未来への対価
「起きたか、この寝ぼすけめ」
はっきりとしない意識の中に聞き覚えのある声が響いた。視界には正方形のパネルを組み合わせた天井が見えるばかりで、誰の姿もないが、消毒液の匂いに混ざるポップコーンのような香りで声の主がわかる。左に首をかしげて見ると、案の定、先生がタバコを咥えて座っていた。
「人の命を掛け金にして博打を打つとは、根っからのギャンブラーらしいな、お前は」
棘をたっぷりとつけて皮肉を言う先生は、裏腹にひどく優しい笑みを浮かべている。アンバランスな人だ。身体を起こそうとして腹部に痛みが走る。そういえば包丁で刺されたんだった、と
先輩は――聞こうとして指がうまく動かないことに気づく。首をぐいと動かして見ると、右手のひらに包帯がぐるぐると巻きついていた。
「お前を刺したあと、その包丁で死のうとしたんだよ、彼女は。だけど、それをお前が止めた。包丁を握り締めてな。その傷は名誉の負傷というやつだ」
そのおかげで彼女は無傷だよ。先生は誇らしげにいう。
「わかってる、そんな目で見るな」
身体的な傷など問題ではない。先輩の精神が心配だった。精神の崩壊、人格の融解。この一週間彼女の心は血を流し続けていた。
「最後の一枚でお見事、ジャックポット」
ぷかりと煙を吐いて、おどけた様子で言う。
「奇跡的に容体は安定している。雨降って地固まるというやつだ。お前のそれはそのための対価、といったところかな」
僕の腹と右手のひらをタバコで指して笑う。明るい部屋で見る先生はよく笑い、思っていたよりも肌の色が悪くて、大人だった。
「だが、まだ安心は決してできない。なにせ七つの人格、いや、彼女自身を含めれば八つか。八つの人格の統合というのは一筋縄ではいかない。やっと彼女はスタートラインに立てたばかりで、これから先苦しい道のりを行かねばならない」
だからこそ、お前には責務を果たしてもらわなければいけない。先生はそう続けた。僕は先生の言いたいことがうまく掴めずに首を傾げる。
「おいおい、勝手に人の命をかけといて、ひとつ勝ったら『はい、さようなら』か? そんなことはお天道様が許しても、この私が許さん。彼女を夢から現実に引きずり戻したのはお前だろう。なら、彼女がくじけてしまわないように支えていくのが、お前の責任だ」
でも、僕なんかがそばにいていいのだろうか。僕のような罪から逃げてきた臆病者が。
「お前がいなきゃ話にならん。彼女がお前と共に歩くことを望んでいるんだ」
先輩が、どうして僕なんかと。
「そんなことは本人に聞いてくれ。まあ、普通態度を見てればわかると思うがな。男ってやつはこれだから」
先生がやれやれと肩をすくめる。どうしてそんな蔑んだ目をされるのかわからない。若いっていいわぁ、などとぶつくさ言いながら立ち上がり、背後に垂れ下がっていたカーテンを開く。その向こうには僕が寝ているのと同じ白いベッドがあり、布団がやんわりと膨らんでいた。
白いシーツの上に艶やかな黒い髪が広がっている。青白い血管の浮き出た細い腕が力なく置かれている。月のない夜のような黒い目が僕をじっと見つめている。七色先輩が僕を見つめている。
ほら、聞いてみろと先生が意地悪に言う。僕がどうしたものかと思案していると、先輩の口が動いた。音が漏れた。音は繋がり言葉になった。それは名前だ。僕の名前。先輩が僕の名前を呼ぶ。
そこにいるのは七色初架先輩だった。たったひとりの彼女だった。
「いいか、お前はこれから七色と生きていくんだ」
先生が携帯灰皿に灰を落としながら言う。なにも気にしていない風を装ってくれている。僕の涙に気づかないふりをしてくれている。
僕は泣いていた。初架先輩に会えた嬉しさで泣いていた。ひとりの先輩を救うために自らを殺すことを選んだ彼女たちを思い泣いていた。
せめて僕だけは覚えておこうと思った。等しく僕を愛してくれた、僕の大切な人たちを。
――目を閉じれば優しい微笑みが浮かぶ。
――太陽のような温もりが頭皮をくすぐる。
――あの夜の甘い香りが鼻先をかすめる。
――無条件の信頼の重みが両腕によみがえる。
――照れ隠しの罵倒が耳をつく。
――抗いがたい誘惑が心を撫でる。
――絶対的な愛が僕を包む。
僕はこれから生きていく。かけがえのない、七色先輩と生きていく。
先輩、僕はあなたに伝えたいことがたくさんあるんです。謝ったり、好きだって伝えたりしないといけないんです。無くしていた言葉が溢れて止まらないんです。でも、最初の言葉は決めてたんです。あなたにこう言いたいって。先輩。
「おかえりなさい」
七色先輩と一週間 芝犬尾々 @shushushu
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