディ」
柔和で、温厚で、けれど感情の乗らない声。バロック時代の讃美歌みたいに
その者が顔をあげる。褐色の肌に宛がわれた整った目鼻、
「僕は貴方の使用人を務める、
そう言って、口元を微笑ませた。目には瞳孔がなく、顔には人工皮膚の
少年の服装は、イブニングコート、ダブルブレストのベスト、膝丈のスラックスの三種に、ワイドカラーのシャツと黒いボウタイだった。略装ではあるけれど、確かに使用人風のデザインに仕立てられている。
「ですので僕のことは、どうぞお好きなようにお呼び下さい、マイ・レディ」
少年は立ち上がると、壁際のサイドボードに移動してその
「なにか、お好きな曲はございますか?」
返答が得られなかったから、少年は自身の判断で赤い箱を選びだした。ピアノラの前に移動して箱を開き、取りだしたロールを、サティのスコアと入れ替える。茶色のローファーがプレイペダルを踏むとローラーが回転し、ミステリアスな主題の旋律が宙を漂った。
「エニグマ変奏曲の第六版です。再現率は81パーセント。スコアの欠けた部分は
言葉が途切れた。少年は自嘲めいた苦笑いを浮かべ、首を傾げる。ランプの光を浴びた藍銅鉱の髪は、揺れるたびに色彩を変えた。
「――僕は喋りすぎでしょうか、マイ・レディ? どうやら僕の
そう言いながら、少年は白い手袋に包まれた指でテーブルの表面をそっと擦った。指先には、微かに黒い埃が付着していた。それを見つめるガラス細工みたいに透き通った目に、感情の冷熱は宿っていない。
「今日より五二五六〇時間と六分六秒前、貴方がこの部屋に運び込まれたその時、僕は起動しました。それ以来、ずっと眠れる貴方のお世話をしてきたのです。日毎、貴方の髪を梳き、メイクを整え、部屋の掃除をして。終いには飽きて、このように埃が積もるのを許してしまうくらいの長い間を。だからどうか、うるさく思われないでください、マイ・レディ」
少年はそれきり口を閉ざし、身じろぎもせず佇んだ。電源が切れた機械みたいに。けれど
少女は、目元を手のひらで押さえると、深く息をついた。百年も年老いてしまったほどに、病み、疲れた、冷たい溜息。淡い空気を震わせるピアノの調べが変奏し、新たな旋律が紡がれる。少女はゆっくりと手を下ろし、暗さを増していく薔薇色の瞳で少年を見下し、そして言った。
「……訊きたいことはたくさんある。けれど、まず最初に言っておくわ」
その声音は悪魔の誘惑みたいに甘美で、けれど天使の説教みたいに傲慢だった。
「わたしを〝レディ〟と呼ばないで」
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